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Paradise FOUND  作者: 泉野ジュール
Chapter 2: Secret of Paradise - 楽園のひみつ
10/50

Secret of Paradise - 5

 こんな形の戸惑いは──

 こんな速さの鼓動は──

 エマニュエルが初めて感じるものだった。

 ついて来い、とあっさり短く言ったジェレスマイアに従い、エマニュエルは早足に部屋から出る。


 廊下に一歩出ると、警備の騎士らしき者が敬礼しながらジェレスマイアに声を掛ける。


「ジェレスマイア様、今夜はどちらに」

「ローレルまでだ。遠出をするつもりはない、警備隊長とマスキールに伝えておけ」

 ジェレスマイアが答えるのを、エマニュエルは一歩下がった位置で聞いていた。


 騎士は神妙な顔で頷くと一礼して、その場を離れる。

 エマニュエルから見えるのは、ジェレスマイアの背中だけだ……が、それだけでも緊張が伝わる。


 こうして誰かと会話している時のジェレスマイアは、常にどこか威圧的だ。

 声を荒げているわけでも、横暴な態度を取っているわけでもない。しかし、ジェレスマイアの声が響くといつも、どうにもかしづかずにはいられなくなる様な、不思議な緊張感がその場にピンと張る。

 それはもちろん、エマニュエルに対しても同じだ。


「あの、マスキールさんも来るんですか」

 おずおずと聞いたエマニュエルに、ジェレスマイアは背中越しの一瞥を寄こした。


「来て欲しいのか」

「え、いえ、ただ、どうなのかなって……」

「生憎、奴はまだ仕事を終えていない。ローレルは城下だ、わざわざ供を連れる必要もない」

「!」


(じゃ、じゃあ、やっぱり二人きりなの?)


 隠せない緊張を抱いたまま、エマニュエルはこくこくと頷いた。

 供を連れる必要がないが、念の為に剣を持つ──はっきり言葉にして聞く勇気は無いが、予想するには、ジェレスマイアは二人きりで出掛けるつもりでいるらしい。


 何なのだろう、この、今にも心臓が口から飛び出してしまいそうな胸の高鳴りは……。

 なぜか頬が火照る理由は……。


「行くぞ」

「え、あ、は、はい……っ」


──疑問に答えが見付からないまま、エマニュエルはそう、足早に進むジェレスマイアに付いて行った。





 もしかしたら、本当に二人きりなのかもしれない……と、予想はしていた。

 それはそれで有難かったのだ。エマニュエルは、自然の中で自分を開放できる時間が欲しかっただけ、で。

(で、でも……こんなの、いくらなんでも……っ)


 エマニュエルの頭は、くらくらとのぼせていた。

 熱いお湯を浴びた時のようだと、そんなことを考えるのが精一杯でもあった。



 ──王の間の回廊を早足に抜け、二人は外に出た。

 ジェレスマイアが用意していたのは、たった一頭の馬だった。

 黒毛の上等な馬──正に王の為に生まれてきたといっていいような、美しく、力強い黒馬だ。エマニュエルは一瞬その馬の立ち姿に見惚れた。

 傍にはその馬の飼育係らしい、素朴な服を来た男が立っていて、ジェレスマイアに綱を引き渡す。


 エマニュエルは確かに馬に乗れる──しかし、こんな上等な馬は、乗るどころか目にするのも初めてだ。


 しかし何故、一頭だけなのだろう? エマニュエルは瞬いた。

 どう見てもジェレスマイアの馬だ。自分の為とは思えない。まさかジェレスマイアはこの馬に乗り、エマニュエルは歩け──いや、走れ、という意味なのだろうか?


(でも綺麗……)

 しかしその凛々しく若々しい馬の姿に、エマニュエルは恍惚に似た表情を見せた。


 まさか乗らせて貰えるはずがない。

 そう考えていたから、エマニュエルはつい前へ進んで、馬の背にそっと手を触れてしまった。


「危ねえですぜ、姫さま。こいつは気が荒い」

 飼育係の男が声を落として言った。ジェレスマイアは、馬上に据えられた鞍に、確認するように手を掛けているところだ。


「大丈夫……この子は、なにが欲しいのかちゃんと自分で分かってるだけです」

 エマニュエルはそう言って毛に手を滑らせた。馬は首を伸ばす。

「綺麗な子。名前は、あるんですか?」


 ──エマニュエルは、飼育係の男にそれを聞いたつもりだった。

 麻作りらしい仕事着に身を包んだ男は、しかし、答えていいものかとジェレスマイアに視線を泳がせる。

ジェレスマイアは手を止め、エマニュエルを見た。


「……ルーファス。乗る者を選ぶ。お前も、一度は乗ったがな」

「……え……」


 エマニュエルは、つい、馬を撫でていた手を止めた。

 一度は乗った、そう言われて思いつく機会はたった一つ。ジェレスマイアがエマニュエルを攫った、あの夜だけだ。

 ──確かに、黒馬だったような記憶はある。目の前のこの美しい馬が、それだったと……?


 撫でる手を止めたエマニュエルに、『ルーファス』は突然ヒンッと高い声を上げて、不満げに首を振った。

「あ……ごめんね」

 と言ってまた撫でつけ始めると、満足したように鼻を鳴らす。


「確かに、なにが欲しいのかは分かっている様だな」

 ジェレスマイアが低い声でささやくと、ルーファスはその声の主へ顔を向けた。その時、わずかに、本当に僅かにではあるが、ルーファスと見つめ合うジェレスマイアの口元に笑みが浮かんだ。


「……?」

 一人と一頭に挟まれて、エマニュエルはわずかに首を傾げた。

 しかし、戸惑っているられたのも一瞬だ。ジェレスマイアは外套を整え翻したかと思うと、流れるような速さと、滑り込むような無駄のない動きで、ルーファスの背に乗った。

(わ……っ)

 と、無条件で見惚れてしまうような優雅な動きだ。


「警備から聞いているだろう。ローレルまでだ。二、三刻もすれば帰る──お前は先に休んでいて構わぬ」

「へい、陛下」

 飼育係の男が背を曲げてぎこちない敬礼をした。


 エマニュエルはどうしていいか分からず、慌ててきた。やはりもう一頭馬を出してくれる気配はない。


 どうしろと言うのだろう? 確かに、エマニュエルは自然に慣れているし、長い距離を歩くのも酷ではない。しかしこのルーファスに歩を合わせるのは、流石に無理だ──この若く機敏な駿馬は、たとえ走らずとも、女子供の足よりずっと早いはず。


「なにを呆けている」

 しかし、ジェレスマイアの声が頭上から聞こえて、エマニュエルは顔を上げた。

 その時やっと、ジェレスマイアの手が馬上から差し出されていることに、エマニュエルは気が付いた。


「え……」


 ──その手を、取ることに。

 なぜ疑問を持たなかったのだろう……必要ならば、自分を殺すとまで言った男の、手を。


 エマニュエルは、黒いグローブを纏ったジェレスマイアの手を、触れた。

 本当に触れただけだったのだ。しかし、ジェレスマイアは途端に強くそれを握ると、エマニュエルを身体ごと引き上げる。


 ふわりと身体が舞ったのは一瞬で、気が付くと、腰をジェレスマイアの腕に支えられルーファスに横乗りする格好になっていた。

 急に、ツンと慣れない香りがエマニュエルの鼻をつく。

 それがジェレスマイアのものだと分かったのは、正に、彼の顔が自分のそれと数寸しか違わないところにあるのを見て、だ。


 あ、と声を出す間もないまま、ジェレスマイアはエマニュエルの身体越しにルーファスの手綱を引いた。

 黒馬は勇まし気に首をツイ、と上げると、走り始める。


 森へ。夜の森へ──



 なにか話すべきだったのかもしれない。少なくとも、聞きたい事は色々とあったのだ。

 しかし結局なにも言えないまま、エマニュエルは馬に揺られ続けていた。いや、正確には、馬とジェレスマイアに揺られ続け──だろうか。

 エマニュエルは、両の手で綱を操るジェレスマイアの腕の間に、挟まれるような格好で乗馬していた。


 きちんとまたいで乗っているジェレスマイアとは別に、エマニュエルはただ横乗りしている形だ。

 それは、ジェレスマイアの腕に支えていて貰わなければ、今すぐにでも落馬してしまうことを意味している。

 胸が高鳴った。それは緊張のせいだ──しかし、何に対して緊張しているのか。

 それがはっきりしなくて、エマニュエルは速まる鼓動を持て余していた。


 ──背に当たる、力強い腕。

 押し潰されそうなほど近くにある、厚い胸板。そこからわずかに香る男性の匂い。

 そんな肉感的な感触に、エマニュエルはクラクラとのぼせる。途中、意識しないようにと自分に言い聞かせてみても無理だった。あまりに実際の距離が近すぎて、追い払いきれないのだ。


 一瞬、一刻と、鼓動は高まり、戸惑いは深くなる。


 最初は走っていたルーファスも、森を前にすると速度を下げた。

 そして今、二人と一頭は完全に森の中に入ったようだ。木々の間をくぐるように、ルーファスはゆっくり歩を進めている。

 蹄の音がやけに響く──そこは確かに、自然の中だった。


 森というよりは、林と呼ぶべきだろうか。土地は比較的平坦で、上に登ってはいるのだろうが、傾斜は緩やかだ。

 ホーホー、クツクツ、ピーピー、というような、様々な生き物の声が木々のざわめきと供に頭上を流れる。


 城の、広大な裏庭といっていいかもしれない。

 ルーファスの足が優れていたことを考えても、かなりの短時間でここまで辿り着いた。もはやこんな所にこんな場所があるとは、エマニュエルも考えていなかったことだ。


 しばらくすると、ジェレスマイアが綱を引いた。ルーファスは当然のようにピタリと止まる。


「ここでいいだろう。昼ほどの美しさはないが、な」

「え……」


 ジェレスマイアが言葉を発したのは、城を出てからこれが最初だった。

 エマニュエルは首を伸ばして辺りを見回そうとしたが、ジェレスマイアの身体がそれを遮っていて、四方は見えない。見えるのはごく一部、前だけだ。


「草……原? ここだけ……?」


 月明かりに照らされて、エマニュエルの目前に現れたのは、低い草と野生の小さな花だけに覆われた幻想的な場所だった。

 背の高い木々が続いた林の中に、そこだけがさっぱりと切り取られたように、ひらかれている。


 くるぶし程度の高さの草が続くだけ。

 広大といえる程の広さはない──目を凝らせば先に、また林が始まっているのが見える。

 しかし本当にここだけが、円形に隔離されたように、柔らかく緑に開けていた。


 ジェレスマイアはルーファスの手綱を下ろすと、乗り込んだときと同じ様に、サッと流れるような動きで馬から下りた。

 外套の背がマントのように舞い、微かな風を起こす。

 自然の風とは違う、もっと現実的な、匂いを感じるような空気の動き。


 そうしたかと思うと、地に着いたジェレスマイアはまた、エマニュエルに手を差し伸べる。


 エマニュエルはまた、気が付くとその手を取っていた。

 ぎゅっと手を握られると、グローブの、黒い皮の質感の奥に、ジェレスマイアを感じた。


 ピクッと、身体の芯が硬くなる。

 ──手を握ったのと逆の方の腕が、エマニュエルの腰に触れて。まるで身体が急に軽くなったように、ふわりと持ち上げられると、足を地面に下ろされていた。


(こ、この人……っ)


 王だ、王様だと思っていたから、こんな力強さは想像していなかった。

 おまけにいつも上質の衣服に隠されて見えなかった、太い腕、肉感のある胸──

 到底、優雅にかしずかれ暮らしていただけの者の力とは思えない。そんな強さがあった。


 馬に揺られ続けた後、急に大地に足をつけたせいか、エマニュエルの身体が軽く傾きかけた。

 それも、ジェレスマイアは難なく受け止める。

 肩を掴まれ視線を上げたエマニュエルと、ジェレスマイアの目が合う。するとジェレスマイアは、それから逃れるようにサッと視線を外した。


「──好きなだけ楽にしていればいい。邪魔する者はいない」


 そう言って、ジェレスマイアはエマニュエルを残し、ルーファスの方へ進んだ。

 エマニュエルが振り返ると、ジェレスマイアはルーファスの頭を撫でていた。エマニュエルには背を向ける形で。


「私が、逃げるとは……思わないんですか?」

 エマニュエルが小さな声で聞いても、ジェレスマイアは振り向かなかった。ただ、低い声で答える。


「逃げた所でどうなる。お前がルーファスの足に敵うことはない。しかも、これはこの森で育っている。土地勘のないよそ者を捕らえるなど、事もない」

「…………あ」


 そうだった……と、エマニュエルは急に納得と脱力を感じた。


 エマニュエルは自分に向けられたジェレスマイアの背を、そのまま少しの間、見つめた。

 黒い髪。高貴さを感じる立ち姿。

 しかしそれは『人』だった。ただの、一人の、人間。

 彼が王であり、どんな預言を持って生まれ、なにを背負っているのかという事実は、この時遠く感じた。


 それがなぜか、ひどく切なくも感じる。エマニュエルは地面に視線を落とした。


(あ……)


 草が足元に生えている。それは低いが、王宮にある芝生のように整備されてはおらず、思い思いに伸びている。そのせいで、高さはまばらだ。

 その間をくぐるように、白や黄色の小さな野花が、可愛らしく顔を覗かせる。


 王宮に咲く優雅なバラではない。


 一つひとつは小さく、少し不恰好だ。

 しかしエマニュエルが視線を、足元から先へと走らせると、長く、大きくそれが広がっていく。

 その風景は美しかった。そして、力強い。

 小さな草や花が、何千何万と集まり、目の前の景色を展開していく様。


 ──どうしてここを選んでくれたんだろう。


 エマニュエルはそう思いながらも、ゆっくりと、まるで何かに導かれているように、歩き始めた。

 足から伝わる土の実感が心地よい。所々凹凸があって、それも明らかに、整えられた王宮の庭とは違うものだ。


 どうして私をここに連れて来たの……。


 それが、気持ちよくて。

 数歩進んだところで、エマニュエルは少しずつ歩を早めた。

 一度堰せきを切ってしまうと、開放されるのはとても早い──エマニュエルは走り出して、森に囲まれた草原の、ちょうど中央辺りに辿り着いた。


 そこで足を止める。そして、夜空を見上げる。


 星だ。

 満点の星。

 金と銀に輝く、大空の祭り──


 ジェレスマイアに攫われた、あの夜と同じ星空──


「どうして……」


 あれから、なにが変わったのだろう。あの頃、自分はなにも知らなかった。

 自分の運命、この国の命運、ジェレスマイアの存在さえも。ただ父と母が傍にいて、彼らと自然の間で、幸せで無知な毎日を享受していただけだ。


「どうすれば、いいの……?」


 こうして声に出して空に問いかけると、時々答えが見付かる。だから夜の空が好きだった。

 もちろん、そう思っていた頃エマニュエルが投げかける問いなど、今のそれと比べれば、余りにもちっぽけな物ばかりだったけれど……。


 今も、夜空はなにも変わらない。

 この地上のエマニュエルを、まるで慈しむように、まばゆい光で照らす。

 柔らかく、それでいて繊細な、悠久の月の恵み。


 エマニュエルはそのままそこに膝を折って夜の草原に座り込んだ。

 しばらく夜空を見上げたままでいた──しかし、答えは見付かるどころか、ただ、疑問と不安が波のように寄せて、胸に圧しかかるだけ。


 エマニュエルの青の瞳から、すうっと涙が流れた。


(恋がしたかった)

 ──エマニュエルは思った。


(お父さんとお母さんみたいな……それが夢だったの)


 もし自分の命が、この国の多くの者の命を救うというのなら──

 悲しいけれど、辛いけれど、それをどこかで受け入れなくてはならないのだ。そういう意味での生への執着は、自然の中で育ちその厳しさを知っているエマニュエルには、余りなかった。


(でもその前に……一度でいいから)


 そのまま、膝を折り夜空を見上げ続けていた。涙は、少しずつ弱くはなっていくものの、止まらない。


 そして、ぐすっと鼻をすすり、小さく咳をして、エマニュエルがふと後ろを向いた時──すぐ後ろに、黒い長革靴が視線に入った。

 見上げる。と、ジェレスマイアがその灰色の瞳で、自分を見下ろしていた。


 夜風が吹き抜ける。


 月明かりが二人を照らしていた。

 ──そうだ、夜空は答えをくれる。月明かりと、森のせせらぎに乗せて。



(恋を、してみたかったの)

 父と母のように。


 愛し合い、寄り添って時を共有する。胸をときめかせ、頬を喜びで染めて。

 その人のことを考えるだけで、幸せで、それでいて切なくなる……そんな。


 そんな誰かに、出逢ってみたかったの──

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