第百四十六話
戦場に訪れた一瞬の奇妙な静寂。
その中心で、元ルミナヴォレン族長フェンブレは、ぜぇぜぇと荒い息を繰り返す。
でっぷりと肥えたその腹を揺らしながらも、これまでの人生で一番と言っていいほどの得意満面の笑みを浮かべていた。
「ぐわっはっは!見たか、わしの見事な槍さばきを!」
自らの奇襲という名の横槍が、戦況を覆したのだと彼は完全に信じ込んでいる。
その勘違いは、留まるところを知らない。
「さぁ、我が同盟の誇る大戦士たちよ、わしに続け!もはや狼どもに恐るるに足らず!族長グレイファングの首は、このわしが直々に獲ってくれるわ!」
フェンブレはあたかも自分がこの軍勢の総指揮官であるかのように、高らかに叫んだ。
しかし同盟軍の大戦士たちは、そんなフェンブレに一瞥もくれることはなかった。
「邪魔だ、デブキツネ!」
大戦士たちは忌々しげにそう吐き捨てると、彼の横を凄まじい突風を巻き起こしながら駆け抜けていく。
その余波を受けフェンブレは「うわっぷ!」と情けない声を上げ、でっぷりとした身体を支えきれずにその場にすっころんでしまった。
「……まぁ、なんだ。助かったよ、デブキツネ」
そんなフェンブレの姿に倒れこんでいたイルデラは苦笑いを浮かべながら、ぶっきらぼうにそう礼を言った。
しかし、感謝の言葉は当人のキツネ耳に届くことはなかった。
「おのれ、大戦士の分際でこの族長(元)を虚仮にしおって……!後で覚えておれよ……!」
フェンブレは地面に手をつきながら自分を無礼にも突き飛ばしていった大戦士たちに向かって、ぶつぶつと恨み言を呟いているのであった。
そんな彼の虚しい叫びを置き去りにして、戦場の一角で、まさに頂上決戦と呼ぶにふさわしい、大戦士同士による苛烈な大混戦の火蓋が切って落とされる。
「オラオラオラァ!」
リノケロス族の大戦士が、その巨体から繰り出す戦斧で大地を叩き割れば、熊の獣人である大戦士が、持ち前の剛腕でヴォルガルド兵を掴み、投げ飛ばす。
その乱戦の中を、パンテラ族の大戦士が黒い影となって駆け抜け、敵の陣形を切り裂いていく。
多種多様な種族で構成された同盟軍の強み——それは、予測不能な、変幻自在の連携攻撃にあった。
だが、対するヴォルガルドの精鋭たちも、決してそれに劣るものではない。
「囲め!狩りの時間だ!」
ヴォルガルドの大戦士たちは同盟軍の猛攻に対し、決して個々で応戦しようとはしない。
一体の熊の獣人に三体の狼が。一体の犀の獣人に五体の狼が。阿吽の呼吸で完璧な連携を取り、群れとしての力で、個の武勇を確実に、そして冷徹に削り取っていく。
彼らの動きに無駄はなく、その瞳には獲物を狩るという目的だけが映し出されていた。
「くそっ……なんて奴らだ……!」
「負けるな、押せ、押せぃ!」
力と多様性で圧倒しようとする同盟軍の大戦士たちと、鉄の規律と洗練された連携でそれを迎え撃つヴォルガルドの大戦士たち。
その実力は完全に拮抗し、戦場は、互いに一歩も譲らぬ死闘の様相を呈していた。
しかし戦場全体を見渡せば均衡は、徐々に片方へと傾き始めていた。その原因は……丘の上に立つ、一人の小さなウサギの少年である。
「——右翼の熊部隊、中央の戦線が疲弊しています!今すぐ援護に向かってください!」
「元ルミナヴォレンの遊撃隊!あなたたちの俊敏さを生かして、敵本隊の後方をかく乱するんです!中継を断てば、狼たちの足は止まるはず!」
「左翼の部隊は無理に前進しないで!被害が拡大します!一度後退して、陣形を立て直してください!」
丘の上、軍師モルが小さな体からは想像もつかないほど、的確で力強い指示を次々と伝令のパンテラ兵に飛ばす。
──彼の目にはこの広大で混沌とした戦場の全てが、盤上の駒のように見えているのだ。
神がかった指揮によって、それまで個々の力で戦っていた坩堝の軍勢が、一つの巨大な生き物のように有機的に、効率的に動き始める。
多様な部族の力が、少年軍師の采配という名の糸によって一つに紡がれ、ヴォルガルドが誇る鉄の規律と組織力を、確実に上回り始めていたのだ。
「な、なんだ、この動きは!?右翼の熊を叩いたと思えば、今度は左翼からクロヒョウが……!」
「中央の盾を固めろ!……くそっ、後方だ!後方から、あの忌々しいキツネどもが回り込んできているぞ!」
自らの采配によって、確実に戦況が自軍へと傾いていくのをモルは丘の上から確信した。
(この戦、勝てる──!)
だが、小さな軍師の淡い期待は次の瞬間に無残に打ち砕かれることになる。
「ウォォォォォーーーーーーンッ!!!!」
突如として全ての剣戟の音、怒号、悲鳴を塗り潰すかのように、凄まじいオオカミの遠吠えが戦場全体に響き渡った。
それは、ただの声量ではない。敵も味方も関係なく、その場にいる全ての獣人たちの魂を直接揺さぶり、本能的な恐怖を呼び覚ます、絶対的な強者の威圧感を孕んだ咆哮。
それは──
「!?」
銀色の閃光が、戦場のど真ん中に躍り出た。
土煙が晴れた後に現れたのは、その身に無数の傷跡を刻み、片方の眼を眼帯で覆った、オオカミの獣人。
「グ、グレイファングだ!隻眼の長が出たぞ!」
同盟軍の兵士の一人が、悲鳴に近い声を上げる。敵の総大将がたった一人で姿を現したのだ。
周囲にいた同盟軍の兵士たちは、一瞬の動揺の後、すぐさま彼を取り囲み、槍や剣を向けるが……。
「──遅い!」
冷たく響いた一言と同時に、グレイファングの姿が掻き消えた。
次の瞬間、彼を取り囲んでいたはずの兵士たちが凄まじい衝撃波によってまとめて吹き飛ばされていた。
一方的な蹂躙であった。
隻眼の狼は、ただ戦場を駆けるだけで、同盟軍の屈強な獣人たちを紙切れのように蹴散らしていく。
彼の爪が一閃すれば屈強な熊の戦士が地に伏し、その牙が煌めけば俊敏な猫の戦士が悲鳴を上げる暇もなく吹き飛んだ。
「ウォォォォォンッ!!」
グレイファングが再び咆哮を上げると、声は戦場全体に響き渡り味方であるヴォルガルドの兵士たちの魂を奮い立たせる。劣勢に喘いでいたはずの彼らの目に再び闘志の光が宿り、その動きは勢いを取り戻した。
逆に同盟軍の兵士たちは、その絶対的な強者のオーラを前に、本能的な恐怖で足が竦む。
「怪物めが……!」
数人の同盟軍の大戦士が、グレイファングを止めようと、死を覚悟してその前に立ちはだかる。
しかしグレイファングは、その腕を凄まじい威力で一閃させた。
「……がぁっ!?」
同盟軍が誇る大戦士たちが、たった一撃で木の葉のように舞い、血反吐を撒き散らしながら吹き飛ぶ。
まさに「狼の頂点」と呼ぶにふさわしい、圧倒的なまでの「武」。
あまりにも常識外れの光景を、丘の上のモルはただ震えながら見つめることしかできなかった。
盤上の駒を動かすように、緻密に組み立てたはずの戦略。優勢だったはずの戦況。
──それが、全てがたった一人の、たった一匹の獣の絶対的な力の前にいとも容易く無残に塗り潰されていく。
知の力が、圧倒的な武の力の前に、意味をなさなくなっていく。
(つ……強すぎる……これが、ヴォルガルドの族長の力……!?)
少年の小さな身体はカタカタと震えが止まらなかった。
あまりにも凄まじい武威。凄まじい武威を誇る、大戦士すら、鎧袖一触で蹴散らす、その圧倒的な無聊。
しかしその蹂躙を食い止めるべく、ついに同盟軍最強の二つの牙が動いた。
「この先へは、行かせるかよ!」
「……」
──リノケロス族長イルデラと、パンテラ族長ゼゼアラ。
破壊の化身たるサイの猛将と、影をも置き去りにするクロヒョウの猛将が、グレイファングを挟み込むようにして同時に襲い掛かった。
イルデラの戦斧が轟音と共に振り下ろされ、ゼゼアラの爪が空を切り裂く神速の一閃となってグレイファングの死角を狙う。
同盟軍が誇る、最強の二人が放つ必殺の連携攻撃。
いかなる手練れであろうと、この一撃を同時に防ぐことなど不可能——。
そのはずであった。
「ぬるいわっ!」
グレイファングは二人の動きを完璧に捉えると、イルデラの一撃をいなし、勢いを殺すことなく回転。返す刃で、ゼゼアラの爪撃を弾き返したのだ。
「──!?」
信じがたい体捌きと、圧倒的なまでの技量。
その後も、二人の猛将が繰り出す怒涛の攻撃を、グレイファングはたった一人で一歩も引くことなく、その全てを受け止めそしていなしていく。
その戦いぶりには余裕すら感じられ、次第にイルデラとゼゼアラの方が、防戦一方へと追い込まれていくのであった。
「くそっ……なんて野郎だ!これが、六大部族の長か……!」
イルデラは荒い息を繰り返しながらも、口元には獰猛な笑みを浮かべていた。全身に刻まれた無数の傷も、彼女にとっては、最高の相手と出会えたことへの勲章でしかない。
そんな彼女の姿にグレイファングは隻眼を細め、実力を確かに認めた。
「お前も中々やるな……流石はリノケロスの長よ。だが、この俺と渡り合うには、まだ若すぎる……」
三つの影が戦場で目まぐるしく交錯する。
破壊の限りを尽くすイルデラの戦斧と、神速を誇るゼゼアラの爪撃。その二つの猛攻を、たった一人でいなし続けるグレイファング。
その激しい死闘の最中であった。
ゼゼアラが、悲痛な叫びを上げる。
「グレイファング殿……!」
「ゼゼアラよ。お前は……お前だけは、分かっているはずだ。もはや、こうするより他に、我らに道はなかったと」
「確かにそうだ!貴殿の覚悟も、王の苦悩も、痛いほどに理解している!だが、俺は……俺は、あの人間に、新たな可能性の光を見たのだ!」
「……光?なにを言っている……!」
グレイファングはゼゼアラの言葉を、邪魔な虫でも払うかのように爪の一閃と共にかき消した。
「グレイファング様に続け!我らヴォルガルドの力を見せつけてやるのだ!」
グレイファングの圧倒的な武威に呼応するように、ヴォルガルド軍全体が再びその牙を剥いた。
士気を取り戻した狼たちの怒涛の反撃の前に、優勢だったはずの同盟軍の戦線は瞬く間に押し返され、そして崩壊を始める。
「イルデラさんとゼゼアラさんの二人でも、グレイファングの勢いを止められない……!ど、どうすれば……」
丘の上からその光景を見ていたモルは初めて軍師としての冷静さを失い、顔を青ざめさせてそう呟いた。
だが、震える声に応えたのは隣に立つ総大将の快活で揺るぎない声だった。
「落ち着きなさいモル君。大丈夫、次の手はもうとっくに決まってるでしょ?」
「え?」
きょとんとして顔を上げるモルに、レフィーラは不敵な笑みを浮かべる。
「そろそろ……私の出番だねってこと!」
彼女は静かに手に持つ壮麗な弓を構えた。
そして瞳を閉じ凛とした声で、言霊を紡ぐ。
「精霊弓よ!!『星弓の射手』レフィーラに力を!」
宣言に応えるかのように、レフィーラの身体から、彼女が構える弓から、凄まじい魔力が溢れ出した。
大気中の魔力が嵐のように彼女の元へと収束していく。矢先に灯った小さな光は、瞬く間に太陽が霞むほどの眩い光の奔流へと姿を変えた。
「いっけええええーーっ!!」
放たれた光の矢は、戦場を一直線に駆け抜け、戦場を駆け抜ける。
「──!?」
「っ!」
次の瞬間——。
大気を震わせる轟音と共に、凄まじい爆発が起こった。
眩い閃光が戦場全体を白く染め上げ、巻き起こった衝撃波は屈強な獣人たちですら立っているのがやっとの威力で、大地を大きく抉り取っていく。
「な、なんだぁー!?」
「ひぃ!?」
やがて光が収まった時、戦場には先ほどまでの喧騒が嘘のような水を打ったような静寂が訪れていた。
敵も味方も、全ての獣人たちが戦うことすら忘れ、呆然視線を丘の上へと向ける。
そこには光の余韻をその身に纏い、静かに弓を構える、一人のエルフの少女の姿があった。
「——さぁ、ヴォルガルドの族長!これからが、本番よ!」
その声に、その姿に。
いつものような天真爛漫な少女の面影はどこにもない。
金色の瞳に宿るのは絶対的な自信と、幾多の死線を乗り越えてきた者だけが放つ、揺るぎない覚悟。
それはまさしく、一つの軍勢を率いるにふさわしい誇り高き『武人』の表情であった。




