Follow to the Paradise - 2
天国は遠い。
離れてみてはじめてわかること。
楽園はすぐ傍にある。ただ、近すぎて、時々見えなくなるだけ──
*
「どうなさいましょうか、ジェレスマイア様。私達に異存はありませんが」
執務室の中央に構えられた、濃い色目の重厚な机に向かっていたジェレスマイアに、老首脳が声をかけた。
ジェレスマイアは目を通していた通書から顔を上げ、その老首脳の表情を一瞥する。
老首脳の瞳には懇願が──ただ願うというだけでなく、断られる訳にはいかないという決意が、はっきりと見てとれた。
「もしジャフの王があの娘を望むなら、それこそ予言の成就というものです。差し出してしまえばよろしい。それによって、国の平和と安泰という貴方の願いが叶うかもしれないのです。安いものではありませんか?」
この老首脳の後ろには、マスキールが控えていた。
部屋にはこの三人しかいない。
全員が、エマニュエルの予言について知っている数少ない者のうちだ。
今、彼らの間で問題にされているのは、そう──エマニュエルについてだった。
モルディハイ王のダイス訪問を受け入れ、その準備に乗り出した今、問題となっているのはいかに時期を引き伸ばすかよりも、いかに被害を最小にとどめるか、だった。
出来る限り心証良く、怒りを買う口実を与えず、間者の浸透を防ぐ方向へ持っていかなければならない。
そのためには細心の注意を必要とした。
つまり、娘を一人差し出すくらいでモルディハイの機嫌が良くなるなら、そうしてしまえばいいではないかということだ。
モルディハイはエマニュエルの存在を嗅ぎつけ、それを見たいと通書でわざわざ明言している。
「──口を慎んでもらう、ダヤン公」
しかし、ジェレスマイアは老首脳を見据えたまま、落ち着いた低い声で言った。
「あれも私が護るべき国民の一人だ。モルディハイ王はそこまで甘い男ではない。しかし──」
一旦言葉を止めたジェレスマイアに、ダヤン公と呼ばれた老首脳は表情をあらためる。真意を知ろうと、皺に沈んだ瞳でジェレスマイアの顔を注意深く見つめている。
「見たいと言っているなら仕方あるまい。歓迎の宴に出す程度は構わん。用意はマスキール、お前がするだろう」
「は……」
黙って後ろに控えていたマスキールが、やっと口を開いた。「仰せのままに」
その口調は、心からの同意というよりも、立場からくる義務で自動的にしているという感じだ。
ジェレスマイアはそれについてなにも言及しなかった。
筆を机に置くと、いつも通り、しなやかな無駄のない動きで立ち上がり、くるりと前に立つ二人へ背を向ける。
振り向いたそこには、金箔で飾られた木製の額に収められている、ダイスの地図が掲げられていた。
地形の周りには美しい装飾の施された文字で、ダイスの歴史が大まかに、年代順に記されている。数代前の王が熟練の芸術家に作らせたものだという。
豪華だが無駄のない素晴らしい出来栄えで、この執務室に訪れるすべての者を、時に感嘆させ、時に畏怖させている画だ。
それを臨む王の心境を想像して、マスキールと老首脳はそれ以上口を挟まなかった。
しばらくの沈黙の後、ジェレスマイアは彼らに背を向けたまま、静かに切り出した。
「軍の強化を──近衛隊から腕の立つ者を数人引き抜き、別の隊の訓練を指導させよう。現役を退いたものでも、まだ動ける者には召集をかけろ」
*
たとえ、今から大陸最強の大軍が王宮を攻め込むと分かっていたとしても、姫君たちの無邪気さと、ある種の高慢さは、まったく変わるところがないようだった。
彼女たちはそのように生まれ、育ち、それ以外の世界を知らないのだ。
「ミシェル様、恐ろしい知らせですわ!」
頬を紅潮させた一人の姫が、ドレスをひらめかせながらミシェルの傍へ駆け寄った。
はしたない、とでも言いた気に、長椅子に腰掛けたミシェルは眉を寄せる。
「嫌だわ、恐ろしい知らせ……そんなもののために急ぐとは、どういうことなの!」
ミシェルは相変わらずの甲高い声で、走り寄ってきたその姫相手に口を尖らせた。しかし姫の方は気にしていないようだ。それ程重大な──彼女たちにとって──知らせがある、というところらしい。
「わたくし、先程、王宮お抱えの仕立て屋のところに行って参りました。少し今の外套が痛んできたので、直して頂こうと思ったの。そうしたら、ミシェル様、そこにあのギレンがいたのですわ」
件の姫はミシェルの隣に腰掛けるなり、そうまくし立てた。
ミシェルはますます眉を寄せる。
一体、だからなんだというのか。ギレンとて一応はそれなりの家督の出だ。仕立て屋に服を頼むくらいのことはするだろう。
──そんなミシェルの考えを察してか、姫はすぐ先を続けた。しかし今度は、少し声を落として。
「『今日はなんの御用かしら?』と訊いたんです。答えは、仕えている姫君が大きな宴に出席される予定なので、その衣装を作らなければならないからです、と言うのですわ……ミシェル様、これはどういうことかしら」
そこまで言って、姫は一息ついた。
逆にミシェルは、顔を強張らせ、厳しく眉をつり上げはじめる。
「大きな宴? それは、聞き捨てならないのではなくて……?」
「そうですわ……もしあの噂の……」
「嘘よ!」
ミシェルは空気を裂いてしまいそうな声を上げた。
姫はそんなミシェルの反応を予想していたようで、ただ、小さな溜息を吐いて首を横に振る。
「分かりませんわ。もっと詳しく訊こうとしたら、これ以上は口止めされていますので、とギレンが。わたくし、もうその場で気を失うかと思ったくらいです」
「あぁ……もう、役立たずっ!」
ヒステリーを起こしはじめたミシェルに、しかし、これも姫は予想していたようで、ただ曖昧に肩をすくめるだけ。
──歴史は長く深いが、ダイスの王宮は一般人にもひらけていた。
城門で安全確認を受け、許可さえおりれば、一般の者も足を踏み入れることができるのだ。もちろん彼らが足を踏み入れられる場所は限られているのだが、それでも、進歩的なことに変わりはない。
王族や貴族同士で固まり、その内輪だけで豪華な宴会を繰り広げ続ける習慣はあまりない。
姫君が新しい衣装の調達に熱を出す大きな宴などは、年に数回あるかどうかという程度だった。
食事会などは多く設けられるが、ささやかで慎ましい集まりになることが多い──もちろんそれも、『王族や貴族』という一般の基準から考えれば、という比較の中でではあるが。
そんな訳で、ミシェルのような姫君たちにとって、その年に数回の宴の席は、数少ない活躍の場といえるのだ。
美を競い、新品のドレスを誇り、殿方の睦言を雨あられと受ける──
何日も前からその日の為に準備をし、少しでも腰を細く見せるために食事を減らし、会話の練習をする。
外の世界の者が見れば、それはなんとも贅沢で、それでいて少し馬鹿げている努力のようにも映るが……彼女たちは真剣なのだ。無邪気にも。
そして今。
まさに、その数少ない機会の一つが訪れることになると、王宮中の女という女が噂を立てているところだった。
隣の大国ジャフの王・モルディハイが、ジェレスマイアを訪ねるというのだ。
歓迎の宴は当然、国中の貴族や王族、美姫が集められ豪華に行われるだろう。
そこに顔を出す権利を与えられるということは、紛れもない特権であり、彼女達にとってはまたとない素晴らしい機会だった。
普段は華やかな場をそれほど好まないジェレスマイアも、宴となればさすがに多少は態度を軟化させる。
──少なくとも彼女達はそう信じていた。
直接自分から話し掛けるのは難しいが、彼の眼に留まれば、向こうから御呼びが掛かる可能性がなきにしもあらず……。
当然、ミシェルをはじめとする、似たような立場の姫達は色めき立っていた。
正確な日時はまだ公開されていないが、使用人の数が増えたり、宴の為の装飾品や貴金属を売る行商人が出入りするので、そう遠くないうちに開催されるのだろうと、誰もが予想している。
しかし──
「私達にはまだ、はっきりとした招待もないというのに……」
それは、特権中の特権を示していた。
例えば、正妃のような特別な地位にいるものには、先に知らせがくる。
最も美しく着飾る必要があるのだから、準備も念入りに──というところか。とにかく、それは限られた者だけに許される、信頼と……そして王からの視点で言えば、寵愛の印といえた。
興奮していたミシェルだが、深い息を吐くと胸を押さえ、顔を上げた。
「悔しいわ……どうにかしなくては。そう思わなくて?」
ミシェルの口調は、独り言に近かった。
隣の姫は一瞬、息を呑む。悔しいのは彼女も変わらないが、こればかりはどうしようもないのだ。自分たちにできることといえば、精々憂さ晴らしの悪口を言うことくらい。
そう割り切っていた。
しかしミシェルは、そんな殊勝な性格ではない──
良くも悪くも、ミシェルは野心家で、常に上を上をと目指す女だ。
「もちろん私達にできることなど限られているわ。でもね、少し意地悪するくらいいいでしょう?」
*
ギレンが持ち込んだ布の束に、エマニュエルは危うく瞳を白黒させるところだった。
(エマニュエルの場合、黒ではなく青だろうか?)
ギレンがエマニュエルの部屋に持ち込んだのは、数寸の、手拭程度の大きさの布ばかりだが、それでも一瞥しただけですべて最高級の品だということが分かる。
「さあ、エマニュエル様! ドレスの形状は私達がきちんとデザインして整えますから、エマニュエル様は色と布地をお選びになって下さいませ!」
「え、えっ……と?」
エマニュエルはその一つを手にとって、そしてその柔らかさに驚愕して、火傷したようにすぐに手を離した。
「これってその、今度の歓迎の宴……っていうもののためですか?」
恐る恐る聞いてみる。
どうにもギレンは興奮しているようで、頬をわずかに紅潮させながら、瞳を輝かせている。
エマニュエルの質問に、どういうわけか、妙に誇らしそうに胸を張って答えた。
「そうですわ。まだ王宮の者達にも知らされていないのです。でも、エマニュエル様は特別です。今からご準備を、と」
「特別!?」
エマニュエルは声を上げた。
確かに今朝、すでにマスキールから話を受けていたのだ。近い内に、近隣の王を迎える歓迎の宴があり、エマニュエルもそれに出席することになったと。
当然エマニュエルは驚いたが、マスキールの言によれば、王宮の者はほとんどすべて出席する──
貴女はそう肩を張らなくてもいい──とのことだった。
──はずだ。
「でも、あの、ギレンは出ないの?」
「さぁ……私は……もしかしたら、エマニュエル様お供としてだして頂けるかもしれませんわ。でも、私のような使用人の準備など数日あれば終わります。問題はエマニュエル様ですわ」
「問題……」
「念入りに磨き上げて欲しいとのことです。私、もう嬉しくて!」
「…………?」
確かにギレンは嬉しそうだった。
まだ驚きを隠せないエマニュエルと相対的に、布を一つ一つ手にとって、これはどこで作られるなんという模様だとか、こちらはこんな特別な木の根から取れる色で染められたなんとかという種類のものだとか、それは熱心な感じで説明をはじめている。
──なにが特別で、なにが問題なのだろう?
エマニュエルにはどうしたって、王宮の作法や習慣は謎なのだ。
どうして自分だけ先に衣服を作る必要があるのか……
すでに与えられている物で充分な気がするのだが、それを今の嬉しそうなギレンに言うのは、少し気の毒にも思える。
そもそも、どうして自分までその宴に呼ばれるのかさえ分からない。
エマニュエルはギレンの説明を流すように聞きながら、机の上に広げられた布の山の中から、目に入った一枚に触れた。
(わ……っ)
──それは薄く、小鳥の羽のように柔らかい布だった。
最初は白く見えたのに、光の加減で、薄い青が現れる。
引き抜いて胸元に手繰り寄せてみると、これだけ薄いのに、とても強くしっかりしたつくりの布だ。
「まぁ、エマニュエル様、まさにぴったりです。どうですか? その青海石にも合うと思いますわ」
──目を細めて微笑みながら、ギレンが穏やかに言った。
エマニュエルの首元には今、ジェレスマイアから送られた首飾りが掛けられていて、静かに、しかし強くその存在を主張している。
「そ、そうかな……」
「そうですよ。少し肌の色に合わせて見てください……ほら、とても映えます。吸い付くようですわ」
うっとりとしたギレンの口調に、エマニュエルは頬を染めた。
元々ギレンはこういった、衣装を選ぶ仕事がとても好きなようで、エマニュエルの世話を焼くかたわら、それを趣味にしているようなところがあった。
実のところエマニュエルは、自分ではそうと気付かないうちに、随分と美しく磨き上げられている。
事情を知らないギレンが、エマニュエルをジェレスマイアの側室候補と考えていて、それに見合った『仕事』を充分にした──ともいえる。
そんなギレンにとって、今回の宴にエマニュエルが招待された──しかも、他の姫君たちより先にその知らせを受けた──というのは、大きな喜びだったわけだ。
ジェレスマイアがエマニュエルの存在を公式に認め、宴に招待する。
これは正式に側室へ召し上がるのも時間の問題に思えた。
──しかも、ジェレスマイアはここのところ、ギレンが恥ずかしくなるほど足しげくエマニュエルの元に通っている。
エマニュエルの胸元にある首飾りは、その名残りとも……証拠ともとれた。
「楽しみですね、エマニュエル様。そうそう、少し作法も教えて差し上げろとマスキール様から承っていますから、頑張って下さいませ」
嬉しそうなギレンとは逆に、エマニュエルは不安だった。
──特別、とは?
ギレンは知らない──
しかし、自分がこの王宮で『特別』な理由は、一つしかないのだ。
『時がくれば、私はお前を殺す。それによって私の願いは叶う。それが、私とお前の運命だ』
最近のジェレスマイアは優しい。
彼が、ただ冷徹で厳しいだけの王でないのもわかった。
しかしこれは、なんなのだろう? どうして?
時々ジェレスマイアが見せる、狂おしそうな瞳が、エマニュエルに一つの予感を浮かばせた。
そして宝石……美しい布……宴への招待。
『時』がきたのだろうか?
これは、彼にとっての、償いなのだろうか……?