Searching for Paradise - 4
ピピピ……と小鳥が朝の到来を告げながら頭上を飛んでいった。
まどろみの中で、朝が、明けてしまったようだ──
マスキールは頭痛を越えた鈍い重みをこめかみに抱えたまま、空を仰いだ。
木の葉の間から漏れる光がまぶしくて……目に痛い。
空を仰ぐと軽い眩暈が襲ってきたが、ここで倒れるわけにはいかない……そう、なんとかマスキールは踏みとどまった。
可笑しなもので、人はある一線を越えると、すべてがどうでもよく思えるようになるらしい。
一晩中宮廷内の端から端までを走り回り、声を上げ目を光らせ、激昂している主をなだめ続け……そろそろ体力の限界点が近づいてきた気がしたが、もう、なる様になればいいと半ば諦めかけていた。
普段から鍛えられている警備の騎士達とは違い、マスキールは文官だ。
ある程度の剣術は確かに嗜んでいたが、それも教養の範囲。
しかしジェレスマイア──幸か不幸か、彼は正に、文武両道を模したような君主だった。
状況さえ違えば誇らしい事実であるが、今のマスキールはそれを嘆いていた。
剣術においてジェレスマイアの右に出るものはこのダイスにいないと言われ、政務の間を縫っては、自己鍛錬を続けている。
その実力は自衛術の枠を大きく越え、影では将軍王の名を頂いているのだ。
まだその治世において大戦の経験はいないが、中小規模の動乱や侵略、暴動鎮圧の際には自ら軍を引き連れて戦ったこともある。
ジェレスマイアに向けられる警備の騎士達の羨望の眼差しや尊敬は、ただ、ジェレスマイアが王だからというだけではなく。
しかし、そんな怪物のような男について一晩中走り続けなければならなかった身としては、話は別であり……。
連れ去られたエマニュエルの行方を捜索し始めてから、一晩明けた、今。
マスキールは重い足を引きずりながら庭園の奥を進んでいた。
前を行くジェレスマイアに疲れの影は見えない。
流石の騎士達でさえ、唸りを上げ始めている。もちろん実際に声に出す者はいないが、顔色からそれがうかがえるのだ。
いや、それはマスキールのひねくれた妄想だったのだろうか──?
とにかくそんな時だ。
騎士の一人が大きく声を上げた。
「王よ、発見しました!」
──だっただろうか。とにかくひと気のない庭園の奥の一角で、いち警備の騎士が倒れていたエマニュエルを発見したのだった。
「ああ、やっと……!」
と感嘆したマスキールの深い安堵は、しかし、ほんの一瞬で終わった。
発見されたエマニュエルは気を失っており、ドレスのあちこちを破かれ、土に汚れ、まるで暴漢か野獣に襲われたあとのような惨状だったからだ。
*
眩しい朝日がまず視界をおおい、それに続いて、辺りの情景の輪郭がゆっくりと浮かんでくる。
(あ……れ……)
いつか一度、同じような場面があった気がする……。
そんな不思議な既視感に包まれながら、エマニュエルはうっすらと瞳を開いた。
身じろぐと柔らかいシーツがさらりと肌を撫でて、それがまた、もう一度眠りに戻ってしまいたいくらいに心地良いのだ。
──あぁ、いつもの朝だ。エマニュエルはそう思った。
「……ん……」
ゆっくりと上半身を起こす。
多分、もう一刻もしないうちにギレンが朝の挨拶に来るはず……。
もし朝寝坊をして着替えないままでいると、ギレンが着付けを手伝いたがる。エマニュエルはこの行為にいまだに慣れずにいて、ギレンが朝、顔を出すより先に着替えを済ませておくのが、いつもの習慣になっていた。
習慣とは恐ろしいもので、その朝も、エマニュエルが最初に考えたのはそんなことだった。
だから──小さく頭を振ってやっと正面を見据えたとき、目に入ってきた光景に、エマニュエルは口を開けたまま硬直した。
ギレンは今にも泣きそうな顔でエマニュエルの無事を喜んでいた。
その隣に立っていたマスキールは、珍しく、げっそりと疲れたような顔つきだ。しかしその彼も同じように無事を喜ぶ言葉を口にしている。
以前に何度か見たことのある、宮廷の医師がエマニュエルの脈拍や体温を検めた。
そしてジェレスマイア──
は、彼らの横で、石像のように動することなく、エマニュエルを鋭い視線で注視し続けている。
突然降って湧いたような光景に驚きながらも、エマニュエルは終始、その灰色の瞳に、まるで狩人に狙いを定められた小動物のようにビクビクとしていた。
医師がよこすいくつかの身体的な質問に、エマニュエルはなんとかぽつりぽつりと答えた。
しかしどうしてこうなったのか、なぜこんな風に彼らが自分を囲んでいるのか、エマニュエルはすぐに状況を把握しきれないまま。流されるように。
身体はまるで生まれ変わったように軽く、気分はいつになく壮快だ。
心配される理由はない……はず、の気がする。が、彼らはいたって真剣だった。
(昨日の夜……そうだ! あのお婆さんと外に出て──)
それをはっきり思い出して、我に返ったのはすぐだった。
あの最高預言者を名乗った老婆に連れられ外に出て、王宮の庭園を駆け抜け、そして地下の隠れ部屋のような場所へ入った。
入って──それから?
記憶はそこで見事にプツリと切れている。
医師は一通りの仕事を終えたようで、床を離れ、ジェレスマイアに何かを静かに耳打ちしていた。
そんな彼らを見ながら、エマニュエルは疑問を口にしてみた。
「あの……私、昨夜、どうやってここに戻ってきたんですか?」
エマニュエルの無邪気な質問に、しかし、その場にいた一同は凍りついた。
──実際のところ、凍りついたのはあるひとりを除く、他の一同ではあったが。その『例外』はと言えば、凍りつくどころか、今にも爆発せんばかりの熱をその胸にたぎらせていたのだ。
「覚えていないのか」
ジェレスマイアが低く言った。
すぐ傍にいた医師は、自分に語りかけられた訳でもないのに、ヒッと小さく悲鳴を上げた。
「は……はい、確か、お婆さんが来て、外に行こうって言われて……それから」
それからどうしたのか?
ぽつりぽつりと断続的に覚えてはいるが、混乱していて、筋道立てて口頭で説明できるほど頭が整理できていない。
いつか伝えるべきことがあったような気がするが、ジェレスマイア以外にも人がいるのに軽々しく口にしていいものなのか……謎だ。
特にギレンは、預言がどうのという話は知らないはずだ。医師もいる。
「それから……」
と、もう一度繰り返して言って、エマニュエルは黙り込んだ。
続くはずのエマニュエルの言葉を待って、一同はごくりと咽を鳴らした。しばらく沈黙が場を飲み込み、誰もが、その沈黙を破る一言を望んで息を呑む。
しかし実際に先に口を開いたのは、エマニュエルではなくジェレスマイアだった。
「医師、ご苦労だった。お前達も職務に戻れ」
それは事実上の厄介払いだ。
分かってはいても、逆らう理由も力もない。マスキールとギレン、そして医師は形ばかりの儀礼をすますと、静かに外へ出た。
*
部屋の外へ出て、最初に声を漏らしたのは医師だった。
「あのようなジェレスマイア様は本当に久しぶりに拝見致しました。何度前にしても、震え上がってしまうものです」
「私もだ。普段冷静な方だから余計な……」
マスキールは衣服の首元を緩めながら、そう答えた。
その仕草はまるで、やっと息が出来るようになった──とでも言いたげだった。
「しかし、あのお方がご無事で何よりです。あれだけ衣服が乱れていたにも関わらず、ご本人は傷一つないとは」
つぶやいた医師の口調は、関心している風だった。マスキールも頷いたが、頭の隅では、別の事に考えを巡らせている。
あれだけの大捜索の結果、エマニュエルが見つかったのは庭園の一角、落ちた木の葉に飾られた何の変哲もない場所だった。
何度も同じ場所を見回ったはずだし、なにかに包まれて隠されていたわけでも、どこかに繋げられていたわけでもない。
それが朝になって突然、ふっと現れたのだ。
無残に服を方々破られ、土や泥で汚された姿で。
それを最初に目撃したときのジェレスマイアは──多分に今頃、宿舎に戻った騎士達が盛んに論議を交わしていることだろう。
ジェレスマイアはエマニュエルを抱え起こそうとした警備の騎士を一喝し、ゆっくり、静かにエマニュエルの元に近付いた。
そして、気を失ったままの彼女を胸に抱きかかえたかと思うと、ただ一言、
「医師を」
と言って、自らの手で彼女をここまで運んだのだ。
それ以外はなにも言わなかった。
しかし、それがかえって、彼らにことの重大さを思わせたのは間違いない。
やっと一晩の捜索から解放された安堵も手伝ってか、彼らは揃いも揃って、一つになったふたりの姿を驚きの目で眺めていた。
無理もない。エマニュエルを抱くジェレスマイアの姿はまさしく、愛妃を抱くそれ、だった。
他の男が彼女を抱き起こそうとしたのを止めた事実を考えればさらに、色の方に想像を向けるのが自然だといえよう。
マスキールとて、もう、それ以外は考えられなかった。
普段は冷静沈着に徹しているあの王が、一度事が起こると爆発した火山のように熱くなるのは、今に始まったものではない。
過去にも突然の暴動、自国への侵略行為があったときなど、ジェレスマイアは同じように冷徹の仮面を脱ぎ去りそれは雄雄しく戦ったものだ。
エマニュエルが行方不明になったことに同じ反応を示すのも、王として、不思議な反応ではなかった。
王宮、しかも自身の王の間に滞在していた人間が連れ去られたのだ。
看過すべきことではない。
しかし──問題はその後だ。
あの、傷付いた(ように見えた)エマニュエルを抱くジェレスマイアの姿は、獅子王のものではなかった。
(私もたいがい、矛盾しているな……)
こんな、理屈の通じない、なりふり構わない愛情は、長い間ジェレスマイアに欠けていたものだ。
家臣として、そして何よりも血の繋がる者として。それがジェレスマイアに芽生えたというのなら、喜ばしいとさえ思えるのだ。
しかし相手はエマニュエルである。ジェレスマイアに命を捧げることで、彼の願いを叶えると予言された、当の娘であるのだ──
(だからこそ、なのだろうか)
運命はジェレスマイアに最大の犠牲を強いる、ということなのか。
これが、あの烈氷の王に与えられた運命だというのなら、それは余りにも重い──
*
静か、だった。
マスキール以下、ここに居た者達が退いた後の、エマニュエルの部屋。
彼らが居なくなったのだから、洗いざらいジェレスマイアに話してもいいような気がしたが、何故か、そんな雰囲気ではないのだ。
ベッドに上半身を起こしたエマニュエルを見つめる、深い灰色の瞳。
エマニュエルもそれを見返したが、視線が合うと、そのまま飲み込まれてしまいそうな、魔法に掛けられてしまいそうな、妙な熱が身体の芯を襲う。
「医師はどこも支障がないと言っていた。手入らずだ、とも」
だから、ジェレスマイアが静かに、一寸たりとも表情を崩さずそう告げたとき、エマニュエルはきちんと聞き取れていなかった。
エマニュエルが小さく首をかしげる、と、ジェレスマイアはそのまま続けた。
「分からぬのなら構わぬ。あらゆる意味で無傷だったということだ」
「はい……。あの」
自分はなにか説明しなくてはならないのだろうか。エマニュエルはそう思った。
実際のところ、自分の方が聞きたいくらいだが、先刻の周りの反応から、相手を混乱させるだけらしいことが分かっている。
ともすれば、エマニュエルとしてはジェレスマイアが質問してくるのを待つしかない。
しかし、ジェレスマイアから差し出されたのは質問ではなく、一枚の紙だった。
「……?」
読め、とでもいう風にジェレスマイアに差し出された紙を、エマニュエルが受け取る。
幾つかに折り畳まれたそれを開くと、見覚えのある字が眼に飛び込んできた。『ジェレスマイアさんへ――』と始まる、自分の文字だ。
「これは……っ」
「説明してもらおうか」
「ち、違うんです! 最初は違うことを書こうとしたら、手が勝手に……そうしたらお婆さんが急に来て、だから急いで」
急いで捲し立ててみるが、要を得ない。
だいたい、ジェレスマイアの名前を書いてしまったこと自体、エマニュエルにも驚きだったのだ。
「──もう少し分かるようには」
ジェレスマイアはまだ同じ表情のまま、そう言った。
こんな場面を知っている。悪いことをしてしまった後、父に問い質されるときだ。
逃げても無駄なのだ。彼らは自分より一枚も二枚も上手で、隠しごとは自分の首を絞めるだけだと、すでに学習している。
エマニュエルは少しの間、ジェレスマイアをじっと見て──素直に白状した。
「お父さんとお母さんに、もう一回手紙を書こうと思ったんです。そうしたらいつの間にか、ジェレスマイアさんの名前を書いていて……そんな時、急に魔法使いみたいなお婆さんがこの部屋に現れたんです。彼女は自分は預言者だって名乗って、秘密を教えてあげるって言うから、付いて行ったのに――」
ジェレスマイアもまた、ほとんど表情を変えず、エマニュエルを見つめたまま小さくうなずいた。
「──確か、宮廷と庭園を抜けて、お婆さんと一緒に秘密の部屋へ入りました。そこから急に何も覚えてなくて……気が付いたら、ここで目が覚めたんです。朝になったら預言の秘密が分かるよって、お婆さんは言ったのに。見えるんだって言ってました」
ここまでさらりと吐くとは思っていなかったのか、ジェレスマイアは少し腑の抜けた風に、眉を上げた。
「暴力は振るわれなかったのだな」
「えっと、はい。多分……」
「気分は」
「平気です。どちらかといえば、よく眠ったあとみたいな感じで──」
ジェレスマイアの靴音が、ギシリと部屋に響く。
怒られるのだろうか──ジェレスマイアが一歩近づいてきたとき、エマニュエルはそう恐れて、背筋をピンと張った。
そのままジェレスマイアの手が伸びてきたときに至っては、それこそ暴力の危機がある気がして、エマニュエルは覚悟できゅっと瞳を閉じた。
そして心の奥で、あの老婆を少し恨んだ。
朝だ。朝になったというのに、秘密が分かるどころか、自分はジェレスマイアに怒られるだけではないか……と。
しかし──
(え…………)
急に鼻腔を突いた香りは、すでに知っているものだった。
汗と、芳香と。
そして与えられたのは、覚悟していた痛みや怒声ではなく、柔らかい温もりと、そして力強い抱擁だった。
突然、ジェレスマイアの腕がエマニュエルを包み込む。
片方の腕はエマニュエルの腰から肩にかけて、もう片方の腕はエマニュエルの頭部をすっぽりと包んでいる。
エマニュエルが驚きに身じろごうとすると、ジェレスマイアの腕は逆に力が入った。
(どう、して……)
さらにぎゅっと、彼の胸の奥に押し込められるように抱えられて、動きも、そして思考さえも遮られる。
でも、こんなに力強いのに、痛くはない。
これも知っている。そう、父が、自分や母にする抱擁に少し似ている──
(秘密を──)
しばらく、そのままで。
(秘密が分かるって、見られるって──)
そう、あの老婆は言った筈だ。
しかし彼女は姿を消し、自分はただジェレスマイアの腕の中にいる。
エマニュエルはジェレスマイアの腕の中で、静かに瞳を閉じた。ここは。これは。なぜだろう……心地良い。
『私が教える必要はない。見られる、のさ。明日の朝にはね』
──預言の秘密、もしくはその片鱗。
しかしこの朝、エマニュエルが見たものといえば、そのジェレスマイアの腕の中に限られていた。
朝日が完全に昇りきり、昼と呼ばれる時刻になるまで、ジェレスマイアはエマニュエルを抱く腕を解かなかったからだ。