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Paradise FOUND  作者: 泉野ジュール
番外編: Paradis des Fleurs - 花の楽園【モルディハイのその後】
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Paradis des Fleurs - 5

「帰る……だと?」

 深い驚きの表情をたたえて、モルディハイ王はフローラの顔を凝視した。

「──本気で言っているのか」

「そうです、陛下のお望みどおりに、です!」

 フローラは最初こそ強気に眉をよせ声を上げたものの、鋭く自分を見つめる瑪瑙の瞳にしだいに恐怖を感じて、ロバの首を離して一歩後ろへ下がった。


 すると、じり……と一歩、モルディハイもにじり寄って来る。

 フローラがまた一歩下がる。

 対するモルディハイがまた一歩、前へにじり寄る。


 そんな駆け引きもそう長く続かなかった──同じ一歩なら、モルディハイが進む距離の方が圧倒的に大きいからだ。

 それでなくても近かった二人の距離が、さらに縮まり、今にも触れ合うほどになって、モルディハイはやっと足を止めた。逃げるなら今だ。今だけ、だ。フローラはそう直感したが、肝心の足がすくんで動かなかった。


 すると、その隙をぬったように、力強い褐色の腕がフローラの細い腰に回され、ぐっと彼女の身体を前へ引き寄せるのだ。

 二人は腰の辺りでぴたりと重なり合い、お互いの瞳を至近距離で見つめ合う格好となった。


「へい、か……」

 唇から、零れ落ちたようなフローラの震える声。


「帰って何をする? 私の後宮から下ったとあれば、まともな男は皆私を恐れてお前を避けるだろう」

 モルディハイの声はいつになく低かった。地の底から響いてくるような割れた声、そして、徐々にきつくなっていく腰を抑える腕の力。

「それとも今の男か、あれに惚れたか。二人で逃げ出す算段でも組んだところだったか」


「そんな……はずはありません、陛下、全ては……貴方の望まれたことです」

「…………」


 つい、とモルディハイは顎を上げて、フローラを見下ろした。

 また何か無茶なことを言われ、無理矢理に後宮へ引き戻されるのをフローラは予測したが、モルディハイはただ黙って彼女を見下ろしたままだ。

 その瑪瑙の瞳は、なぜか、いつもの熱さを失っているようにも感じられる。戸惑いながらもフローラは続けた。


「嫌ならば帰れ、と陛下は私に仰りました。私のせいで、罪もない動物に痛い思いをさせるのは忍びありません。それに……」

「……もういい」

「今の方にも迷惑が……え?」

「もういい、と言った。説明など聞きたくない」


 ──それはモルディハイのものとは思えないほど小さな声で、フローラは一瞬、幻聴かと思ったほどだ。

 しかし確かにモルディハイの台詞だった。次の瞬間には、ふっ、と意外にも柔らかな調子で腕の拘束が解かれて、フローラはモルディハイから解放される。


 主軸を失ったフローラの身体は、ふらりと揺れた。

 モルディハイはそれを助けるでもなく、さらに冷めた瞳で見下ろしながら、静かに後ろへ数歩引いていく。


「……何処へなりとも行くがいい……フローラ、お前の望む場所へ」

「え……」


 フローラはそれを聞きながら、呆然と立ち尽くした。モルディハイはすぐに大きく踵を返し、フローラから離れ、もと来た方へ早足に戻っていった。


(どう、して……)

 ぽつりと、ロバと共に残されたフローラは、唖然とその後姿を見送っていた。

 だんだんと小さくなっていく王の背中は、いつになく冷たく見えて、フローラは急に自身の体温が冷えていくのを、鋭い耳鳴りと共に感じた。


(フローラ、と)

 彼はフローラの名を呼んだ──恐らくはこれが最初だ。


 それはまるで、春の訪れを迎えるような爽やかな歓喜と共に、フローラの胸にすっと染み込んでいった。

 モルディハイがフローラの名前を知っていたという事自体さえ驚きなのだ。彼は今までフローラを『女』、もしくは『お前』などと呼んでいて、一度として名前を口にしたことなどなかった。


 今のは何だったんだろう……?


 故郷へ帰っても構わないと言われたのだ。──もちろん、ずっと言われ続けてきたことではある。帰りたければ帰れと。

 ただそれを、今まではフローラが拒否してきただけで。


(そんな……)

 フローラは急に、恐ろしいほどの寂しさに囚われだした。

 モルディハイとフローラは、ずっと見えない綱引きをしていたのだ。双方が綱の両端を持って、持ちつ持たれつ引き合っていた。

 その綱をフローラが手放しただけで……。


 全てが足元から崩れていく。

「あ……」

 自分でも驚くほど自然に、はらりと涙が頬を伝った。悲しいのか嬉しいのかさえ分からないのに、涙腺は敏感に『何か』に触れている。


 くーん、とロバが鳴いたのを聞いて、ふと、フローラは手元を見た。

 こんな事になった原因──暴君モルディハイがロバの尾に挟んだという留め具が、フローラの手の上にある。


 赤い羽根飾りが付いていた。

 ──赤、派手な羽根の飾り付け。モルディハイらしいと思っていた。


 しかしモルディハイ自身がこれを使っているのを、見たことがない。派手好きとはいえ、細かい事には無頓着な男なので、装飾類は意外にも実用性を重視していた気がする。

 それを、いざという時に素早く手を伸ばさなければならない剣の留め具に羽根を使うなど……あり得るだろうか?


 フローラは赤く染まった羽根飾りを見つめながら、嫌々をするように、首を横に振った。


 あり得ない──だってそんな、そんな夢のようなことが。

 絶対に、あり得ないと、彼自身が言ったのに。


 赤い羽根飾りは、ジャフの上流階級のしきたりで、求愛と求婚を意味しているのだ。





 ぱたぱたと忙しい足音を大理石の回廊に響かせながら、小柄で恰幅の良い初老の男が、モルディハイの後を追ってくる。

「どうでしたか、陛下! フローラ殿はもちろん、大層お喜びになられたことでしょう!」

 外見に似合った人の良さそうな声が、それに続く。

 声を掛けられたモルディハイは、振り返りもせず、真っ直ぐ前を見据えたまま、自身に向けて呟くような調子で答えた。


「実家に帰ると言っていたな……。これを喜びというのなら、喜んでいたのだろう」

「はぃ?」


 裏返った声を返したこの小柄な男は、フローラが始めてモルディハイに謁見した後、彼女とその兄に声を掛けた人物でもある。

 政治的な地位は高くないが、王家の遠縁に当たる血筋で、明るくも腰の据わった性格から、モルディハイに信頼されている数少ない者の中の一人だ。


「そんな馬鹿な……! フローラ殿は、陛下を慕っていらしたではありませんか」

 と、言いつつも、男は多少の無理がそこにあるのを、うっすらと承知していた。「……どのようにしてお渡しになったんです?」


 モルディハイは答えなかった。

 男もまた、伊達や酔狂でモルディハイのような男の傍に仕えている訳ではない。言われなくとも大体の想像は付いた。

 いくら辛抱強いとはいえ、貴族の娘として育ったフローラが、今日の今日まで耐えてきただけでも、本当は喝采ものなのだ。


「陛下……女とはか弱く、子ウサギのように臆病なもの。無理強いをすると逃げてしまうのですよ」

「私は無理強いなど一切していない」

「それは、」

 と言いかけて、男はぐっと言葉を飲み込んだ──ここで反論するのが無駄なことも、男はよく承知だ。


「それは勿論、その通りでございます。しかし男女の機微とは真に難しいもの。陛下の立派な態度が、フローラ殿を怯えさせてしまったということも」


 モルディハイはこの種の世辞のようなものを好んだが、だからといってそれに溺れる種類の愚かさはなかった。

 言葉の裏にある現実を判断できるだけの知恵がある。

 しかし、今回ばかりは──モルディハイにそれだけの理性が残っているかどうか、全く予想不可能で、男は恐る恐るモルディハイの表情をのぞき見た。


 男の目に映った王の瑪瑙色の瞳は、普段の生気を失い、硬質にどこか遠く一点を眺めているようだった。


「陛下……」

 という男の呼びかけにも答えることなく、モルディハイは回廊を足早に進み続けた。


 どこを目的に進むでもない、ただ、今は『何か』から遠く離れたいというだけの理由で、モルディハイは走るように回廊を抜けた。



 例えば、彼女がタリーと共に談笑している姿は、春の新風を思わせた。

 ──何か、新しくて心地よく、歓迎すべきもの。

 薄紫色の瞳を細めて、優しげに驢馬のたてがみにブラシを通す仕草は、平野を鮮やかに飾る春の小花だ。

 モルディハイはそれらを愛でる男とは違ったが、それでも、それが美しいものだいうのは感じる。それで十分だった。


 彼女の周囲は心地よく、声は甘美で、笑顔は喜びに満ちている。


 そして何よりも、モルディハイはその花の楽園に、自ら足を踏み入れることが出来るのだ。

 エマニュエルは違った。あれはどこか遠くにいて、モルディハイはその楽園を、ただ眺め、そして焦がれて、手に入れたいと、遠くからもがいていただけだった。


 しかしフローラは最初から、モルディハイの目前に楽園の扉を開き、いとも自然に彼を受け入れたのだ。

 確かな現実味が欲しくて、その楽園をわざと荒らしまわるモルディハイをも、フローラは少し戸惑った笑顔と共に、許してくれた。


(──そうだろう、違うとは言わせない)

 緋色の王の拳は、かつてないほどに強く握られ、そしてその瞳は、今、巨大な烈火さえ白んで見えるほど艶やかに、真紅に燃えていた。





 荷物をまとめようにも、そもそも、それらしき物をあまり持っていなかったから、フローラはあくまで身軽だった。

 タリーに別れの手紙を残し、懐いてくれた侍女にさよならを言うと、それで終わり。

 用意させた馬車に乗り込み、行き先を告げるだけで、フローラは見る見るうちに王宮から離れていった。王宮を出るまでの過程も、モルディハイが手配したのか、それとも全く構わなかったからなのか、何の障害もなく円滑に進んだ。


 一頭立ての馬車は、ガラガラと車輪を鳴らしながら、王宮から伸びる石畳の道を走った。


 今にもモルディハイが後を追ってきてくれるような気がして、フローラは何度か振り返ったが、見えるのはただ無機質な宮殿の構えばかりだけだった。

 やはり、赤い羽根はただの勘違いだったのだろうと、フローラは落胆した。


(どうして、涙が出てくるの)


 少しでも油断をすると、フローラの瞳からは涙が溢れそうになった。

 では、後宮に残ればいいのに……いつもと同じ、性質の悪い王のおふざけだったのだと納得して、彼の傍に残ればいいのに、と。

 心の何処かでそう諭す声もあるのだ。

 しかしフローラの心は、それに従うには疲れすぎていた。


 今は家族の顔が見たい。しばらく忘れていた、誰かに甘えるという行為を、両親や兄のもとで見出したい。そんな思いだった。


 そうしたら、またここへ帰ってこよう。もし──許されるなら。

 故郷へ帰って、そして忘れ去ってしまえるほど、フローラの中のモルディハイは小さなものではないと、もう分かっているから。



 それは時も夕刻に差し掛かろうという、日暮れ近くのことだった。

 心身ともの疲れで、馬車の中でうとうととしていたフローラを、突然の揺れが襲った。馬の嘶きと、御者の短い悲鳴がそれに続く。

「?」

 フローラは衝動的に、馬車の扉を開けて外を見た。

 すぐには、何も見えなかった。

 道は平坦で、周囲はただの浅い林だ。まだ王都から離れて二、三刻程度と思われる、所謂郊外だった。盗賊が現れるには街に近すぎるし、その姿もない。


 ただフローラの乗った馬車だけが、急に止まって揺れたのだ。


「どうしたの、御者、何か故障でも……」

 フローラは馬車台から降り、先頭にいるはずの御者の元へ駆け寄った。ジャフ流に、高く備え付けられた御者台に乗った男は、なぜかぐったりと頭を垂れている。


「御……」

 と、再び呼びかけて、フローラはハッとした。

 御者の胸元に、矢が刺さっているのだ。深く食い込んだそれは、知識の浅いフローラにも、致命傷だと悟らせるに十分なものだった。


 フローラは震える足で、数歩後ずさりした。まさか、まさか……。


 逃げなくては……でも、何処へ?

 突然の恐怖に、心臓が早鐘のように暴れた。道の先を見ても誰もいない。林が立てる風の音以外、フローラの周りは不気味なほどの沈黙が流れていた。


 さらに後ずさりをしたフローラの背後に、その時急に、殺気が走ったのを感じた。


 フローラは両目を見開き、後ろを振り返った。そこには、見たこともない細身の男が、林の中からフローラに向け矢を構えている姿が、あった。

「あ……」

 わずかな声を漏らし、フローラは硬直した。


 ──あの矢に、射られる。

 覚悟というには程遠い、ぼんやりとした自覚だけが、フローラの脳裏を駆け抜けた。


 ギリリと弓を引く音が、この距離では聞こえるはずもないのに、フローラの耳に届いた気がした。


(嫌──! 陛下!)

 フローラは駆け出した。それと同時に、青白く光る矢が閃光のように解き放たれ、フローラの髪をかすり背後の馬車台に突き刺さった。


 間一髪で逃げたフローラは、急いで馬車の裏に回ろうとした。

 その間にも、二本目が放たれ、同じく馬車に突き刺さる。これもフローラは逃げ切ったが、当の馬車馬がその振動に興奮して、高く嘶いた。


「駄目! 待って……!」

 フローラの懇願も空しく、馬車馬はそのまま正気を失い、台を背負ったまま走り出した。


 盾になる馬車を失い、丸裸にされた形のフローラは、そのまま道を外れ林の方向へ逃げようとした。が、恐怖に足がもつれて、その場に転んでしまう。


 その間にも弓手の男はフローラと距離を詰め、さらなる一本を放とうと、背に背負った矢を後ろ手に鮮やかに抜き取るのだ。


(……っ!)

 フローラは地面に倒れた格好のまま、きつく両目を閉じた。

 ──殺されてしまう。

 こんな風に、モルディハイと離れたまま。もう会えない、もう声を聞けない、もう見つめることさえ叶わない……。


 しかし次の瞬間、フローラは急に、誰かに押し倒されたような衝撃を感じて、短い悲鳴を上げた。

 そしてすぐ、矢が肌を裂く、嫌な音を聞いた。


「あ……っ」


 衝撃は感じたが、痛みはまったく追ってこなかった。

 不思議に思い、恐る恐る瞳を開いたフローラが見たものは……なぜか、さらりと揺れる、緋色の髪だった。

 そして、身体に感じる重みは、そう……フローラの知る……。


「陛下!」

 モルディハイだ。モルディハイの身体がフローラのそれに包むように覆いかぶさり、片手が強く腰を抱いている。

 そしてもう片方の手は、不自然に垂れている。フローラは恐怖に息を呑んだ。


「陛下、手に……っ」

 褐色の手の甲には矢が突き刺さり、見事に貫通していた。

 つ……と熱い血が傷口から指を伝って流れ、ぽたりぽたりと地面に落ちる。


 モルディハイはふと、何も言わずに、フローラの腰から手を離した。そして、ゆらりと、険しく歪められた顔を上げたかと思うと、地上を揺らすような雄叫びを上げ、自らの手に刺さっていた矢を、別の手で力任せに抜き取った。

 王の血が、宙に弧を描いて飛び散る。


「林の奥に走れ! 今直ぐにだ!」

 モルディハイはフローラに向けて叫んだ。


「で、出来ません……っ、陛下の御手に……あなたを置いていくなど……」

「お前は足手まといになる、早く走れ!!」


 敵なる弓手は、早くも次を撃ち放つ構えを見せていた。

 モルディハイは再びの叫びと共に腰から剣を抜き、獲物に襲い掛かる獅子の形相で、弓手に向かっていく。

 フローラに迷っている時間はないようだった。


 『足手まといになる』──モルディハイは、どんな暴言を吐いても、どれだけ気紛れに前言を撤回しても、嘘というものは言わない。


 フローラは走った。

 時折、モルディハイを振り返りながら。冷たい響きを上げながら剣が交わされるのを、遠くに聞きながら。


 土に汚れていく足元も、木々に掛かってボロボロになっていくドレスの端も気にならなかった。

 ただモルディハイの無事を祈った。

 そして、自分はモルディハイの何を知っていたのだろうと自問自答しながら、やはり止まらない涙に視界を邪魔されて、何度も頬を手で拭いながら、走り続けた。



 林の終わりは、自然の壁だった。

 目前に絶壁が横たわり、足を止められた形だ。絶壁にはコケが生い茂り、濃い緑色のツタがまだらに張っている。

 これより先は行けそうもなかった。まさかフローラに、この絶壁をよじ登る術はなかったし、これ以上モルディハイと離れるのも嫌だ。


 もう剣を交わす音も聞こえない。

 フローラはここでモルディハイを待つべきだと判断し、周囲を見回した。

 幸運なことに、絶壁の根元の一部に、雨風を凌げそうな、くりぬきの小穴を見つけた。



 待つまでもなく──モルディハイは、フローラが小穴を整えようとしている間に、林の間からふらりと現れた。左手から血を流し、同じく左の足を引きずりながら歩くような格好で、剣を杖代わりにしながら、ゆっくりと。

「陛下……っ!」

 フローラは弾かれたようにモルディハイへ駆け寄り、彼の肩をぎゅっと抱いた。


 モルディハイは一言、小さく、「ふん」というようなことを言って──そのままフローラの首元に、甘えるように顔をうずめた。

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