第百四十八話
女王ナーシャの私室には、重苦しい沈黙が支配していた。
アドリアンとメーラの二人にテーブルを挟んで座るのは、セルペントスの女王ナーシャ。
テーブルの中央には、アドリアンが「散歩の途中で見つけた」という手のひらサイズの黒い石がぽつんと置かれている。
石が放つ周囲の空気を歪ませる不吉な気配が、重苦しい沈黙の元凶だ。
その沈黙を破ったのはアドリアンであった。
「さてさて、女王さま」
何の躊躇もなくその黒い石を手に取ると、指先で器用に弄びながらにこりと笑う。
「この石……なんだか、ぷんぷん匂うんだよなぁ。あぁいや、物理的に臭いとか、そういう下品な意味じゃないよ?なんというか、こう……『面倒事の匂い』とでも言うのかな」
アドリアンは、手の中で黒い石を弄びながら話を続ける。
「俺の『勘』がね、告げているんだ。この何の変哲もないただの石ころこそが……大草原を狂わせて血と涙に濡らしている、全ての元凶なんじゃないかってね」
「な、何を馬鹿なことを。ただの石ころではないか」
あくまで知らぬ存ぜぬを貫こうとするナーシャ。
そんな彼女の、誰が見ても分かりやすい強がりに、アドリアンはくすくすと笑みを漏らした。
「おや、そうかい?でも、女王様、顔に『私は嘘をつくのが下手です』って書いてあるけど」
その軽口にナーシャは顔をさらに引き攣らせ、ぐっと唇を固く結んだ。
何かを言えば、またこの男の思う壺だ──そう判断したのか、彼女はただ黙秘を貫くことで、必死に抵抗を試みる。
しかし、そんな子供じみた抵抗を、アドリアンが許すはずもなかった。
今までの悪戯っぽい笑みを消すと、瞳に真剣な色を宿し畳みかけるように言った。
「君の民たちは、里の異変に怯えていた。子供たちの顔色は優れず、作物は元気をなくし、水源地の水は細くなっている……。……女王様。まさかとは思うけど、『霊脈』に何かあった、とか?」
──霊脈。
それは大草原の大地の下を流れる、生命エネルギーの巨大な川。
霊脈の恩恵があるからこそ、大草原は他の国々と深く関わることなく、独自の豊かな生態系と文化を育むことができた。獣人たちの強靭な生命力も、霊脈の力が源となっているのだ。
「霊脈があるからこそ、大草原は外界から閉ざされていても、これほどの繁栄を享受できているわけだけど……この石は、大地が上げている悲鳴のように俺には思える」
全てを見透かすかのような鋭い問いかけが、静まり返った部屋に響き渡った。
アドリアンの鋭い視線が、沈黙を続けるナーシャを射抜く。だがその時、重苦しい空気に耐えかねたのか、黙って成り行きを見守っていたメーラがアドリアンの袖を引いた。
「ねぇ、アド。その、『霊脈』って……何なの?シャヘライトとは、違うものなの?」
「おっと、ごめんごめん、メーラ姫。説明が足りなかったね。霊脈とシャヘライトは、似ているようで全く違うものなんだよ」
アドリアンは子供に言い聞かせるように優しく、そして分かりやすい言葉を選んで続ける。
「今まで見てきたシャヘライト鉱石は、いわば『誰でも使える魔力の塊』みたいなものだ。魔族でも、人間でも、誰でもそのエネルギーを引き出して、自分の力に変えることができる。でもね、この大草原の『霊脈』は違うんだ」
「違う……?」
「ああ。この霊脈のエネルギーは魔族や人間が、直接自分の力として取り込むことはできない。大草原で生まれ、大地を聖地として敬い、長年共に生きてきた獣人たちだけしか、その恩恵を受けることができないんだ。……いわば、この大草原の住人だけが受けられる、特別な『加護』みたいなものなのさ」
アドリアンの丁寧な説明にメーラはこくりと頷いた。ようやく、霊脈なるものの概念を理解できたのだ。
そしてアドリアンは再び、鋭い視線をナーシャへと戻す。
「さて、聡明なる女王様もよくご存じの、『霊脈』についての基礎講座が終わったところで……もう一度聞くけど、どうなんだい?この石について、何か知っていることは?」
だが、ナーシャは最後の抵抗を試みるかのように、ぷいと顔をそむけあくまで白を切った。
蛇の尾の先がピクピクと小刻みに揺れているが、本人は気付いていない。
「な、な、なんのことかな?わらわには、その『れいみゃく』とやらも、その黒い石ころのこともさっぱり、これっぽっちも、見当がつかないのじゃが?」
なおも抵抗を続けるナーシャの分かりやすい嘘に、アドリアンはやれやれとわざとらしく深いため息をついた。
そして心底困った、という表情を浮かべながら悪魔のような提案を口にする。
「そっかそっか、女王様は何もご存じないと。いやぁ、それは困ったなぁ。……じゃあ、仕方ない。さっき、あれほど俺たちに懐いてくれた、君の可愛い民衆たちにこの石を見せて聞いて回ることにしようかな」
「えっ……」
「『ねぇねぇ、みんな。君たちの心優しき女王様は、もしかしたら、この石が里の不調の原因かもしれないってことを知っていながら、何か深〜い理由があって、教えてくれないみたいなんだ。みんなは、どう思う?』ってね。さてさて、彼らは一体、どんな顔をするだろうねぇ?」
アドリアンの言葉は脅しではない。コイツならば、本当にやりかねない──。
民衆からの信頼を盾にした残酷な脅し文句に、ついにナーシャの最後の抵抗が音を立てて崩れ去った。
完全に外堀を埋められ、逃げ場を失ったことを悟ったナーシャは、悔しげに唇を噛み締めた。
「ぐ……ぐむむむ……っ」
しばらくの間、部屋には重苦しい沈黙だけが流れる。
やがてナーシャは全ての抵抗を諦めたかのように、天を仰いで長いため息を吐いた。
「……はぁ」
それと同時に、今まで苛立ちに震えていた彼女の美しい虹色の尾が、だらりと力なく床に落ちる。
「……まぁ、もうよいわ。どうせ、お前のような人間に話したところで、何かが変わるわけでもない」
そうしてナーシャは、どこか遠くを見つめながら、静かに口を開く。
「その石は、全ての始まり。そして、終わりの兆しでもある……」
「……なんだって?」
「──大草原はもう……滅びる運命にあるのだ」
アドリアンとメーラが息を呑む音だけが、静まり返った部屋に大きく響き渡った。
♢ ♢ ♢
──はじめは、些細な兆候だった。
『女王様、どうも今年の薬草は育ちが悪うございますな。例年通りに世話をしておるのですが……』
『最近、沼の水嵩がほんの僅かですが、減っているような気がいたします』
『遠征に出た戦士の話では、他の部族の土地でも、狩りの獲物がめっきりと減っているとか』
最初はただの天候不順か些細な偶然だと、そう思っていた。
だが、そのような報告が里の内外から、ナーシャの耳に届くようになるにつれ、彼女の中にあった些細な懸念は次第に拭い去ることのできない大きな疑惑へと変わっていった。
(なにかが、おかしい……なんじゃ……?なにが起こっている……)
そして疑惑が、最も恐ろしい形での確信へと変わったのは、年に一度だけ開かれる六大部族と、それに連なる主要な大部族の長が一堂に会する大規模な族長会議でのことであった。
張り詰めた空気の中、玉座に座るリガルオン一族の長、獅子王レオニスが苦渋に満ちた表情で口を開いたのだ。
『──霊脈が、枯れかけている。このままでは、いずれ、大草原は死の大地となるだろう』
静かな、しかし全ての獣人の運命を決定づけるかのような絶望的な言葉に、その場に集った百戦錬磨の族長たちは、誰一人として声を発することができず、ただ絶句した。
ナーシャもまた、その一人であった。
静まり返った会議の場で、六大部族の一人——ヴォルガルドの族長グレイファングが、低い声で問う。
『レオニス王……。それはリガルオン一族が管理する、霊脈の源流たる聖地に何か異常があったということか?』
その問いに、獅子王レオニスは答えなかった。
無言で、懐から一つの黒い石を取り出すと、それをゆっくりと机の中央に置いた。
光を吸い込むかのような、不吉な黒。
石を見た瞬間、その場にいた全ての族長たちが再び息を呑む。ナーシャもまた、瞳を大きく見開いていた。
何故なら、その石は——ここ最近、大草原の各地で原因不明の不調が起きている場所で、急激に目撃されるようになった石だったからだ。
『これは……「霊脈の死骸」だ』
静寂の中、レオニスは重々しく続ける。
『原因は分からぬ。だが、霊脈は今この瞬間も確実に死へと向かっておる。……そして聖地にはこの石がおびただしい数、湧き出てきておるのだ』
『……』
『皆も、ここ最近の大地の不調や、得体の知れぬ違和感に気づいているはず。全ての原因こそが、霊脈の死……そして、その死骸である、この石なのだ……』
ナーシャも、グレイファングも、他の六大部族の長たちも。
誰一人として、何も言うことができなかった。絶対的な静寂だけが、その場を支配する。
そして、理解する。
それは、つまり——。
大草原は、もうじきその命を終えるということに他ならない──。
♢ ♢ ♢
ナーシャの回想が終わると、部屋には再び息が詰まるほどの重い沈黙が流れた。
「このままでは皆、共倒れになる。だから、わらわ達は──」
そこまで言葉を紡いだところで、ナーシャは、はっと我に返ったかのように、それ以上語ることをやめた。
「……わらわに言えるのは、ここまでじゃ」
固く口を閉ざし彼女はそう告げる。
「……」
メーラはナーシャが語った言葉を黙って聞いていた。
大草原が、死ぬ——。
その言葉は唐突で、そして絶望的でにわかには信じることができない。
彼女は確かめるように、隣に座るアドリアンの顔色を窺った。
そして——。
「……!」
メーラは、見た。
いつも飄々としてどんな窮地ですら悪戯っぽい笑みを絶やさないアドリアンが、深い悲しみを瞳に宿しているのを。
「アド……?」
メーラの心配そうな声も、今の彼には届いていない。
悲しみに暮れる英雄は、誰に聞かせるともなく呟く。
「──そうか。そうだったのか……。だから、ゼゼアラやグレイファングみたいな男たちも……」
アドリアンは、全ての謎の答えに──。
そして最も知りたくなかった残酷な真実にたどり着いてしまったかのように、目を悲しげに伏せる。
いつもの英雄らしからぬアドリアンの横顔を、メーラは心配そうに見つめていた。
しかしアドリアンはすぐにその悲しみの色を瞳の奥底へと沈めると、何事もなかったかのように、再びその視線に鋭い光を宿してナーシャへと向き直った。
「……それで、女王様。君は、この壮大な『椅子取りゲーム』で、一体どういう立ち回りを演じているのかな?自分の部族だけは、なんとしてでも最後の椅子に座らせようっていう、ちょっぴり自己中心的な、でも女王としては実に正しい判断をしてるってことで合ってる?」
続けて彼は問う。
「後、この残酷な事実を知っているのは……誰だい?」
その問いかけにナーシャは一瞬だけ驚きの表情を浮かべたが、やがて全てを諦めたかのように自嘲気味に答えた。
「……六大部族の長、そして、我らのような大部族の長の中でも、ほんの一部の者だけじゃ。……まぁ、中には、この状況を好機とばかりに、本気で大草原の覇権を狙っておる、どうしようもない阿呆もおるがのぅ」
そして、彼女は吐き捨てるように続ける。
「……そして、お主の言う通り……わらわも、利己的な判断をしている一人。わらわはセルペントスの一族を、何としても守り、そして発展させる義務がある。他の部族を蹴落としてでも……」
彼女の声には、確かに私欲の色が滲んでいた。
しかしアドリアンは瞳の奥に、彼女が根っからの悪人ではないこと、己の民を守ろうと必死にもがいている一人の指導者の姿を確かに見て取っていた。
「……」
──全ての謎が、アドリアンの頭の中で一つに繋がった。
彼は瞳に宿っていた深い悲しみを、燃えるような揺るぎない決意の光へと変え、静かに立ち上がった。
そんな英雄の姿に、ナーシャもメーラも思わず息を呑む。そんな中、アドリアンは目の前の女王に向かって、すっと優雅に手を差し伸べた。
「では、そんな私利私欲に塗れていながら、誰よりも正直者のナーシャ女王。一つ、面白い提案があるんだけど」
そして彼は悪戯っぽく、自信に満ちた笑みを浮かべて言った。
「俺と一緒に、大草原の覇権を握らないか?——実は俺、これから本気で、この大草原を、力ずくで制圧するつもりなんだよね!」
シン、と。時が止まったかのような、絶対的な静寂が部屋を支配する。
アドリアンの突拍子もない、不遜極まりない提案に、ナーシャはしばらくの間、無表情で硬直するばかりであったが……。
やがて、その口から少女のような声が、ぽつりと漏れた。
「──はい?なに言っちゃってんの、アンタ」
女王の威厳も忘れた、彼女の素の声色が部屋に虚しく響き渡った。




