Fascination of Paradise - 6
あなたの選んだ道は険しい。
孤独で、振り返ることの許されない道──
それでもいつか、あなたは辿り着くでしょう。光と愛に溢れた、その楽園に。
*
「ジェレスマイアさん……」
エマニュエルのか細い声が、二人の間を割った。しかしその効果のほどは、エマニュエル本人の意思に反し、火に油を注ぐ──という種類のものになった。
ジェレスマイアは一歩、また一歩と、モルディハイと距離を縮めていく。
その靴音が、部屋を鼓動させているかのように高く打ち鳴った。緊張と呼ぶには、あまりにも劇的な構図。
両人とも、自ら折れたり、謝ったりする種類の男ではない。
──王をふたりかかげる国が存在しないのは、それがどれだけ危険か、誰もが知っているからだ。
ベッドの上で、エマニュエルは狼狽した。
一体どうしてジェレスマイアがここに居るのか……自分で名前を叫んでおいてなんだが、これはあり得ないこと……。そしてマスキールは……。
(どうなって……る、の?)
対峙することで、二人の相違が浮き彫りになる。
ジェレスマイアの方はまだ、宴に出ていたのと同じ、整った華麗な衣装のままだ。対してモルディハイは外套を脱ぎ、残った上着も首元を緩めて乱れた格好をしていた。
身長はジェレスマイアの方がわずかに高い。しかしモルディハイの方が肩幅があり、骨太な印象があった。
「手違いがあったようだ、ジャフ王」
先に口を開いたのはジェレスマイアだった──背後から、凍りつくような気迫が立ち昇っている。灰の瞳は、残酷なほど冷たく鈍い光を放っているように見えた。
「面白いことを言う。手違いとはこの娘のことだろうか? この、自ら私の寝室へやってきた娘の?」
「それは貴殿に差し出せる種類の女ではない」
「──ほう」
逆にモルディハイの瑪瑙の瞳は、地中のマグマそのもの、今か今かと爆発を待つがごとく燃え滾っている。 『なにか』が起きる。
その場にいる誰もが、放心しているエマニュエルも含め、そんな予感を感じ取った。
逃げ出したいと、誰もが心の中で願った。人間には生存本能というものがあるのだ。
「それは困ったなものだ。どうしたものか……生憎と、こちらも簡単には返せない。まだ味わう前でね」
モルディハイが挑発的な笑みを浮かべながらそう言うと、一瞬の間髪さえ空けず、耳をつんざく鋭い破壊音が客間に響いた。
──誰もが一瞬、硬直する。
ジェレスマイアの後ろには、モルディハイの警護と見られるジャフの騎士が数人いたが、彼らも同様だった。
床に細かく散らばる白い破片が、破壊音の原因を物語っていた。
ザクリ、と自らが割った、破片の上を進むジェレスマイアの足音が響いた。
モルディハイも同様に前へ一歩出る。
その瞳は、まるで真新しい玩具を見つけた子供のように、燦々と輝いていた。
二人が胸を付き合わせるほど距離を縮めきると、背後の騎士たちは額に汗を浮かべつつ、剣の柄に手を伸ばしはじめる。そして、いつでも剣を抜き斬りかかれる体勢に構えた。
「や……」
エマニュエルが理解できるだけでも、ほぼ全員モルディハイの配下だ。
きっとジェレスマイアは丸腰だ。いくら王とはいえ、この部屋に入るために剣を取り上げられているはずだし、ジェレスマイアの近衛兵は見当たらない。
いくら強くても、いくら賢くても、このまま全員に襲われれば助かる見込みなど露ほどもない。
しかしジェレスマイアは、剥き出しの殺気を隠そうとさえしない──
「ま、待って……」
エマニュエルはベッドを這って降りようとした。
「動くな!」
──その瞬間、ジェレスマイアの怒声が響いた。
その、声は。エマニュエルは最初、誰が叫んだのか分からないほどだった。空気を震撼させ、身体を凍りつかせてしまうような、生の憤り。
どうして……こんな風に怒鳴られたのか、すぐには理解出来なかった。
しかし動きを止めると同時に、騎士たちの剣がすでに露わになっているのを、見た。エマニュエルが王に近付こうとした瞬間、騎士たちは警護の為の剣を素早く抜いた……らしい。
(あ……)
下手に動いては斬りかかられてしまうのだ。
「どうするか……この際、ここまで乗り込んできた無礼は多めに見て差し上げようか。娘を残し立ち去れば、なにもなかったことにしよう」
モルディハイの声は勝ち誇っている。
エマニュエルはジェレスマイアに向かって叫びたかった──逃げて、と。逃げて。私のことはいいから。呼んでしまってごめんなさい。来てくれてありがとう。でも、ここから逃げて……。
しかしジェレスマイアは一歩として怯む様子を見せない。それどころかモルディハイが喋り終わると、灰の瞳の冷淡さはさらに濃くなった。
そして、低く、しかしはっきりと告げる。
「『タリー』と申したか……貴殿の懐に隠された、小さな宝石は」
それを聞いたモルディハイの表情が、わずかに固まった。ジェレスマイアがそれを見逃すはずがない。今度はもっと低く、周りには聞こえない抑えた声で、モルディハイの耳元になにかをささやいていた。
ジェレスマイアが言い終わったとき、モルディハイの勝ち誇った表情はすでに消えていた。
代わりに、憎しみのこもった瞳がジェレスマイアを睨みつけている。今にも牙をむいて襲い掛かりたそうな顔だ。
「貴様……」
「そこにいる娘を返して頂こう。それですべては丸く納まる」
「その証拠が……」
「私の言葉だ」
モルディハイはそれでも、しばらくジェレスマイアを猜疑と憎しみに満ちた目で睨み続けていた。
そんなモルディハイと、彼の配下である騎士たちに囲まれながらも、ジェレスマイアは冷酷とさえいえる落ち着きを崩さない。しばらくすると、モルディハイが無言で踵を返し、エマニュエルの元に早足でつめ寄ってきた。
「立て」
そう短く命令して、エマニュエルの腕を掴むと乱暴に立ち上がらせる。
突然のことに戸惑ってまごつくエマニュエルに構いもせず、そのまま荒々しくベッドから引きずり降ろすと、華奢な身体をジェレスマイアに向かって投げ捨てるように渡した。
乱暴な行為に崩れそうになったエマニュエルの身体を、ジェレスマイアがしっかりと受け止める。
ジェレスマイアがエマニュエルの身体を支え、抱き合う形になった。
モルディハイはそんな二人を、なおも憎い親の敵を見るような目で睨んでいる。
しかし──
ぎゅっと、ジェレスマイアの腕に力が入った。
胸元に引き寄せられ、エマニュエルは小さな声を漏らす。
それを聞いた途端、モルディハイはなにも言わずに背を向けた。そのまま開けっ放しだった寝室に大股で戻っていくと、もの凄い勢いで扉を閉め、中に閉じ篭った。
客間に置き去りにされたエマニュエル達は、ただ、沈黙の中に残されて。
「あ……の……」
言ってみれば呆気ない──
その幕切れに、エマニュエルが不安げに辺りを見回した。
騎士たちは、主人の命令を失いどうするべきか迷っているらしかった。剣を構えたまま、しかし、殺気はもうどこにもない。
結局、
「騒がせてすまなかった。私はこれで失礼する。静かに休むといい」
とジェレスマイアが告げると──彼らは静かにジェレスマイアとエマニュエルのために道をあけた。
床にはジェレスマイアが割った高級そうな壷が、跡形もなく粉々に砕けて散っていて、それだけが二人の行く手を多少邪魔した。
エマニュエルが歩き難そうにしていると、ジェレスマイアが彼女の身体を軽々とすくい上げて──
胸に抱えられて客間を出る。
と、そこにはやっと、ジェレスマイアの近衛兵らしき者達が、モルディハイの騎士と対峙しながら待っていた。
出てきた二人を見た彼らの反応は、大きく二つに分けられた。
驚愕と。感心、だ。
「失礼した」
そう、ジェレスマイアはジャフ側の騎士たちに短く言うと、そのまま己の道を進んだ。後にはダイス側の近衛兵が付いてくる──彼らの表情は、冷静を装ってはいるものの、自分たちの王の勝利らしきものに誇らしげだった。
宮殿の回廊はもう夜に相応しく静まり返っていて、宴の喧騒はまるで嘘だったようにすっかり引いていた。
*
エマニュエルが自室に戻ると、そこがひどく久しぶりの様な気がして仕方がなかった。
豪華なドレス、モルディハイの迎え、宴、媚薬騒ぎ、そしてマスキールからの懇願に、暗殺未遂──
未遂と呼んでいいのか、エマニュエルにモルディハイを殺そうという確固とした決意はなかったけれど、失敗は失敗だった……と、思う。
エマニュエルにとってはますます、予言の意味が遠退いてしまった気がしていた。
「私がモルディハイさんの所にいるって、どうやって分かったんですか?」
──とエマニュエルが聞くと、ジェレスマイアは僅かに片眉を上げた。
どうやら、『モルディハイさん』なる新しい呼び方に、妙な違和感を感じたらしい。
「壁に耳ありという。伊達や酔狂でこの城の主をしているわけではない……媚薬の件はうかつだったが。悪かった」
それが答えだった。
それ以上の詳しい説明はなく、ただどうしても気がかりなマスキールのことを聞くと、「あれは暫く謹慎させておく」との短い答えが返ってくるのみだ。
そして……。
「『タリー』は……?」
「あれはただの脅しだ。知っていたのは名前だけ……効くかどうかは半信半疑だった」
「?」
「お前は知らなくていい、エマ」
嗚呼──なんという夜だろう。
しかし今は。
いつかそうしたように、二人でエマニュエルのベッドに横たわりながら、内緒で部屋を抜け出した幼い子供たちのように、小声で囁き合う。
空は白み始め、もう夜明けさえ近い。
ギレンは当然自室に下がっている時刻で、エマニュエルはまだドレスのままだ。
白い、絹のような質感の布は、ベッドの上で波打ち、谷間に薄い青色を浮かせていた。
あれだけの騒動のお陰で多少汚れてはいたものの、あまり懲りすぎない優雅な作りが幸いして、まだ美しい形を保ったままだ。
──ジェレスマイアは知っているのだろうか。エマニュエルが、モルディハイに刃を向けようとしたことを。
聞けなかったし、勇気を出して話を切り出そうとしても、ジェレスマイアはエマニュエルの口元に軽く指をあて、言葉を遮った。
ただ何度もエマニュエルが無償であることを確認し、モルディハイになにをされたか、と聞いてくる。
答え辛い質問で、エマニュエルは少し言葉を濁した。
「えっと、首の所に、その……モルディハイさんの顔が近付いて……。全然痛くなかったのに、なんだかすごく嫌だったんです」
エマニュエルは言いながら、問題のその首の根元を指差した。
うっすらと赤味がかった、そこ。
それを見ると、ジェレスマイアはあからさまに眉をしかめた。
しばらくするとジェレスマイアの手がゆっくりと伸びてきて、首元に垂れている金の髪をよけると、おもむろに上半身を起こし……そこに、静かに口づけをした。
(ああ……)
やっぱり、本当だったの……。
あの瞬間に胸の奥が叫んだ強烈な願いは。
ジェレスマイアがいい。ジェレスマイアじゃなければ、これは嫌だ、と──
エマニュエルは、ジェレスマイアの唇の感触を肌に感じながら、それを確信した。
「これから先の運命は、楽ではない」
ジェレスマイアはエマニュエルの首元から唇を離すと、そう、静かに告げた。
すぐ至近距離で二人の視線が絡む。
息さえ、共有しているように、すぐ近くに感じた。
「どうなるかは分からない──しかし、諦めるのはまだだ。今はまだ……」
祈りのようにさえ聞こえた静かな王の声に、エマニュエルは瞳を伏せた。
そう、この先どうなるかは分からない──今夜のこの一連の出来事が、吉と出るか凶と出るか。どう未来に影響していくのか。もしかしたら、今夜救われるために、明日を犠牲にしてしまったのかもしれないのだ。
「まだ今は……こうしていられる」
「……はい」
答えると、エマニュエルは伏せた瞳をもう一度見上げた。
──また視線がからみ合って、二人は、どちらからともなく微笑み合う。
「今夜のお前は美しかった、エマニュエル」
「あ、ありがとう……ございます。でも、せっかく綺麗にしてもらったのに、変なことばっかり起こって……」
「そうだな──なにか、したいことはあったか」
「したいこと?」
「踊りも観劇も、大してしなかっただろう。なにか逃したものがあれば、そのうちもう一度なんらかの機会を用意させよう。時間さえ許せば」
「踊り……」
エマニュエルはジェレスマイアの言葉を反芻した。
結局緊張続きで、実際どうやって宴が進行していたのか詳しく知らないままのエマニュエルに、思いつく『したいこと』など大してない。しかし──『踊り』?
その一言は中々に乙女心をくすぐった。
「踊って……もらえますか? 一緒に」
どこか甘えた声に、ジェレスマイアは微笑んだままうなずいた。
「明日にでもまた音楽隊を用意させよう」
「違うの……なにも、音楽も他の人たちもなにも、なくていいから、今ここで……二人で」
「…………」
ジェレスマイアは一瞬だけ、拍子の抜けたような奇妙な顔をした。
──これがモルディハイと対峙した時の、あの厳しい顔の王様と同一人物だとは思えないような、そんな表情で。
しかしジェレスマイアは、小さく微笑をこぼしたすぐあと、彼らしい優雅にして機敏な動きでエマニュエルを抱え上げると、ベッドから降りた。
「きゃっ」
すとんと床に落とされると、ドレスの裾が華やかに広がる。ジェレスマイアは、驚くエマニュエルの片手をすっと取った。
子供の頃読んだ絵本に、こんな場面があったような気がする……。
そう思えるほどジェレスマイアのエスコートは完璧だった。
腰をくいっと引き寄せられると、波に乗るように自然に、身体が動き出す。
「わ……っ」
「肩の力を抜くといい。慣れればすぐ楽になる」
最初は、軽い足運びで、まるで振り回されるような調子だった。
戸惑いながらも慣れてくると段々楽しくなってくる。エマニュエルが笑い声を洩らしながらジェレスマイアの調子に合わせられるようになってくると、今度は、それが止まってゆっくりとした動きに変わった。
「すごい……」
「幼い頃から何度やらされてきたと思う。王宮など、普段はこんなことの繰り返しばかりだ」
そう言いつつ、ジェレスマイア自身も楽しんでいるらしかった。ダイスの王は、エマニュエルの腰を抱いたままゆったりと踊り続け、青の瞳を愛しげに見下ろす。
窓から漏れる月光に、エマニュエルのドレスが美しく浮かび上がっていた。
抜けるように白く、細い肩が露わになっていて、それは情欲を煽るには充分な美しさだった。
しかし──
同時に、この純粋な花を摘んでしまってはいけないと、忠告を運んでいるようでもある。
ジェレスマイアはぐっと腕に力を入れた。
掴まれた強さに、エマニュエルが不思議そうに瞳を瞬く。どうにかしてやりたかったが──そこまでが、ジェレスマイアの限界だった。
元から音楽があったわけでもないのに、その時、急に周囲が静かになった気がした。
「え……」
エマニュエルがつぶやいた時には、もう遅く。ジェレスマイアの唇が、エマニュエルのそれに柔らかく重なっていた。
何度か、ついばむような柔らかい口づけがなされる。
最後に頭の後ろを両手で抱えられ、情熱的で長い、本物の接吻を受けた。
戸惑いはほんの一瞬で──
エマニュエルは、生まれて初めての受けたはずの口づけを、懐かしい……と感じた。
*
あなたの心に燃える炎を、消してしまわないで。
時にすべてを焼き尽くす業火も、今は、この心を優しく暖めてくれる……。




