Fascination of Paradise - 7
忘れないで、覚えていて──私達はここにいた。
いつか帰ってくるから、いつか道を見つけるから──だから諦めないで。
貴方は貴方のままでいて……。
*
あれ以来、モルディハイはいっそ不気味なほど大人しかった。
残りの二両日にわたる滞在中、ひたすら寡黙なばかりで、必要以上のことはほとんどなにも喋らない。
エマニュエルに声が掛かることも、あれ以来なかった。
静かに──まるで絵に描いたように平穏に、短い観光や食事会が執り行われ、大した滞りは一切ないまま、帰りの日を迎えた。不安になるほどの静けさ。
(なにか裏があるのでは)
人々はそろって訝しがったが、少なくとも表面上大人しくしているモルディハイ一行に、文句を言えるはずもなく。
ジェレスマイアがモルディハイの滞在していた部屋まで乗り込み、一度は──どんな経緯であったにせよ──手渡した少女を奪い返したことも、表沙汰にされないまま。
少なくとも、エマニュエルの耳にそういった話が入ってくることはなかった。
「謹慎させる」というジェレスマイアの言葉通り、ここ数日マスキールの姿を見ない。
王の間の自室より外に出られないエマニュエルの世話は、ジェレスマイア本人を介し、すべてギレンが行っていた。
平穏に過ぎていく時間が。
静かに、ただ駆けていくだけの時が。
逆に人々の不安を煽った。そしてそれは、エマニュエルも同じ気持ちだった。
*
「やっとジャフ王もお帰りになられましたから、ジェレスマイア様にも、もう少しお時間ができるかもしれませんね」
ギレンの澄んだ声に、エマニュエルははっと顔を上げた。
「う、うん……」
「ふふ、邪推でしたかしら。申し訳ありません、お気になさらず」
「いいの、少しだけびっくりしちゃって……」
「まあ」
ギレンはあれからも、表面的にはいつも通りだった。
ミシェルと媚薬の件に関しては、不注意だったと繰り返し詫びてきたが、もちろんエマニュエルにギレンの責任を問う気はない。
マスキールのしたことも、なぜ彼が謹慎を言い渡されているのかも、ギレンは知らないらしかった。
表向きには、マスキールはしばらく休暇を与えられただけだとされていたから、それを素直に信じているようで、それがどうしてこんな時期になのかと、それを少し訝しがっている程度だ。
そして、モルディハイが自国ジャフへの帰路に着いた日の、午後。
エマニュエル達はいつも通り静かに部屋で過ごしていた。しばらくお預けになっていた本を数冊持ち出して、興味の湧いた項をめくりながら、時が過ぎるのを待つ。
しかし静かに文字を追っているだけなのに、時々、思い出したように胸が高鳴る。
(私……)
指が、唇を守るように口元へゆく。
口づけの名残を守りたいのか、その秘密を守りたいのか──
それとも他に理由があるのか──
無意識に手が口元を覆ってしまう。記憶が蘇って、その中に溺れそうになって、世界の全てから思考が切り離される。
温かくて、気持ちよかった。でも同時に、正体の知れない衝動が身体中を駆け巡って、それを持て余した──ジェレスマイアとの口づけ。
一体、モルディハイに手を掛けるのも失敗した今、エマニュエルは預言の真意をはかりかねていた。
それは多分、ジェレスマイアも、マスキールも同じだろうと思う。
おまけにあの夜に受けた、ジェレスマイアとの口づけの意味は……?
なにかもう、すべてが無意味に思えてくる。もしかしたらこのまま、何もかもが上手くいくような気さえしてくるのだ──
事態が急変したのは、その三日後の夜だった。
*
「ふぅ……」
エマニュエルはベッドの縁に腰を下ろすと、すっと伸びた細い足を揺らして、燭台に浮かぶ蝋燭の火を眺めていた。
──夜の静けさは森への哀愁を誘う。
今夜、ジェレスマイアは来てくれるだろうか……そうぼんやりと考えながら、炎の先を見つめた。
あれからも、ジェレスマイアは毎晩、確認のようにエマニュエルの部屋を訪れている。しかし忙しいのか、毎回短いもので、少し話すとすぐ出て行ってしまうのが常だ。
避けられているとは思わなかった。
が、どこか遠慮のようなものがジェレスマイアの言動の端にあるのを、微妙に感じもした。
(モルディハイさんが帰ってから、もう三日)
ジェレスマイアが忙しいのは当然だし、今の静かな情勢は嵐の前の静けさなのだと、エマニュエルでさえ分かっている。
ジャフ側は、この訪問で知りたかった情報を色々と集めた筈だ。
城の守り、地形の確認、警備の質、そして王、ジェレスマイアその人について……。
いつ、何らかの口実を利用して、ダイスに攻め込んでくるとも知れない。
──エマニュエルの気持ちは変わっていない。
この命が、ジェレスマイアの願いを叶えるというのならば──幾万もの命を、自分の犠牲で救えるというのならば。
喜んで、とまではいわなくとも、運命を受け入れる覚悟は出来ている。
ジェレスマイアはエマニュエルとの口づけについて、説明も弁解もしなかったし、エマニュエルもそれらを求めなかった。
ギレンが盛んにからかうように、愛されていると思って……いいのだろうか。
しかし預言のことを考えれば、そんな想いはむしろ、無いほうがいいのだ──
ジェレスマイアは本当は優しい人だ。
彼がそんな想いを抱えながら、国とエマニュエルの間で戦わなければならない姿を想像すると、それはあまりにも悲しくて、切ない。
恋を、覚えて。
夢を見て。
それで充分だった筈だ。しかしこれ以上、この平和な時が続いたら。
──これ以上、ジェレスマイアの傍にいたら。
離れられなくなる。
今はまだある覚悟も、崩れていってしまう。
それが分かっていたから、エマニュエルはこの数日間の静けさに、怖さをも感じていた。
「王よ、マスキールを呼び戻して頂けませんでしょうか」
もう日の入りも近い時間──
ジェレスマイアの執務室に入ってきたダヤン公は、文字通り懇願の表情で、そう申し入れてきた。
「貴方は賢明な方だ、我が王。意味もなくあれを謹慎に処したとは思いません。もしご無理だと申すのなら諦めましょう。しかし可能なら、やはり今は彼が必要なのです」
ジェレスマイアは目の前の老人に向かって、顔を上げた。
マスキールとは──―ということは当然、ジェレスマイアとも──親子以上に歳の差のあるダヤン公は、前国王の治世から国に仕えている。
柔和な雰囲気と忍耐、粘り強さが彼の持ち味で、派手な活躍は少なくとも、常に政治の支柱を支えてきた忠僕だ。
エマニュエルの預言を知る、数少ないうちの一人でもある。
ジェレスマイアは筆を止めると答えた。
「分かっている──ダヤン公。あれには今、別の仕事を頼んでいる所だ。しかし出来るだけ早く呼び戻そう」
「そうでいらしたか。いえ、でしたら何も申しません。このダヤンも身を粉にして働きましょうとも」
「……すまない」
突然、謝ったジェレスマイアに、ダヤンは驚きの表情を隠さなかった。隠せなかった、というのが正確なところだろうか。
「……どう致しましたか、ジェレスマイア様」
「いや、何でもない。ここの所、色々と続いたからだろう」
「ここは、今夜は早めに休まれてはいかがですか。その方が明日、精も出ましょう」
では、私は失礼した方が宜しいですね。そう言ってダヤン公が下がったのを、ジェレスマイアは止めなかった。
──確かに一人になりたかったのだ。
今日も機械的に執務をこなしてはいたが、心はどこか、別の所をさまよい続けている状態だった。
(どうすれば)
禁断、ともいえる欲望が、心の中をゆっくり汚していくように、徐々に広がっていく。
もうこのまま、エマニュエルを何処かへ連れ去って、国のことも予言のことも忘れてしまいたいような気持ちになった。
これまで──
あの口づけを交わすまでは。
いくら彼女を愛しいと思っても、『そこまで』思いが馳せることはなかったはずだ。どうしたって、ジェレスマイアにとって国の命運は手放せないもので、自身の幸福よりも優先されるべきものだった。
それがあの瞬間、逆転していた。
間違いなく。
もしかしたらその前、エマニュエルがモルディハイの元へ行ったということを知った瞬間から、すでに。
しばらくして正気に戻ったものの──今も時々、あの瞬間と同じ衝動に駆られそうになっては、臣下の顔を見て正気に戻り……ということの繰り返しをしている。ここ三日ほどは、激務と共に、その衝動との戦いでもあった。
ジャフはその気になれば、すぐにでもダイス侵略に乗り出せる。
ジェレスマイアがそれに対抗するため軍事を強化しているのを知れば、計画を繰り上げて、時期を早めて出てくる可能性さえある。
己の──願い。
『──この国は助かるのか』
『それがあんたの望みならね。その犠牲は、あんたもよく分かっているはずさ』
避けられない運命だと分かると、今度は、それでももう少しだけ、と。
子供の我侭のようなことを願う。
生まれて初めて、自身の制御が出来なくなるという状況に陥っていた。
この想いも、愛も。
本当はまだ始まったばかりだ。
エマニュエルはきっと美しくなるだろう。純粋さはそのままに、愛を覚えて、女性であることを知り、花開く。
夫を持つ日も来るだろうか──
それが自分だったらなどと、空しい夢を描いては、苦い現実に引き戻されてゆく。
よもや自分がこれほど平凡で、愚かな男だとは思わなかった。
あの宴の夜、密かにつけておいた忍びに、マスキールとエマニュエルがモルディハイの部屋に向かったという報告を受けた時、何かが弾けたのだ。
覚悟はしていた筈だった。
しかし『それ』が現実になった瞬間、その事実の重みに、張り詰めていた理性の糸は呆気なく切れて、以後、行き場を失ったような不安定さと焦りが続く。
そして預言の真意──
あの時あれほど焦ったのは、あれが、正に予言の昇華に繋がると直感したからだ。
それが──自分自身が止めに入ったにせよ──エマニュエルは無事で、事態は変わるところがない。
こうなると一体、どんな形であの預言が成就されるのかが、不透明になってくる。
ただ時期の違い──?
しかし最後に聞いた最高預言者の言葉によれば、『それ』はもう、すぐ傍まで迫ってきているのだ。
そして嵐を起こすのは、ジェレスマイア本人であると──
(もし今──)
その『何か』が起こったとして、それを制御できるだけの自制心が自分にあるかどうかは──謎だった。
最悪の形で突きつけられる運命を夢に見て、飛び起きる夜さえある。
──ダヤン公の言った通り、今夜は休息が必要なのを感じて、ジェレスマイアは椅子から立ち上がった。
執務室を出ると王の間への道を早足に進む。
途中に通りすぎた回廊の高い窓から、夜空が覗いていた。
(新月──)
それは暗い、漆黒の夜だった。
*
カタン、と窓が外れたような物音がどこかから響いて、エマニュエルは顔を上げた。
「ジェレスマイアさん?」
音のした方へ振り返って、そう呼んでみるものの、返事はない。
もう一度同じ名前を口にしてみても、結果は同じだった。
(何……?)
ただの風音だったのだろうか。エマニュエルはベッドから立ち上がると、ゆっくり窓の方へ近付いた。
外には警備の騎士がいるはずだ。
閉じ込められていた頃は敵のように見えた彼らも、今となってみれば心強い護りとなっている。
適当に点在しているようで、実は規律正しく考え込まれた配置をされている屈強な騎士たちは、エマニュエルが脱走するのを防いでいたように、外敵をも防いでくれる。
しかし、この夜は。
(え──)
新月に阻まれて、視界が狭まっていたのは事実だ。しかしエマニュエルは夜目が利く。近場の警備程度は、淡い光の下でも間違いなく見られる──はずだった。
(どうして……?)
それが今、エマニュエルが窓から地上を見下ろしても、誰も立っていない。
──いや、一人だけ居る……が、様子が変だ。
まるで柵にだらしなく寄りかかっているような格好で、眠っているようでもあった。夜中とはいえ、間違ってもこんな態度を取る彼らではなかったはず……。
あえていえば一度だけ、最高指導者の老婆に連れられて王の間を出た時、警備たちは似たように眠らされていた。
「……!」
本能的に、エマニュエルは窓から離れた。
急いで外へ通じる扉へ向かって駆け寄り、助けを呼ぼうと口を開きかけた、その瞬間。
疾風より早く、湖の水より静かに、浅黒い手がエマニュエルの背後から伸びて、強く口を塞いだ。
「……んーっ!」
「静かに。騒げば殺しますよ」
「っ!」
身体が、浮く。
エマニュエルはもがいた──もがこうとした──が、巧みに身体の要所をからみ取られ、抵抗らしい動きはほとんど取れなかった。
「殺しても良いとの命令でした。ただ、私は貴女と、貴女の王を気に入っている。そこまではしません」
落ち着いた声がエマニュエルの耳元に囁かれる。
(知ってる……声)
記憶はすぐに声の主を捜し当てた。あの刺客──ジェレスマイアと森に出た夜に現れた、ジャフ王に送られてきたという刺客の声だ──。
抑制の効いた口調も、そのままに。
あの夜ジェレスマイアと戦ったその腕で、エマニュエルの身体を羽交い絞めにした。
「痛みはないはず──しばらく静かにしていただくだけです」
そんな声と共に、刺客の手の側面がエマニュエルの骨髄の辺りを、強く一突きした。
意識は弾けるようになくなって、全身が、刺客の手の内に落ちる。
すべては芸術的なほどの玄人の仕事で、何一つ背後に残さないまま、彼はエマニュエルを連れ闇の中へ消えていった。
*
どうして繰り返すの。
どうして、怒りがまた怒りを生むの──
どれだけ強がっても、結局、自分の番が来ると弱くなるのはどうして……。
重苦しい雨雲が立ち込める天空に、今、希望を
少しでもいい、分け与えて欲しい。




