Fascination of Paradise - 3
ジェレスマイアはそう簡単にはエマニュエルを手放せない。
たとえ、それに国運が掛かっているとしても──それがモルディハイの予想だ。
モルディハイとしては、彼女を無理やり連れ去るなり、陵辱してしまうなりするだけでいい。あの様子からして、ジェレスマイアが黙ってそれを見ているだけで終わるとは思えなかった。
そうしてジェレスマイアがなんなりの怒りの行動を取ってくれば、モルディハイにはそれで充分なのだ。
ジェレスマイア側からの攻撃の事実があれば、もう遠慮する必要はない。
他国に対する言い分も立つ上に、未来の、ジャフに対する反抗の牽制にもなるだろう。
今は低いジャフ国内の士気も盛り上がる。
もし逆にジェレスマイアが反応しなかった場合でも、手口はいくらでもある。
エマニュエルがモルディハイに手を掛けようとしただとか、間者としてジャフの内情を流していただとか、そのような口実を上手く立てて、同じように利用すればいいのだ。
それがモルディハイにとってのエマニュエルの価値だった。
多少見目に優れているという以外、彼女の価値はあくまで、ジェレスマイアに愛されているという一点に絞られた。
後は大人しく駒になってくれればいい。
それ以外に、望むことなどなにもない──
*
軽妙でいて華やかな音楽を打ち鳴らし、男女が気の赴くままに混ざり合い、妖艶で熱い時を過ごすジャフ式の宴とは違って、ダイスが国力を挙げて催す晩餐会はどこか高貴な香りがした。
まず音楽が違う。
穏やかで心を落ち着かせる繊細な曲が、脇役として場を和めているに過ぎず、間違っても踊り狂う者が出てくる雰囲気ではなかった。
人々の衣装は、派手さより繊細さや意匠に重きを置いており、個人を主張するよりは周りとの調和を目指しているらしかった。
どれだけ酒が飲めるかで男を競うようなことは一切なく、それに代わって、どれだけ機知に富んだ会話が出来るかが紳士の値打ちを決めるようだ。
女性が自ら男を誘惑することは少なく、そっと着飾って相手を待つ、蜜蜂を待つ花のような存在だった。
ジャフの女はもっと積極的だ。芳香を武器に、自ら狩りに出る。
(さて、どうするか。直接手を出してもいいが、遊んでみるのも一興……)
モルディハイは歓迎の祝杯を受けると、ジェレスマイアの対座に席を設けられ、自由に楽しめるようになっていた。
お目当てのエマニュエルは当初、すぐには姿を見せなかった。
挨拶諸々の行事が終わり、場が落ち着いたころやっと、侍女に付き添われ大広間に顔を出したのだ。
侍女に付き添われたまま、あちこちの装飾を見ては顔を輝かせたり、楽隊の演奏に見惚れたりと、随分幼い行動を繰り返している。
まるで生まれて初めて社交の場に出た少女だ。
ジェレスマイアの寵姫というから、どこぞの良家の娘だろうと踏んでいたのだが……。
──違うのだろうか?
そうなると、エマニュエルの人質としての価値は落ちる。
しかしモルディハイ個人としては、逆に面白かった。
あのジェレスマイアが選んだのが、そういった政治的理由を抜きにした少女だったという事実が、モルディハイの好奇心を余計にくすぐったのだ。
「王のお傍には行かれないのですか? 遠慮する必要はないんですよ」
そわそわと辺りを見回しているエマニュエルに、ギレンが微笑みながら言った。
エマニュエルは頬を染め、自らの行動を恥じるように、小さく肩をすくめる。
「いいの? その、私、邪魔しちゃいそうだし……」
「王同士の重要なお話なら、今ではなく別の会食の場でなさられる筈です。今夜は楽しむために設けられた席ですから、邪魔ということはありませんわ。逆に、待っていらっしゃるのではないかしら」
「……っ!」
「それこそ、あまりうろうろしていると、お呼びが掛かってしまいそうです。それを待っている姫君も多いのですけど、ね」
エマニュエルに耳打ちするギレンは、彼女自身もまた、エマニュエルに合わせた水色のドレスを着ていた。
作りは古典的だが丁寧で、エマニュエルを引き立てていると同時に、中々に綺麗だ。
そもそもギレンは若く美しい。
そんなふたりは、会場の隅に佇んでいるばかりなのにも関わらず、周囲の注目と羨望の瞳を浴びていた。しかし今のエマニュエルに、それに構っている余裕はない。気付いてさえいないというのが実際のところだ。
しかし、ギレンの言葉が気にかかって、エマニュエルは微妙に避けていたジェレスマイア達の方に、そっと視線を向けた。
すると見事なくらいにすぐ、ジェレスマイアと視線が合った。
周りを華麗な衣装の男達にぐるりと囲まれながらも、その場に浮かぶように、目を引く……王。
──好きだから、なのか。
それともやはりジェレスマイアは特別な輝きを持った人物なのか。
理由ははっきりしなかったけれど、今は、そんな理屈など胸の高鳴りの前に呆気なく消えていってしまう。
吸い込まれていくように自然に、エマニュエルはジェレスマイアの方へ歩を向けた。
ギレンは微笑しながらその後ろに続く。
晩餐会の中心となる大広間は、奥に長い長方形になっている。入り口からより奥に進むにつれ上座になり、集まっている者の身分も高くなっていく仕組みだ。
当然、ジェレスマイアとモルディハイはその先の先、最も奥にいた。
大広間を横断する形で、エマニュエルとギレンは奥に進もうとしていた。しかしその時──
「まぁ、ギレン、ギレンではなくて? 素敵なドレスね! ご機嫌はいかが?」
ふたりの背後から甲高い声が響いた。
エマニュエルとギレンが揃って後ろを振り返ると、そこには豪華に着飾ったミシェルが、興奮気味の面持ちで立っている。後ろには似たような年代の姫がもうひとり。
ギレンは頭を下げた。
「これはミシェル様。こんばんは、ご機嫌麗しゅう」
「ああ、いいのよ、いいの。ギレン、そちらが噂の方ね。私、タジャン公爵の長女、ミシェルと申しますの。以後お見知りおきを」
ミシェルはエマニュエルの前へ出ると、軽く頭を下げて見せた。後ろの姫もそれに習って頭を下げる。
エマニュエルは戸惑ったが……無視するわけにもいかない。とりあえず、自らも挨拶した。
「えっと……こちらこそ宜しくお願いします。エマニュエルです」
「エマニュエル! まぁ、素敵なお名前ですわね! お召し物も素敵ですわ。今夜は、お話できて嬉しい」
「はぁ」
「今日はお綺麗でしたわ。皆噂しているところよ」
「そんな……えっと、ありがとうございます……?」
エマニュエルにとってミシェルの様な姫君はまだまだ不可解で、空の上の生き物のような存在だ。そんなエマニュエルの戸惑いを、ミシェルは彼女の未熟さと解釈したようだった。
女性同士特有の、相手を観察するような鋭い視線をエマニュエルに這わせると、艶かしい笑みを浮かべる。
「そう、よろしかったらご一緒に飲み物でもいかが? 珍しい種類の果実酒を見つけましたの。とろけるように甘くて、美味しいんですのよ」
と言って、後ろにいたもうひとりの姫に振り返った。
彼女の手には透明の小さな杯がある。注がれている飲み物も半透明で、中に赤い果実が一粒、可愛らしく添えられていた。
「わあ、美味しそうですね」
「うふ、そう、美味しいですのよ。そう申したでしょう? いかが?」
「甘いんですか?」
エマニュエルの好物は甘味だった──特に果実の甘さが好きで、この誘惑に弱い。
それを知ったジェレスマイアが、宵、エマニュエルの部屋を訪れる際に、よく果実の砂糖漬けを用意してくれていたほどで。
嬉しそうに瞳を輝かせたエマニュエルを見たミシェルは、ますます艶かしく微笑んだ。
──罠に掛かろうとしている獲物を見る、猟師の微笑み。
もしくは森で小鹿を見つけ、影で舌なめずりをしながら襲撃の瞬間を模索している、獣の目。
そんなものがミシェルの表情に浮かんだのを、ギレンは見た気がした。
杯に向かって伸びるエマニュエルの手をやんわりと止め、声を落としてささやく。
「でも、エマニュエル様、お酒は大丈夫ですか? 一度も召し上がるところを見たことがないのですけれど」
「前に少しだけ……大丈夫だったけど」
「あまり急にいただくのはよくありませんわ。慣れない席ですし」
「そ、そうかな」
ギレンの忠告に、エマニュエルは伸ばしていた手を引いた。
するとミシェルは一瞬焦った顔を見せて、自分から進んで杯を手に取って、掲げてみせる。
「嫌だわ、果実酒とは名ばかり。女子供のためのもので、殿方は見向きもしないのよ。名前は何だったかしら……確か、『楽園の花』ね。ほら、どうぞ」
ミシェルはエマニュエルの手をとって、そこに杯を預けた。
ギレンが戸惑いの表情を見せるのにも関わらず、ミシェルは困っているエマニュエルに幾度となくうなづいてみせる。
(楽園の花)
──偶然だろうか。しかし、その名前はあまりにも直接に、エマニュエルの心をくすぐった。
透明な水の中に落ちた、小さな果実。
とろけるような甘さ……。
エマニュエルは少しの間、その杯をじっと見ていた。傍ではミシェルが妙にそわそわしながら、そしてギレンがどこか不安げな顔をしながら、エマニュエルの動向を見守っていた。
「……いただきます」
エマニュエルはそう言うと、ゆっくり杯に唇を近付け、コクリと一口小さく飲み込んだ。
「わっ」
「いかがかしら? 甘いでしょう」
「う、うん、すごい……美味しいです」
「うふ。良かったわ! あぁ、ギレンもいかが? 皆の分を用意させて、一緒に頂きましょう」
「いえ、私は──」
甘いというだけではなく。とろけるような舌触りは、いつまでも余韻を残しつつも、まとわりつかない。
確かに酒独特の匂いも強さもなく、本当に名ばかりのようだ。
しかしこのうっとりするような感覚はなんだろう──本当に楽園の花の香りに囲まれているような気分になれる。
「ね、ギレンも呑んで……すごく美味しいから」
「エマニュエル様」
「素直な方ね。あぁ、ほら、もっときたわ。どうぞ!」
いつの間に手配したのだろうか、給仕の為に会場を回っていた小柄な男が、エマニュエルが呑んだのと同じ杯をのせた盆を持ってやってきた。
ミシェルはそこから人数分の杯を取ると、皆に分ける。
「今晩はお会いできて嬉しいわ。さぁ、杯を上げましょう。束の間の楽園に……乾杯を!」
ジェレスマイアはわずかに眉をひそめた。
──視線の先、会場のずっと向こうで、無邪気にはしゃいでいるエマニュエルを見ながら。
ギレンを含めた他の姫たちと、なにやら楽しそうに笑い合っている。そんな彼女を見るのはジェレスマイアにとって初めてだった。
「近衛──あれをこちらに」
「はっ」
傍にいた近衛兵の一人に短く指図すると、ジェレスマイアは周りには気付かれない程の小さな溜息を洩らした。
はしゃぐのも分からなくはない。明るく、同年代の姫たちと談笑を交わすのも、当然といえば当然のことだ。
暗い部屋に篭って、泣き続かれるよりはずっといい──
しかし、今のエマニュエルの笑顔はどこかおかしい。火照っていて艶やかで、ジェレスマイアの知るどのエマニュエルの表情とも違っていた。
(分かっているのか……)
会場にいるのはジェレスマイア達ばかりではない。老獪な政治家達などその一部に過ぎず、大部分は、エマニュエルが何者なのかさえ知らないただの貴族たちだ。
若い独身の男達も少なくない。
彼らの目的は、王宮に顔を売ると同時に、年頃の女性を探し出すことだ。結婚相手をと望んでいるのはまだ良い方で、中には一夜の相手を求めている輩もいる。
宴という日常から切り離された空気に、箍を外す者は多い。
そこに、今のエマニュエルはまるで餌だ。
どこの馬の骨とも知れぬ連中から声が掛かるのも時間の問題といえた。
案の定、ジェレスマイアが行かせた近衛兵がエマニュエルに近付き、声を掛けようとした際、彼女らの傍にいた青年たちと短い諍いを起こしていた。
しかし彼らも、流石に王の近衛には逆らえない。
王の命令と分かり、すぐに身を引いたようだ。──卑怯なことをしているとは思わなかった。
近衛兵にエスコートされジェレスマイアの元にやってきたエマニュエルは、間近で見れば見るほど、艶やかな表情をしていた。
ジェレスマイアは回りを囲んでいた政治家達から離れ、エマニュエルの元へゆっくりと進んだ。
「……ジェレスマイアさん」
「どうした。なにか妙なものを飲んだな」
「違います、『楽園の花』です。あのね、本当に楽園にいるみたいな気持ち……」
「──?」
楽園の花──聞いたことはある。しかし、女子供が親しむ酒に似せただけの飲料で、甘く、人を酔わせる力はなかった筈だ。
それにも関わらずエマニュエルは明らかに酔っていた。
誘うような潤んだ瞳に、息はいつもより早く、熱い。ジェレスマイアはぐっと自身を押さえ込み、低く呟いた。
「部屋に戻った方がいいだろう。マスキールを呼ぶ」
しかし、ジェレスマイアがそう言うや否や、エマニュエルはジェレスマイアの胸元に飛び込んで声を上げた。
「やっ! だったら、ジェレスマイアさんも一緒に来て!」
「エマ……」
「一緒じゃなくちゃ駄目、離れないで!」
──周囲の者達が振り返る。幸い、広間全体に響くほどの声ではなかった。
ジェレスマイアはそのままエマニュエルを周りの目に触れさせないように、腕とマントの中に包んだが、当のエマニュエルはその中でうんうんともがく。
そんなエマニュエルの頭上に、ジェレスマイアはそっと囁いた。
「どうした……なにかを飲んだんだな」
「違うの……違うの……あのね、本当に『楽園の花』だけ。でも、熱いの。すごく胸が高鳴って、触れて欲しくなるの」
「触れる──?」
ジェレスマイアは腕の中のエマニュエルの手首を取ると、脈をみた。確かに異常に早く打っている。
ただ緊張のせいで鼓動が高鳴るという種類のものではない。
ジェレスマイアがエマニュエルの手首を掴んだままでいると、火照ったエマニュエルの細い身体が、微かに震え始めた。
「ど、どうして……? 変なの……なにか、変。息が、苦しい……」
なにかを求めるように、エマニュエルは掴まれているのと別の腕をジェレスマイアの胸に這わせた。
ジェレスマイアを見上げる青の瞳は、次第に潤んでくる。
「媚薬だな。すぐ医師を呼ぶ」
顔を上げたジェレスマイアを、エマニュエルは切ない表情で見つめた。また傍の近衛兵に医師を呼ばせる、慄然とした王の横顔を、どこか遠くに感じながら。
一部の享楽的な貴族が媚薬を用いることが時々あった。大抵は特別な薬草を使った一過性のもので、酒に酔う程度の効能しかない。
しかし量を違えば毒にさえなる──命に関わることだってあるのだ。
エマニュエルに与えられたのがどれだけの量なのか。分からないが、ジェレスマイアの腕の中で息を上げ、小刻みに震える様子から、尋常な事態でないのは明らかだ。
医師の到着を待ちながら、ジェレスマイアはエマニュエルを抱く腕にぎゅっと力を入れた。
その時──
「どうなさられた。ダイスの王、ジェレスマイアよ」
しばらく席についたままだったモルディハイが立ち上がり、ジェレスマイア達に近付いてきた。
「エマニュエル姫ではないか。気分が優れぬとの話だったが、これはどうした」
モルディハイはエマニュエルに手を伸ばした。
まるで、猫を撫でようとするような滑らかな手付きだ。エマニュエルはなんとか、ぼぅっと、そんなモルディハイを見上げた。視線が合うとモルディハイは目を細めた。
「これはこれは……」
「見ての通りだ。申し訳ないが、これはまだ大きな席に慣れぬ。医師を呼んだ故、心配されることはない」
「それはまた残念なことだ。付き添わせては頂けぬものか?」
「ジャフ王たる貴殿に、なんと恐れ多いことを。お気遣いは無用」
「しかし──」
そんな王達の会話を、エマニュエルは上の空で聞いていた。
媚薬とはなんなのだろう?
最初はあんなに気持ちが良かったのに、ジェレスマイアを目の前にした途端に息が上がって、彼の胸へ触れると今度は、苦しくて堪らなくなった。
そして今は……なぜだろう、視界が段々と白くなっていく……。
「あ……」
最後に小さな声を出すと、エマニュエルはふっと力を失った。
ジェレスマイアの腕の中に倒れ──遠くに、自分の名前を呼ぶいくつかの声を、聞いた。