Follow to the Paradise - 1
燃えるような赤毛は、よく獅子の鬣に例えられた。
尊大な態度を粗野だと批判する貴族もいたが、そんな者達はいつの間にか王宮から追放されていて、以後誰もそれを口にする者はいない。
瞳は、光の角度によって何色とでもとれる、瑪瑙のようだ。
赤に近い緑、茶色と黄色が混ざったような色が、変幻自在にその存在感を示す。
隆々とした肉体を豪華な衣装に包み、闊歩する姿は、たとえ彼を王と知らぬものでも平伏せてしまう派手やかな迫力に満ち溢れていた。
西の大国ジャフに君臨する若き王、モルディハイはそんな男だ。
──ダイスのジェレスマイアを虎に。
このモルディハイを獅子に例える者が多いのは、なにも偶然ではないだろう。
「ふん、あれも頑固な男だな。大人しく降参すれば臣下にでもしてやろうというのに、自ら進んで茨の道を行くとは」
なみなみと酒がつがれた杯を手に、モルディハイは、そう言うと声を上げて盛大に笑った。
そり返るように王座に座り、隣には黒髪の美姫をはべらせている。
正面には三人ほどの臣下が仰々しく頭を下げ、『ありがたく』王の言葉を拝聴している──豪華絢爛、大陸一の華やかさを誇るジャフの王宮の中央、獅子の間と呼ばれるモ ルディハイの部屋では、いつもの情景が繰り返されていた。
「まったくです、モルディハイ様。大陸最強を誇る我が王に抵抗しようとは、愚かの極み」
「少し貿易が栄えているからと、調子に乗っているのでしょう」
「なんとも小賢しい限りです。もちろん、すぐ我が王の前に平伏すことになるでしょうがな!」
臣下たちは口々にモルディハイの言葉を肯定して、煽てた。
当のモルディハイはといえば、満足そうにそれを聞いてはいるが、どこか一線を引いて彼らを分析しているような狡猾さもある。
そう──こんな諂った言葉に易々と乗るほど、モルディハイは愚かな男ではないのだ。
言葉そのものは楽しむが、それには飲み込まれない、妙な均衡がある。
「ほう、そう言うか? ならば一刻も早くあの男と引き合わせて貰おう。月変わりの宵までに準備が調わなければ、文書代わりにお前の首をあの男に送るとするしよう」
モルディハイはそう言って、腰の剣を見事な速さで抜くと、臣下の一人の首元にピタリと当てた。
ヒッと咽を絞ったような悲鳴が響く。
他の二人も、恐怖でその場に凍りついた。
モルディハイの胸元にすがっていた黒髪の姫だけが、どこか楽しそうな微笑みを妖艶に浮かべ、その情景を見ていた。
「言い訳は聞き飽きた。命が惜しくば、さっさと話を付けることだ」
素早く剣を引き、元の鞘に刃を戻す。
その動きは、派手ではあるが無駄がない──
「興が冷めた。お前達は下がっておれ──そこの女、くるがいい」
モルディハイは立ち上がると颯爽とマントを翻し、臣下たちに背を向けた。女、と呼ばれた姫がその後を追う。
こんな情景も、そうだ、この部屋ではよくあることだった。
*
そして寝室にて──
「なぜそんなまどろっこしい事をなさるのかしら……? 愚かなわたくしには、よく分かりませんわ」
女を寝台に残し、立ち上がったモルディハイは自分で肌着を身に着けた。
予想に反してモルディハイはこういった雑事を召使いにさせるのをあまり好まず、用意だけさせると、自ら身に付けることが多い。
「謁見などせずとも、ジャフと王の力を持ってすれば、あんな小国は簡単に片付けられてしまうのではなくて? 兵を向けてしまえばそれでいいように思えるのだけど」
女は、濡れるように艶やかな黒髪を揺らしながら、シーツを身体に当て上半身を起こして言った。
モルディハイは振り向きもせず、口の端を上げ答える。
「出過ぎるな、女。俺には俺の考えがある。それにあの男とはもう少し遊びたい。ただ片付けるだけでなく、もっと──」
モルディハイは最後に帯へ手を掛け、力強くそれを結ぶと、鏡に映る自身の姿を見た。
「もっと苦しませてやりたいのだ。あの澄ました顔が歪むところを、もっと見てみたいのだ」
黒髪の姫は答えず、きゅっと口を結ぶとシーツを持つ手に力を入れた。
モルディハイは顔だけ、肩越しに彼女の方を振り返る。
「お前は私の正妃の座を狙っているのだろう。まったくご苦労なことだ……よく凝りもせず」
「そんな! わたくしは……っ」
「だがよく覚えておけ。俺はお前達を正妃として娶るつもりはない。俺の相手はもう決まっている」
「え」
紅をさした女の唇が、わずかに開かれたまま止まった。
──相手は決まっている、とモルディハイは言った。つまり、意中の女性がすでにいる、と。そういうことだろうか。
「俺が欲しいのは『あれ』の女だ。今の今まで孤独で孤高だったあの男が、やっと執心を覚えたらしい。それを寝取るほど面白いことはあるまい?」
落胆で顔から血の気を失っていく女を尻目に、モルディハイは、身支度を済ますとすぐ部屋を出た。
──久しぶりにふつふつと滾る血潮を、全身に感じながら。
ダイスから届いた新しい知らせが彼の血をこう躍らせるのだ。まだ手にしたばかりの知らせだが、その信頼性は確かだった。
あの忌々しい男──ダイスのジェレスマイアに、やっと寵妃が出来たという。
ジェレスマイア。
今まで国以外のいかなる物への愛着を持たなかった男だ。
こういう性質が特定の人物──特に男が女に対して──へ愛情を持つと、その執着は並ならぬ大きなものになる。
モルディハイはそれをよく分かっていた。
だからこそこれほど興奮する。
あの冷ややかな灰色の瞳が、嫉妬で狂い、絶望に叫ぶさまを想像しながら──意図せずも、妖しげな笑みがモルディハイの口元を飾った。
──あの男は、モルディハイの唯一の邪魔だ。
他の小国は揃いも揃って大国ジャフの前に膝を折るというのに、ダイス、つまりジェレスマイアだけはそれをしなかった。
もともとそれがダイスの国民性でもある。誇り高く独立心の強い、特殊な国だ。
しかしジェレスマイアのそれは、また抜きん出ていた。少なくともモルディハイの目にはそう映った。
──比べられ続けたのだ、随分と長い間。
王の嫡子として生まれたモルディハイに、当初、優劣を比べられる存在などなきに等しかった。
生まれたその瞬間からすべてにおいて自分が一等だったのだ。
最高の教育、最上の賛辞、考え付く限りのすべての高級品が、幼いモルディハイに雨あられと与えられていた。
しかし──
『ダイスの皇子は中々の逸材だそうだ。愚鈍なモルディハイ様よりずっと優れているかも知れませぬ』
まだ少年の日に偶然聞いた、初めての、敗北を意味する言葉。
大人達の何気ない噂話だったのだろう。
──しかし、少年のモルディハイには、深く傷つくに充分だったのだ。
また成長するにしたがい増えてゆく、似たような言葉と、屈辱の数々。
どういう訳か、大国の皇子として教育を受けた割に、モルディハイは荒々しい性質で粗野とさえ思われる男に成長した。
逆にジェレスマイアは、小国の未来の主として、過ぎるほどの洗練を身に付けていく。
こんな噂は、風が舞うように軽々と、大陸の隅々にまで広がっていった。
(見ているがいい──優れているのは、どちらか)
国を──歴史を──世界を動かす原動力など、しょせんこんなものだ。
愛と執着、憎しみと嫉妬。
モルディハイは長い大理石の回廊を早足で進みながら、きたるべき未来を想像して、また怪しげな笑みを深めた。
*
「これは青海石と呼ぶ──通称『海の涙』だ。本来は海底で採れるものだが、ローレルの森の奥で時折見つかる。太古はここも海だったのかもしれぬ」
そんな言葉と共に手渡された、美しい青い宝石のついた首飾りに、エマニュエルは驚きを隠せなかった。
青海石と呼ばれたその宝石は丁寧に涙の形に整えられ、華奢で細い金の鎖に繋げられている。
澄んだ青の宝石と、金。
それ以外にはなにも飾りのない清楚な首飾りだ。
しかし洗練された高貴な美しさは、息を呑むものがあった。
「綺麗ですね……。すごく素敵」
エマニュエルは素直に感想を口にした。ジェレスマイアはそれを聞いてうなずく。
「気に入ったのなら身に着けておくといい。なんらかの守護があるという話だ。私は信じる質ではないが」
「え!」
エマニュエルは驚きの声を上げた。
──どうしてこんな綺麗な物を自分に見せてくれるのだろうという疑問はあったものの、それが自分に贈られるという考えには結び付いていなかったのだ。
まさかのジェレスマイアの台詞に、エマニュエルは慌てて首を左右に振った。
「貰えませんっ。こんなに綺麗なのに、私なんかにはもったいないです」
「嫌ならば強制はしない。捨てたければ捨てることだ」
「捨て……! そ、それは……っ、もっとできません!」
「好きなようにしろ。どちらにしても、それはもうお前の物だ」
それだけ告げると、ジェレスマイアは首飾りを持ったエマニュエルの手を、自らの手で包んで閉じさせた。
首飾りを握ったエマニュエルの小さい両手を、ジェレスマイアが更に包むような格好だ。
ふたりは立ったままで、しばしの間、言葉なく見つめ合った。
トクン、と鳴る心臓の音。
早まる鼓動に合わせて、熱くなる身体。
夜の闇が窓から差し込む、深夜に近い時間──ここ数日、いや、すでに数夜。
どういうわけかジェレスマイアは毎晩エマニュエルの部屋を訪れた。執務がすんでからなのだろう、くる時間もいる長さもまちまちであったが、必ず顔を見せにきた。
決まってなにか渡される物があって、毎回趣向が異なる。
書物だったり、衣服だったり、甘味だったり。が、今夜は、少し特別だ。
エマニュエルは戸惑いながらも、手に包まれた宝石をきゅっと握った。
冷たい澄んだ青の石だが、肌に触れると気持ちのいい温かさがあって、愛着を誘う。
「あ、りがとう……」
と、また素直に言ってみると、ジェレスマイアは静かに、しかし確かに微笑んだ。
(わ、わぁ……っ!)
熱くなっていた頬が、途端にさらに温度を増す。
間近で見るジェレスマイアの微笑みは、ことの他に柔らかくて、冷たい灰色の瞳が優しげに細まるさまは、神秘的な気さえした。
紡がれる言葉が少ないのが、かえって熱を煽って──
ジェレスマイアはそうしてエマニュエルの手を離すと、そのまま
「よく休め」
とだけ低い声で言って、踵を返した。
そしてまた静かに、僅かな香だけを残して、部屋を出て行く。
エマニュエルはそのまま、なにも言えずにジェレスマイアの背中を見送った。
これが、ここ数夜、繰り返されている儀式のようなジェレスマイアの訪問の、お決まりの最後だ。
あとには彼の残り香と、はやる鼓動と、熱くほてった身体が残される。
そして中々眠れない夜が、これに続くのだ。
深夜でさえ忙しそうにしていることがあるのを知っているから、必ずしも、というわけではない。もしかしたら執務に戻っているのかもしれない。しかし、そうでなければ彼は、この壁を数枚通した向こうで床に就いているはず……そう思うと簡単には眠れなかった。
どうしてだろう、なにが変わったのだろう。
この胸の高鳴りの意味も、ジェレスマイアの態度の変化も。
分からない事ばかりで、足元を見失いそうな妙な気分に浮かされる。
(どうなっていくの……)
私たちの未来。
殺し、殺されるかもしれないという危うい均衡の上に立っていただけの、最初のふたり。
それは今も変わらないはずなのに、芽生え始めた 『なにか』。
変化の風が吹くのだろうか──
運命のときが訪れるのだろうか──
それぞれの心にそれぞれの決心を抱きながら、今、運命はその時を迎えようとしていた。
*
「――もう、限界ですな」
深い溜息とともに、老首脳はそう言うと天井を仰いだ。
マスキールはそれに声なくうなずいた。
「明朝に返事を出しましょう。先方に見合うだけの準備を整える時間が必要だと言い繕って、多少は引き伸ばしますが」
「うむ、賢明でしょう。王に御許可を」
「今夜のうちに」
様々な手を尽くし、モルディハイ訪問の受け入れを引き伸ばしてきたが、さすがに限界がきたようだ。
ジャフに諦める気配はない。それどころか、要求は増えるばかり。
今日届いた通書は、要求というより懇願といった文面だった。向こうもあらゆる手を使ってきていたが、今回のそれは泣き落としに近いものだ。
もしダイスに謁見を受け入れて貰えないのなら、モルディハイ王の悲しみにより何人もの首が飛ぶでしょう──と。
もちろん『悲しみ』とは、ただ現実を煙に巻いただけの表現だ。
真実はマスキールもよく分かっていた。
「──覚悟を決めましょう。時はきたのです、我々は、我々にできるだけのことをやり尽すまで」
「その通りです」
足掻くのは愚かだろうか。もがくのは浅はかだろうか。
ふたりの王。運命の少女。
誰もが願い求める、楽園への道──