Secret of Paradise - 4
『明日も来る』──
考えるべき事は、他にいくらでもあったのに。
あの夜、エマニュエルの心をとらえたのは、ジェレスマイアのそんな言葉だった。
*
「エマニュエル様、おはようございます。今朝は……」
ギレンは少しぎこちない佇まいで、朝一番、エマニュエルの部屋へ入ってきた。
腕には朝の支度を整えるための一式を持ってきているが、朝の身繕い以前に、部屋に入っていいのかどうかも確かでない──そんな風に、多少おどおどとしながら。
しかしエマニュエルはギレンの予想を裏切り、すでにベッドの端にちょこんと腰掛け、姿を現したギレンに顔を上げた。
「お、おはようございます。あの、昨日は……」
エマニュエルはギレンを見ながら、どこか言い辛そうに眉を潜めてそう言った。ギレンは慌てて首を振る。
「嫌です、エマニュエル様! 私のことなど気にしないで下さい。ジェレスマイア様との関係については、立ち入ったりしません。そう申しつかっていますから……」
「いえ、あの、立ち入るとかじゃなくて……昨日は変な所を見せて、ごめんなさいって」
──言おうと思って。と、エマニュエルは言葉尻を濁しながら、恥ずかしそうにつぶやいた。
それこそ正に、エマニュエルとジェレスマイアの間に立ち入る、ということだ。ギレンはここに侍女として、エマニュエルの身辺を世話するために居るのであって、彼らふたりの仲についてどうこう言うためではない。
それどころか、ギレンの方が、あの場面を目撃したことを謝らなければいけないくらいだ。
不可抗力とはいえ、それが上下関係というもの。ギレンは慌てて首を振った。
「いいえっ! それは私が謝ることです、エマニュエル様。それより、こちらに朝の支度を御用意したのですけれど、今朝は──」
「あ、はい」
エマニュエルは意外にもすんなり、ギレンの言葉に頷いた。
ここ数日、食事も取らずベッドに伏せがちだったのを考えれば──やはり何かが変わったのだ。
理由はやはり、間違いなく昨日のジェレスマイアのはず。
「御髪がすんだら、すぐ食事をお持ちしますね」
「え、えっと……はい、お願いします……」
エマニュエルはいまだに、人に髪を整えられるのに抵抗があるのか、困ったような顔でエマニュエルの髪をすくギレンの腕の動きを眺めている。
その表情と仕草には、昨日までのような暗さはない。
しかし同時に、妙な間延び感があるのだ。心ここに在らず、というべきか。
そんなエマニュエルの雰囲気に、ギレンは確かに心当たりがあった。
そう、自分が初めてマスキールに会った次の日も、ずっとこんな感じだった気がする。
──恋の雷にあったすぐあとの、後遺症のようなもの。
(でも、なんで今更なのかしら)
ギレンは思った。
すでに王の間に身を置きながら、今になってやっと、こんな反応を示すとは──
ギレンの身分では想像することさえ恐れ多いが、ジェレスマイアは尊厳のある王であると同時に、若く魅力に溢れた男性でもある。
(本当に、よく分からないおふたりだわ……)
エマニュエルの流れるような金髪に櫛を通しながら、ギレンはそんなことを思っていた。
あの後すぐはしばらく、もっと別の事を考えていた──それがどれほどの間だったか、今更になっては、エマニュエルにもはっきりしなかったけれど。
『時が来れば私はお前を殺す。それが、私とお前の運命だ』
いつかそう言ったダイスの王、ジェレスマイアはしかし、昨夕突然エマニュエルの前に現れると……
だったら早く殺して欲しいとさえ告げたエマニュエルに、それは無駄な行為だと言い切った。
当初から、ジェレスマイアのエマニュエルへの扱いは、矛盾に満ちたものだった。
殺すといいつつ、殺して欲しいといえばそれをたしなめ、乱暴な扱いをするかと思えば王妃並みの対応を付ける。今与えられているこの豪華な部屋もそうだ。
エマニュエルとしては、非常に不確かで不安定な立場を与えられている。
自分に出来ることは余りにも少なく、端的には、ジェレスマイアの裁量ひとつで簡単に生死が決まってしまう身分。
そして『明日も来る』──
なんの為に?
戸惑ったのはなにも、ジェレスマイアの矛盾に満ちた対応のせいだけではない。
あの時、自分を見つめた灰色の瞳──
この腕を掴み、この身体を支えたあの腕が──
エマニュエルに妙な熱を伝えた。感じたことのない、身体の芯を絞るような可笑しな熱を。
そして胸が高鳴る。気がつくと、今エマニュエルは、ジェレスマイアが約束通りにここに来るのを待っているのだ。
*
「あの娘に関することは、逐一すべて報告しろと言っておいたはずだ。理由を聞こうか、マスキール」
朝の閣僚会議を終え、ジェレスマイアは、マスキールを連れ自身の執務室に戻る途中だった。
普段なら他の宰相や閣僚を伴うこともあるが、今日ばかりはわざと、マスキールひとりのみを連れている。
「理由など……大したことではないと判断したからです。確かに食事を拒まれていましたが、ほんの一、二両日です。続くようなら無理にでも差し上げるつもりで」
マスキールは心なしか硬い表情で、そう答えた。
「それを逐一報告とは言わぬ。マスキール、勝手な真似をするな」
「──はい、王」
一応しおらしい態度は見せたものの、マスキールの心は別の所にある。それはジェレスマイアにもすぐ感じられた。
「なにか言いたいことがあるようだな」
聞くと、マスキールは悪びれもせず、主であるジェレスマイアを対峙するように見返した。
「確かに……ジェレスマイア様。私には分かりかねるのです、貴方の、あの娘への対応が」
マスキールの言葉の奥には、すでにその答えを知っている者の持つ、確信の響きがあった。
答えを知っている──少なくとも、予想は付いている──が、それをジェレスマイアの口から聞きたい。そんなところか。
「あの娘を突然連れ去ったこと、王の間にあの娘を置く理由、私を後見人に就けたこと── 一体、貴方は何を考えているのか」
マスキールの言葉に、ジェレスマイアはまず、冷たい一瞥を投げた。
そして同じような冷ややかな声で答える。
「──それを知ったところで、何の変わりがある。私の最終的な目的は変わらない」
ジェレスマイアの、答え──らしきものにはどこか、自嘲する響きがあった。マスキールは意外な驚きに目を輝かせる。
「否定なさるかと思いました」
「肯定した訳でもない。勘違いするな」
「非難している訳ではありません。むしろ喜ばしいことだと思っています。ただ……」
マスキールは姿勢を正した。ジェレスマイアも長身ではあるが、マスキールに比べると数寸の違いがある。
「余りに情が移ってしまうのではないかとは、懸念しています。あの娘は我らの切り札になるかもしれないのに」
ジェレスマイアはそれを聞くと、マスキールから視線を移した。
前を見据え、もと進んでいた回廊をまた、歩き始める。マスキールもそれに従った。
「私の最終的な目標は変わらない──二度と言わせるな」
「は──」
歩き去る二人の男の後姿には、他の者には容易に近づけない厳しさがあった。
運命は、我々になにを課しているのか──
皮肉、という言葉は余りにも陳腐だ。それでいて確かな響きがある。正にその通りだからだ。
マスキールの疑問は正しい。それはジェレスマイア自身も感じていたことだ。
ただ預言の為だけにあの娘を連れて来たのならば、今の対応はおかしい、と。
──貴方には誰か、心を開ける特別な方が必要に思われます。
それは、マスキールが今までよくこぼしていた台詞だ。そして『むしろ喜ばしいことだと思っています』──
あの青い瞳がこの心を動かしたのは、紛れもない事実だった。
初めて見たときの笑顔、金に揺れる長い髪。
理屈ではその一片さえも説明できない、この不可解な想い。
もしこの相手がエマニュエルでなければ──あの娘が、あのような預言を背負ってさえいなければ。
そして、時代がそれを必要としてさえいなかったのならば。
確かに『喜ばしいこと』だったのだろう。
庶民ではあるが、美しい娘。正妃となれば問題視する者もあろうが、平等意識の比較的進んだこのダイスだ、側室に迎えて愛することを否定する者はいない。
それは確かに、長い間、己が必要としていたことだ。
それだけ心を動かされる相手に、出会うことがなかった訳だが──出会ったかもしれないと思えば、相手はいつか己に命を捧げるという。
時も折、王国は存続の危機に際している。
この状況から国を救う為には、奇跡がなければならない。ジェレスマイアはなんとしても国を救う必要があった。
そしてその代償になるのは、預言が正しければ、エマニュエルの命そのものなのだ。
ジェレスマイアは冷たく厳しい表情のまま、王宮の回廊を歩き続けた。
*
つ、つ、つー……と、古書に書き込まれた細かい字を指で追いながら、エマニュエルはふっとその動きを止めた。
『予言とその結末』という題の、紙面の大きい本だ。しかし厚みは意外にもあまりなく、他の古書に比べると随分と薄い。
そのかわり一頁一頁に小さい文字がきつく詰め込まれていて読み辛く、目を通すものに対して、優しい作りとは言い難かった。
「『預言は常にその言葉を成就する。ただし、時にとても我々を驚かす形で』……」
声に出し、文字を指で追わなければ、読み落としてしまいそうになるのだ。
「『預言者は必ずしも、視えているすべてを公にはしない。時に意味を噛み砕き、故意に言葉尻を操り、巧妙な仕掛けをする。高位の預言者であればあるほど、その傾向は強く……』」
(すべてを公にする訳じゃない……?)
それはどういう意味だろう。エマニュエルはその一節を食い入るように見つめた。
なにか重大な指摘を見つけたような気がして、不意に胸が高鳴る。
(も、もう一度ちゃんと読まなきゃ)
そう思って、エマニュエルは本を構え直し、頁の始めに視線をもどした。その時だ。
「本を読むのならもう少し灯りをつけるべきだ。それが嫌なら、日の在る内に読むことだ」
「えっ」
前触れさえなく部屋に響いた声に、エマニュエルは驚いて顔を上げた。
姿を確認する前から分かる、それはジェレスマイアの声だ。扉へ目を向けると案の定、ジェレスマイアが開け放った扉の木枠に、片肩を預け、腕を組み立っていた。
「いつから……」
「『預言は常にその言葉を成就する』だったか」
「え、あ」
エマニュエルは慌てながら、ジェレスマイアと本と、交互に視線を行き来させた。
声を出して読んでいたところを聞かれていたのだと気が付いて、羞恥心に襲われる。なにか言い訳をしなければいけないような気にもなった。
しかしジェレスマイアは、なにも言わずに立ったままだ。
肩を預けている扉の枠は、ギレンやマスキールが使う扉とは別のもの。聞いた話によれば、この扉は一つ部屋を挟んで、そのままジェレスマイアの私室に繋がっているのだ。
「なにか……ご用ですか」
エマニュエルは少し、緊張した声で問うた。
するとジェレスマイアの表情が少し、不機嫌そうに崩れる。
「今日も来ると言ったはずだ。覚えていないだろうが……今日は食事を取ったのだな」
「は、はい……あの」
ジェレスマイアが一歩進んだ。と、同時にエマニュエルはベッドの上でずずっと後ずさった。逃げようという意識があったわけではないが、条件反射だ。
それを見たジェレスマイアの眉間に、深く皺が寄ったように見えたのは、エマニュエルの錯覚だろうか?
──実を言えば、エマニュエルは待っていたのだ。ジェレスマイアが本当に来るのを。
しかし朝を過ぎ昼を過ぎ、夕食を終え床に着く時間になっても、ジェレスマイアは現れなかった。
あれはやはり気紛れか、なにかの方便だったのだろうと……諦め、エマニュエルはベッドで本を読み始めたところだった。ギレンもこの時間には下がっている。
それが突然の訪問。
「なにか、ここにご用でも……」
エマニュエルが繰り返すように聞くと、ジェレスマイアは答えず、また前へ進んだ。
つられてエマニュエルもまた、後ずさり続ける。
シーツが皺をつくり波を打ち、ある時点でピンと張って──最後を迎える。エマニュエルは進み続けるジェレスマイアに合わせベッドの端まで来ていた。逆の端にはすでに、ジェレスマイアが立っている。
ジェレスマイアはそのままエマニュエルを見下ろした。
もっと後ろに下がる──つまり、ベッドから降りてしまうべきか、このままでいるべきか、それとも逆にジェレスマイアの方へ近づくべきか……エマニュエルは混乱した頭で考えた。が、答えはもちろん出ない。
「なにが望みだ」
「え」
すると唐突に、ジェレスマイアがそう言った。どこか、今までとは違う雰囲気だった。
どこがどう違うのかを説明するのは難しいが──あえて言うのならば、その時のジェレスマイアの口調は、どこか少年っぽかったのだ。
「望み?」
「言ったはずだ、時が来るまでは悪いようにはしない、と」
「……そう、いえば。でも」
「なにか望みはないか、と聞いている」
エマニュエルはぱちぱちと瞳を瞬いた。自分の理解が正しければ、ジェレスマイアは今、何か欲しいものがないかと聞いているのだ。
確かにジェレスマイアは最初からそう言っていた。しかし、現実問題として、そういったことはマスキール、ひいてはギレンに任されたきりで、彼自身がなにかをしてくれたことは今までなかった気がする。
これは、どういう風の吹き回しなのか……
「望み……なんでも? なんでもいいの?」
「叶えられる事なら」
「だったら、お父さんとお母さんに会わせて下さい。それが駄目なら、せめて手紙を出させてください」
エマニュエルは口早に自分の希望を捲くし立てた。
これはずっとエマニュエルがマスキールに頼んでいたことだ。しかし、両親には話をつけてあるから心配しなくていい、手紙は、王に許可を求めてからだといつもやんわりあしらわれていた。
つまりはジェレスマイアが許可しなかったのだろう。それが分かっていたから、エマニュエルは機会とばかりに慌てて懇願した。
「今はまだ無事だって、お城でちゃんと暮らしていると伝えてあるって、マスキールさんは言ってました。でも、私が自分で手紙を書けたらもっと違うんです。だから」
──断られるに決まっている。
そう思ったからこそ、エマニュエルは懇願したのだ。
しかしジェレスマイアの答えは予想を裏切り、意外にも呆気ないものだった。
「分かった。……十日に一通、許可しよう。検閲はするが、好きな様に書けばいい。信用の置ける者に届けさせる」
いや。余りにも呆気なくて。
エマニュエルは、まだ説得を続けようと開けたままだった口を閉じることが出来ないまま、ポカンとした。
「……どうした。それが望みではなかったのか」
「え、あ……」
エマニュエルはやっとなんとか現実を飲み込もうとして、そして──結局あまり上手く行かなかった。それは、ジェレスマイアがまた更に、言葉を続けたからだ。
「それは一件として処理しよう。それとは別に、望むものがあれば言うといい。装飾品でも、食事でも、行きたい場所でもなんでも構わぬ」
「行きたい場所……?」
「両親の元にはまだ返せない。この城から離れることも許可できない──ただ、城下町程度なら護衛付きで出てもいいだろう」
「本当に?」
やっとエマニュエルの瞳に喜びらしきものが浮かぶと、ジェレスマイアの厳しさ一辺倒だった表情がわずかに綻んだ。
しかし、緊張に包まれているエマニュエルには、分からなかった程度の変化だ。
「だったら、あの、少し……外に出して欲しいです。街じゃなくて、森とか、川とかの方が……」
と、エマニュエルが言うと、ジェレスマイアはエマニュエルの顔をじっと見つめた。
その灰色の深い視線に、突然、心臓が高鳴る。一瞬息が詰まったほどだ──が、ジェレスマイアは静かに言葉を紡いだ。
「では用意するといい──そう遠くない場所に森がある。城内ではないが、王家の個人的な領地だ」
「え!」
「軽装でかまわん。用意が整ったら呼べ」
「え……え……」
そう言うと、ジェレスマイアは踵を返し、もと来た扉へ素早く、それはそれは無駄のない動きで戻っていってしまった。
(え、えっと……今から、外に出して貰えるってこと……?)
外、といっても、どうやら王家の領地のようだ。城の管理下にある土地なのだろう。
しかし今までギレンと共に出してもらっていた庭園とは、どうやら違いそうだ。そして──『用意が整ったら呼べ』。
(呼べ? あ、あの王様と一緒に……!?)
もう夜だ。深夜と呼ぶにはまだ早い時間だが、日は完全に落ちている。
月はあるので、慣れた者なら外出できないことはないだろう。少なくともエマニュエルは自然を知っている。夜の森を訪れるのに恐怖はない。
(でも、どうして急に?)
疑問がぐるぐると頭を回る。
けれど、突然振って湧いた外に出られるという幸運に、エマニュエルは興奮した。
ほとんど無意識に、衣服の納められている木棚へ駆け寄り、最も動きやすそうな凝らない作りのドレスに袖を通した。
着替え終わると、パタパタと扉へ向かう。
例の、ジェレスマイアだけが使う、あの扉へ──
(二人きりじゃ、ない、はず……よね?)
期待のような、不安のような、妙な気持ちでエマニュエルは扉を叩いた。
直ぐに『通れ』というジェレスマイアの低い声が響く。
ごくりと息を飲んでエマニュエルが扉を開けると、先刻までの軽装に上着を羽織り、腰に剣を挿した格好のジェレスマイアがいた。
一人だ。
エマニュエルの視線が剣に止まるのを見ると、ジェレスマイアは言った。
「念の為だ、警備は無い方がいいだろう。お前を殺める気はない──少なくとも、今夜はまだ」
こんな、子供に聞かせるお伽噺がある……。
夜の森には、魔法があると。
人の心をくすぐり、恋人達にお節介をやく不思議な力が、夜の森には潜んでいると……。
随分と昔に聞いたきりの懐かしい物語が、そのときなぜか急に、エマニュエルの胸に蘇った。