Secret of Paradise - 5
こんな形の戸惑いは──
こんな速さの鼓動は──
エマニュエルが初めて感じるものだった。
ついて来い、とあっさり短く言ったジェレスマイアに従い、エマニュエルは早足に部屋から出る。
廊下に一歩出ると、警備の騎士らしき者が敬礼しながらジェレスマイアに声を掛ける。
「ジェレスマイア様、今夜はどちらに」
「ローレルまでだ。遠出をするつもりはない、警備隊長とマスキールに伝えておけ」
ジェレスマイアが答えるのを、エマニュエルは一歩下がった位置で聞いていた。
騎士は神妙な顔で頷くと一礼して、その場を離れる。
エマニュエルから見えるのは、ジェレスマイアの背中だけだ……が、それだけでも緊張が伝わる。
こうして誰かと会話している時のジェレスマイアは、常にどこか威圧的だ。
声を荒げているわけでも、横暴な態度を取っているわけでもない。しかし、ジェレスマイアの声が響くといつも、どうにもかしづかずにはいられなくなる様な、不思議な緊張感がその場にピンと張る。
それはもちろん、エマニュエルに対しても同じだ。
「あの、マスキールさんも来るんですか」
おずおずと聞いたエマニュエルに、ジェレスマイアは背中越しの一瞥を寄こした。
「来て欲しいのか」
「え、いえ、ただ、どうなのかなって……」
「生憎、奴はまだ仕事を終えていない。ローレルは城下だ、わざわざ供を連れる必要もない」
「!」
(じゃ、じゃあ、やっぱり二人きりなの?)
隠せない緊張を抱いたまま、エマニュエルはこくこくと頷いた。
供を連れる必要がないが、念の為に剣を持つ──はっきり言葉にして聞く勇気は無いが、予想するには、ジェレスマイアは二人きりで出掛けるつもりでいるらしい。
何なのだろう、この、今にも心臓が口から飛び出してしまいそうな胸の高鳴りは……。
なぜか頬が火照る理由は……。
「行くぞ」
「え、あ、は、はい……っ」
──疑問に答えが見付からないまま、エマニュエルはそう、足早に進むジェレスマイアに付いて行った。
*
もしかしたら、本当に二人きりなのかもしれない……と、予想はしていた。
それはそれで有難かったのだ。エマニュエルは、自然の中で自分を開放できる時間が欲しかっただけ、で。
(で、でも……こんなの、いくらなんでも……っ)
エマニュエルの頭は、くらくらとのぼせていた。
熱いお湯を浴びた時のようだと、そんなことを考えるのが精一杯でもあった。
──王の間の回廊を早足に抜け、二人は外に出た。
ジェレスマイアが用意していたのは、たった一頭の馬だった。
黒毛の上等な馬──正に王の為に生まれてきたといっていいような、美しく、力強い黒馬だ。エマニュエルは一瞬その馬の立ち姿に見惚れた。
傍にはその馬の飼育係らしい、素朴な服を来た男が立っていて、ジェレスマイアに綱を引き渡す。
エマニュエルは確かに馬に乗れる──しかし、こんな上等な馬は、乗るどころか目にするのも初めてだ。
しかし何故、一頭だけなのだろう? エマニュエルは瞬いた。
どう見てもジェレスマイアの馬だ。自分の為とは思えない。まさかジェレスマイアはこの馬に乗り、エマニュエルは歩け──いや、走れ、という意味なのだろうか?
(でも綺麗……)
しかしその凛々しく若々しい馬の姿に、エマニュエルは恍惚に似た表情を見せた。
まさか乗らせて貰えるはずがない。
そう考えていたから、エマニュエルはつい前へ進んで、馬の背にそっと手を触れてしまった。
「危ねえですぜ、姫さま。こいつは気が荒い」
飼育係の男が声を落として言った。ジェレスマイアは、馬上に据えられた鞍に、確認するように手を掛けているところだ。
「大丈夫……この子は、なにが欲しいのかちゃんと自分で分かってるだけです」
エマニュエルはそう言って毛に手を滑らせた。馬は首を伸ばす。
「綺麗な子。名前は、あるんですか?」
──エマニュエルは、飼育係の男にそれを聞いたつもりだった。
麻作りらしい仕事着に身を包んだ男は、しかし、答えていいものかとジェレスマイアに視線を泳がせる。
ジェレスマイアは手を止め、エマニュエルを見た。
「……ルーファス。乗る者を選ぶ。お前も、一度は乗ったがな」
「……え……」
エマニュエルは、つい、馬を撫でていた手を止めた。
一度は乗った、そう言われて思いつく機会はたった一つ。ジェレスマイアがエマニュエルを攫った、あの夜だけだ。
──確かに、黒馬だったような記憶はある。目の前のこの美しい馬が、それだったと……?
撫でる手を止めたエマニュエルに、『ルーファス』は突然ヒンッと高い声を上げて、不満げに首を振った。
「あ……ごめんね」
と言ってまた撫でつけ始めると、満足したように鼻を鳴らす。
「確かに、なにが欲しいのかは分かっている様だな」
ジェレスマイアが低い声でささやくと、ルーファスはその声の主へ顔を向けた。その時、僅かに、本当に僅かにではあるが、ルーファスと見つめ合うジェレスマイアの口元に笑みが浮かんだ。
「……?」
一人と一頭に挟まれて、エマニュエルはわずかに首を傾げた。
しかし、戸惑っているられたのも一瞬だ。ジェレスマイアは外套を整え翻したかと思うと、流れるような速さと、滑り込むような無駄のない動きで、ルーファスの背に乗った。
(わ……っ)
と、無条件で見惚れてしまうような優雅な動きだ。
「警備から聞いているだろう。ローレルまでだ。二、三刻もすれば帰る──お前は先に休んでいて構わぬ」
「へい、陛下」
飼育係の男が背を曲げてぎこちない敬礼をした。
エマニュエルはどうしていいか分からず、慌ててきた。やはりもう一頭馬を出してくれる気配はない。
どうしろと言うのだろう? 確かに、エマニュエルは自然に慣れているし、長い距離を歩くのも酷ではない。しかしこのルーファスに歩を合わせるのは、流石に無理だ──この若く機敏な駿馬は、たとえ走らずとも、女子供の足よりずっと早いはず。
「なにを呆けている」
しかし、ジェレスマイアの声が頭上から聞こえて、エマニュエルは顔を上げた。
その時やっと、ジェレスマイアの手が馬上から差し出されていることに、エマニュエルは気が付いた。
「え……」
──その手を、取ることに。
なぜ疑問を持たなかったのだろう……必要ならば、自分を殺すとまで言った男の、手を。
エマニュエルは、黒いグローブを纏ったジェレスマイアの手を、触れた。
本当に触れただけだったのだ。しかし、ジェレスマイアは途端に強くそれを握ると、エマニュエルを身体ごと引き上げる。
ふわりと身体が舞ったのは一瞬で、気が付くと、腰をジェレスマイアの腕に支えられルーファスに横乗りする格好になっていた。
急に、ツンと慣れない香りがエマニュエルの鼻をつく。
それがジェレスマイアのものだと分かったのは、正に、彼の顔が自分のそれと数寸しか違わないところにあるのを見て、だ。
あ、と声を出す間もないまま、ジェレスマイアはエマニュエルの身体越しにルーファスの手綱を引いた。
黒馬は勇まし気に首をツイ、と上げると、走り始める。
森へ。夜の森へ──
なにか話すべきだったのかもしれない。少なくとも、聞きたい事は色々とあったのだ。
しかし結局なにも言えないまま、エマニュエルは馬に揺られ続けていた。いや、正確には、馬とジェレスマイアに揺られ続け──だろうか。
エマニュエルは、両の手で綱を操るジェレスマイアの腕の間に、挟まれるような格好で乗馬していた。
きちんと跨いで乗っているジェレスマイアとは別に、エマニュエルはただ横乗りしている形だ。
それは、ジェレスマイアの腕に支えていて貰わなければ、今すぐにでも落馬してしまうことを意味している。
胸が高鳴った。それは緊張のせいだ──しかし、何に対して緊張しているのか。
それがはっきりしなくて、エマニュエルは速まる鼓動を持て余していた。
──背に当たる、力強い腕。
押し潰されそうなほど近くにある、厚い胸板。そこからわずかに香る男性の匂い。
そんな肉感的な感触に、エマニュエルはクラクラとのぼせる。途中、意識しないようにと自分に言い聞かせてみても無理だった。あまりに実際の距離が近すぎて、追い払いきれないのだ。
一瞬、一刻と、鼓動は高まり、戸惑いは深くなる。
最初は走っていたルーファスも、森を前にすると速度を下げた。
そして今、二人と一頭は完全に森の中に入ったようだ。木々の間をくぐるように、ルーファスはゆっくり歩を進めている。
蹄の音がやけに響く──そこは確かに、自然の中だった。
森というよりは、林と呼ぶべきだろうか。土地は比較的平坦で、上に登ってはいるのだろうが、傾斜は緩やかだ。
ホーホー、クツクツ、ピーピー、というような、様々な生き物の声が木々のざわめきと供に頭上を流れる。
城の、広大な裏庭といっていいかもしれない。
ルーファスの足が優れていたことを考えても、かなりの短時間でここまで辿り着いた。もはやこんな所にこんな場所があるとは、エマニュエルも考えていなかったことだ。
しばらくすると、ジェレスマイアが綱を引いた。ルーファスは当然のようにピタリと止まる。
「ここでいいだろう。昼ほどの美しさはないが、な」
「え……」
ジェレスマイアが言葉を発したのは、城を出てからこれが最初だった。
エマニュエルは首を伸ばして辺りを見回そうとしたが、ジェレスマイアの身体がそれを遮っていて、四方は見えない。見えるのはごく一部、前だけだ。
「草……原? ここだけ……?」
月明かりに照らされて、エマニュエルの目前に現れたのは、低い草と野生の小さな花だけに覆われた幻想的な場所だった。
背の高い木々が続いた林の中に、そこだけがさっぱりと切り取られたように、ひらかれている。
くるぶし程度の高さの草が続くだけ。
広大といえる程の広さはない──目を凝らせば先に、また林が始まっているのが見える。
しかし本当にここだけが、円形に隔離されたように、柔らかく緑に開けていた。
ジェレスマイアはルーファスの手綱を下ろすと、乗り込んだときと同じ様に、サッと流れるような動きで馬から下りた。
外套の背がマントのように舞い、微かな風を起こす。
自然の風とは違う、もっと現実的な、匂いを感じるような空気の動き。
そうしたかと思うと、地に着いたジェレスマイアはまた、エマニュエルに手を差し伸べる。
エマニュエルはまた、気が付くとその手を取っていた。
ぎゅっと手を握られると、グローブの、黒い皮の質感の奥に、ジェレスマイアを感じた。
ピクッと、身体の芯が硬くなる。
──手を握ったのと逆の方の腕が、エマニュエルの腰に触れて。まるで身体が急に軽くなったように、ふわりと持ち上げられると、足を地面に下ろされていた。
(こ、この人……っ)
王だ、王様だと思っていたから、こんな力強さは想像していなかった。
おまけにいつも上質の衣服に隠されて見えなかった、太い腕、肉感のある胸──
到底、優雅にかしずかれ暮らしていただけの者の力とは思えない。そんな強さがあった。
馬に揺られ続けた後、急に大地に足をつけたせいか、エマニュエルの身体が軽く傾きかけた。
それも、ジェレスマイアは難なく受け止める。
肩を掴まれ視線を上げたエマニュエルと、ジェレスマイアの目が合う。するとジェレスマイアは、それから逃れるようにサッと視線を外した。
「──好きなだけ楽にしていればいい。邪魔する者はいない」
そう言って、ジェレスマイアはエマニュエルを残し、ルーファスの方へ進んだ。
エマニュエルが振り返ると、ジェレスマイアはルーファスの頭を撫でていた。エマニュエルには背を向ける形で。
「私が、逃げるとは……思わないんですか?」
エマニュエルが小さな声で聞いても、ジェレスマイアは振り向かなかった。ただ、低い声で答える。
「逃げた所でどうなる。お前がルーファスの足に敵うことはない。しかも、これはこの森で育っている。土地勘のないよそ者を捕らえるなど、事もない」
「…………あ」
そうだった……と、エマニュエルは急に納得と脱力を感じた。
エマニュエルは自分に向けられたジェレスマイアの背を、そのまま少しの間、見つめた。
黒い髪。高貴さを感じる立ち姿。
しかしそれは『人』だった。ただの、一人の、人間。
彼が王であり、どんな預言を持って生まれ、なにを背負っているのかという事実は、この時遠く感じた。
それがなぜか、ひどく切なくも感じる。エマニュエルは地面に視線を落とした。
(あ……)
草が足元に生えている。それは低いが、王宮にある芝生のように整備されてはおらず、思い思いに伸びている。そのせいで、高さはまばらだ。
その間をくぐるように、白や黄色の小さな野花が、可愛らしく顔を覗かせる。
王宮に咲く優雅なバラではない。
一つひとつは小さく、少し不恰好だ。
しかしエマニュエルが視線を、足元から先へと走らせると、長く、大きくそれが広がっていく。
その風景は美しかった。そして、力強い。
小さな草や花が、何千何万と集まり、目の前の景色を展開していく様。
──どうしてここを選んでくれたんだろう。
エマニュエルはそう思いながらも、ゆっくりと、まるで何かに導かれているように、歩き始めた。
足から伝わる土の実感が心地よい。所々凹凸があって、それも明らかに、整えられた王宮の庭とは違うものだ。
どうして私をここに連れて来たの……。
それが、気持ちよくて。
数歩進んだところで、エマニュエルは少しずつ歩を早めた。
一度堰を切ってしまうと、開放されるのはとても早い──エマニュエルは走り出して、森に囲まれた草原の、ちょうど中央辺りに辿り着いた。
そこで足を止める。そして、夜空を見上げる。
星だ。
満点の星。
金と銀に輝く、大空の祭り──
ジェレスマイアに攫われた、あの夜と同じ星空──
「どうして……」
あれから、なにが変わったのだろう。あの頃、自分はなにも知らなかった。
自分の運命、この国の命運、ジェレスマイアの存在さえも。ただ父と母が傍にいて、彼らと自然の間で、幸せで無知な毎日を享受していただけだ。
「どうすれば、いいの……?」
こうして声に出して空に問いかけると、時々答えが見付かる。だから夜の空が好きだった。
もちろん、そう思っていた頃エマニュエルが投げかける問いなど、今のそれと比べれば、余りにもちっぽけな物ばかりだったけれど……。
今も、夜空はなにも変わらない。
この地上のエマニュエルを、まるで慈しむように、まばゆい光で照らす。
柔らかく、それでいて繊細な、悠久の月の恵み。
エマニュエルはそのままそこに膝を折って夜の草原に座り込んだ。
しばらく夜空を見上げたままでいた──しかし、答えは見付かるどころか、ただ、疑問と不安が波のように寄せて、胸に圧しかかるだけ。
エマニュエルの青の瞳から、すうっと涙が流れた。
(恋がしたかった)
──エマニュエルは思った。
(お父さんとお母さんみたいな……それが夢だったの)
もし自分の命が、この国の多くの者の命を救うというのなら──
悲しいけれど、辛いけれど、それをどこかで受け入れなくてはならないのだ。そういう意味での生への執着は、自然の中で育ちその厳しさを知っているエマニュエルには、余りなかった。
(でもその前に……一度でいいから)
そのまま、膝を折り夜空を見上げ続けていた。涙は、少しずつ弱くはなっていくものの、止まらない。
そして、ぐすっと鼻をすすり、小さく咳をして、エマニュエルがふと後ろを向いた時──すぐ後ろに、黒い長革靴が視線に入った。
見上げる。と、ジェレスマイアがその灰色の瞳で、自分を見下ろしていた。
夜風が吹き抜ける。
月明かりが二人を照らしていた。
──そうだ、夜空は答えをくれる。月明かりと、森のせせらぎに乗せて。
(恋を、してみたかったの)
父と母のように。
愛し合い、寄り添って時を共有する。胸をときめかせ、頬を喜びで染めて。
その人のことを考えるだけで、幸せで、それでいて切なくなる……そんな。
そんな誰かに、出逢ってみたかったの──