Fascination of Paradise - 1
高らかに空へ響く楽隊の音楽と、見事に整列された、重厚な制服で身を包んだ騎士たちの集まり。
その前に、豪華な兜をつけられた馬たちが並ぶ。
後方に控える貴族や婦人たちもまた、華やかに着飾っていた。
ダイス王宮の正面──
城門から王宮までの、真っ直ぐに整えられた道は今日、華やかに着飾った人々が両脇を固め、溢れていた。
季節も温かくなりはじめた折。
ふたりの王を迎える宴が、両国の威厳と運命を賭け、はじめられようとしていた。
*
まず差し出されたのは、淡い桃色の可愛らしいドレスで、エマニュエルは不思議に思い首を傾げた。
それに気が付いたギレンが、微笑んで補足を加える。
「こちらはお迎え用のものです。礼のドレスは今夜の宴の為に。今、やっと仕上げが終わったところですのよ」
さて──エマニュエルはその桃色の、典型的ではあるが上品なドレスを押し着せられると、自室で待機しているようにと言い渡された。
柔らかい布がきゅっと腰を締め付ける感覚は、いまだに緊張感を強いられる。
エマニュエルが今まで両親の元で着ていた服といえば、大抵ゆったりした作りで、精々胸元か腰に小さなリボンが結ばれていた程度だ。
(可笑しくないかな……)
自分がどう見られるか、などという意識も、ほとんど持ったことはなかった。
時々、両親に美しいと褒められると嬉しかった、という程度で。
それが今は気になって仕方がなく、ソワソワと気が急く。
エマニュエルは金糸のように伸びた長い髪を結い上げられており、ドレスの薄い桃色に合わせた花形の髪飾りが一つ、耳の上あたりに挿されていた。
──これはジェレスマイアの償いなのだろうか。
そう思っていた。
美しい衣装、豪華な宴、特別な待遇。
こんな物たちを彼から与えられる理由など、他に見つからなくて。
(でも決めたの。今は……理由なんてどうでもいいから……)
ジェレスマイアへの想いを自覚してからは、もう、エマニュエルに王宮を抜け出す気はなくなっていた。
予言のことも──ジェレスマイアはそれが起きないように尽力していると言ってくれたが、決心はできている。本当にジェレスマイアが自分の命を必要とする時がきたのなら、その時は……と。
確か、今日迎えることになる迎賓とは、いつかマスキールが言っていた、ダイスを侵略しようとしてる国の王だ。
政治にも国家間情勢にもたいして詳しくないエマニュエルだが、自国の隣に位置する、強大な国の名前くらいの知識はある。
ジャフ──頻繁に近隣の小国を略奪し、その富や命を奪う、尊大な国家だと。
今のエマニュエルにとって、ジェレスマイアはひとりの男だ。
夜、眠りにつく前に優しい言葉をくれる、穏やかなひと。灰色の瞳が深くて、美しい。ほんの少しだけ癖のある漆黒の髪は、上等の絹のようにしなやかで強く。彼の低い声はエマニュエルの胸を震わせる。
そんな彼が、この悪名高い大国の王と対峙する図は、少し想像し辛い。
考えたくないというのが本音だろうか。
とにかく最近のジェレスマイアは、あまりエマニュエルに『王らしい』姿を見せなかったのだ。
独りきりの部屋でエマニュエルが窓辺に視線を移すと、普段は静かな王の間の庭にさえ、宮殿正面の華やかな騒音が響いてきた。
(お迎え用って言ってたけど、あそこに行かせてもらえるのかな)
宮殿正面から、この王の間までは距離がある。
あの最高預言者を名乗る老婆に連れられて出たことがあるから、大体の距離感はあった。ギレンが連れて行ってくれるものとばかり考えていたが、彼女はエマニュエルにドレスを着付けたきり、どこかへ下がってしまったままだ。迎えがくるまで待っていてください、との言葉を残して。
迎え──という言葉だけで、心臓がトクンといつもより強く鼓動を打つ。
期待しているのだ、ジェレスマイアのそれ、を。
しかし次の瞬間、エマニュエルの部屋の扉を叩き、顔をのぞかせたのはマスキールだった。
「これはこれは……ギレンの言っていただけはありますね。貴女は宝石だ、と。磨けば磨くほど輝く」
そう言って部屋の奥、エマニュエルの前まで進み出ると、マスキールはエマニュエルの手を取りそこに軽く口付ける仕草をする。
「マスキールさんこそ凄い格好です。今日は皆、こんな風なんですか?」
「皆というわけでは。私もこれで、一応は宰相という身分ですから。男は皆同じようなものですよ。女性たちは華やかに競い合っているようですが……しかし貴女は特別だ。一段と美しい」
マスキールはといえば、真紅の上着に金の刺繍と肩当を携え、純白のズボンに、黒い重厚な長靴といういでたちだ。
髪も後ろに一糸乱れずそろえられ、わずかな薔薇の芳香さえただよわせていた。
「王の隣にさえ相応しい。さあ、いらして下さい」
差し出されたマスキールの手を、エマニュエルはなにも言わずに取った。マスキールはそのエマニュエルの表情を見て、微笑を浮かべながらささやく。
「そんなにがっかりした顔をなさらないで下さい。王なら、この先におりますよ」
「え──」
手を引かれ扉を抜け、回廊に出ると、そこには確かに数人の警備の騎士達──彼らもまた、普段より豪華な格好だ──と、彼らに囲まれた王……ジェレスマイアが立っていた。
姿を現したエマニュエルを真っ直ぐに見つめるジェレスマイアも、また、王の身分に相応しい衣装を身に着けていた。
それは灰とも銀ともとれるような、上品で重厚な色の上着だ。
まさにジェレスマイアの瞳の色で、ぞくりと背が冷えるような威厳が、否応なしにジェレスマイアの全身を覆っている。意匠を凝らした金の刺繍も全体に施されていたが、それも元にある灰銀の、わずかな引き立て役でしかない。
マスキールはエマニュエルを連れたままジェレスマイアに近付き、厳かな礼の姿勢をとった。
「ご立派であられます。ジェレスマイア陛下、ダイスの王冠を守るに相応しい者」
「ここで余計な礼はいらぬ。すでに先発の知らせが届いた。もう半刻のうちに到着するだろうと」
「はっ。では、進まれますか」
マスキールと会話を交わしている間も、ジェレスマイアの視線はエマニュエルに張りついていた。
また、エマニュエルの瞳も当然のように、ジェレスマイアから離れられない。
「エマニュエル」
「ジェレスマイアさん」
お互い名前を呼び合うと、ジェレスマイアはその場にいた全員に振りかえり、目配せした。それが席を外せという意味だとエマニュエルに分かったのは、周りが波を引くように消えていったからだ。
ふたり、回廊に残されたジェレスマイアとエマニュエルは、数秒変わらず無言で見つめ合い続けた。先に沈黙を破ったのは、エマニュエルの方だ。
「……私も行くんですね。王様のお迎えなんて、私、したことないから失敗しちゃうかもしれないです」
「エマ」
「もし予言の時がきたら、一つお願いしていいですか? お父さんとお母さんに、ありがとうって伝えてください」
「──エマ、聞くんだ」
ジェレスマイアの手がエマニュエルの両肩を握る。
胸元が丸く上品に開けているドレスで、エマニュエルの息が上がるとその胸が呼吸に従って上下した。
「私はできる限りのことをする。出来ないことでさえ、してみせる。その話は、本当に最後の最後にだけくる。今、私がお前を連れるのは、ジャフ王がそれを望んだからだ。大方あの夜の刺客が報告したのだろう。ジャフ王はお前を見たがった。それだけだ。余計なことはしなくていいし、なにを言う必要もない。挨拶だけすませば、エマ、お前は下がるんだ」
「…………」
肩を握る手が、徐々に力を増していく。痛くなってエマニュエルが眉を寄せても、ジェレスマイアはすぐには放さなかった。
「私の隣に立っていればいい。それ以外は、お前にはなんの責務も、責任もない」
それを聞いても、エマニュエルはしばらく青い瞳を揺らし続けるだけで、答えなかった。
しかし今は時間がない──
影からマスキールの咳払いが響いた。時間切れ、というところか。
ジェレスマイアがもう一度繰り返す。
「分かったか」
その言葉に、エマニュエルもやっとうなずく。そうしてやっと、ジェレスマイアの手が、エマニュエルの肩から解かれた。
「行きましょう、陛下、エマニュエル様。時がきたのです」
マスキールが柱の影から再び姿を現し、回廊の先を指した。
同時に警備の騎士達も、素早い動きで彼らのもとにまた集まってくる──
エマニュエルはマスキールに連れられ、ジェレスマイアの一歩後ろから、宮殿正面までの道を進んでいった。
その道のり、ジェレスマイアの背中は、エマニュエルさえ近付けないほどに力強く、厳かで、静かだった。
──そしてなにより、孤独だった。
王の道。
ああ、私の命がこの背中を救えるなら……なんだってできるから。なんだっていい、すべてを貴方に捧げられる。
*
ジェレスマイア達が王宮の正面に辿り着くと、そこから続く門までの道を固めていた観衆たちが、大きな喜びの声を上げた。
もうすぐこの先の門をくぐり、ジャフ王モルディハイとその多くの配下たちが、ジェレスマイアの元を訪れるのだ。
ジェレスマイアは王宮の前。
そしてその先の城門からきたるべき、モルディハイ。
観衆たちは双方に期待の目を向け、今か今かと時が来るのを待っていた。
楽隊の奏でる音楽が、その場をより一層盛り上げる。
エマニュエルは王宮入り口の前、扇形にひらけた階段の上に佇むジェレスマイアの隣に立たされていた。
足元には赤い絨毯が敷かれ、下へと長く流れるように続いている。
貴族の子息らしき、小奇麗で上品な顔付きをした幼い子供達が、花びらで一杯にした籠を持って両脇でそわそわしている。
エマニュエルはつい、ジェレスマイアの横顔を見上げた。
そして、真っ直ぐ前を射るように見ているジェレスマイアの視線の先を追って、エマニュエルもまた前を向いた。
──優雅に整えられた、一糸乱れぬ庭園。白い砂利を敷いた道。
「……ジェレスマイアさん、一つ、聞いてもいいですか?」
エマニュエルが口を開くと、隣のマスキールは神経質にシーッと歯の間から声を出した。
が、ジェレスマイア本人は微笑んだ。顔は正面に向けたままだが、口元を柔らかくほどいて、静かに言う。
「なんなりと。なにが知りたい」
ジェレスマイアの声は落ち着いていて、甘かった。
マスキールは仕方なさ気にそわそわと視線を泳がせる。エマニュエルはそれを気にとめず、ジェレスマイアと同じように目の前に広がる庭園、そして城門まで続く道を眺めながら聞いた。
「王宮のお庭って、どうしてこんな風に、草を刈ったり木を切ったり、花の場所を一つにまとめたりしちゃうんですか? 草原みたいに、自然にしていた方が綺麗なのに……」
そう言って、庭園の一角を指差す。
「あの辺りからここまで、ずーっと小さな花の種を蒔くんです。垣根は入り口の所だけにして、王宮の正面は一面、広い草原みたいに……きっとジェレスマイアさんのお家にぴったりだと思います。花は、そう、コスモスがいいです。春先はすごく綺麗ですよ」
言い終わると、エマニュエルはジェレスマイアに目線を戻した。
そして、同意を求めるように「ね?」と促す。
ジェレスマイアは薄くではあるが微笑んで──「考えておく」と短く答えた。
ジェレスマイアにとって、王宮の庭園とは生まれたときからこの形だ。
仕様こそ季節と庭師の手によって変わるものの、常に人の手の行き届いたものにするのが当然で、当たり前だったのだ。エマニュエルの発想は新鮮で、そして、愛しい。
「本当? 約束ですよ」
「言った通りだ、考えておく、と」
「それだけじゃ駄目ですっ。うーん……そう……」
エマニュエルはぽんと手を叩いた。
「もし……予言が本当にその通りになったら、その時はそうしてみて下さい。私の思い出に……。全部じゃなくてもいいから、この辺りに少しだけでも。春にここで花を見たら、私を思い出して くれるように」
その時。
ジェレスマイアはまるで、雷に打たれたような表情でエマニュエルを振り返った。エマニュエルの顔をさまざまと見つめ、そして、灰色の瞳を曇らせる。
「予言は──」
そう、ジェレスマイアは口を開きかけた。
しかしまさにその時、城門に配備されていた騎士が、モルディハイ到着の笛を甲高く鳴らした。
笛が空に響く……。
高く、高く、祈るように。
観衆たちは一斉に喜びの声を上げた。豪華な御輿と、それを守るようについた騎馬隊の一行が、城門をくぐるのが見える。
『やがて嵐が止んだとき……』
──預言者の声が、その笛の響きに重なり、ジェレスマイアの耳に痛いくらいに響いた。
『この王宮の前には沢山の花が咲くよ。草原に生えるような色とりどりの花さ……美しい。あんたは泣くだろうね』
*
モルディハイはやがて王宮の前までくると、御輿を降り、数名の供を連れただけで自らの足で進んだ。
赤い、獅子の鬣のような髪。
それに合わせた緋色の豪華な衣装が観衆に晒されると、歓喜はさらに高まった。
不遜な笑みを隠そうともしないまま、モルディハイはジェレスマイアの待つ王宮の階段を上った。
──ふたりの王が対峙する瞬間。
子供達のまく花弁が、場面を華やかに彩った。
「しばらくぶりだ、ダイスの王、ジェレスマイア──互いに王として向き合うのは、これが初めてであろう」
「この国の王として貴殿を歓迎する。ジャフ王、モルディハイ」
火蓋は静かに切って落とされた。
モルディハイの視線が、意味ありげに隣のエマニュエルに移される。
「こちらが噂の姫か……美しい。お見知りおきを願おう、モルディハイだ」
「は、はい……えっ」
モルディハイは否応なしにエマニュエルの手を取ると、その甲に口付けた。それがまた、挨拶を超えるような、ねっとりと熱く長い口づけだった。
──宣戦布告とはこうして成すのだと、言いた気でさえあった。
やっとモルディハイがエマニュエルの手を離そうとした瞬間、ジェレスマイアもまた、その宣戦に答える。エマニュエルの肩を抱くと、自らの背の後ろに追いやった。
「申し訳ないが、今、これは気分が優れぬ。今夜の宴まで下がらせておくつもりだ」
「それは残念……しかし、宴への楽しみが増えるというものだ」
私を忘れないで。この時を覚えていて。
それで充分だと言ったら、それは嘘だけれど──せめてこの楽園の欠片を、その思い出を、貴方の心のどこかに住まわせておいて欲しいの。