Interview with 雄略天皇
〇 応神天皇と朝鮮半島情勢
四世紀前半に高句麗が朝鮮半島を南下して楽浪郡・帯方郡を滅ぼしました。
高句麗の脅威に対抗するべく、朝鮮半島南部の小国が合一して百済と新羅が建国されます。
その頃に大王となった応神天皇は朝鮮半島に出兵して、伽耶諸国を制圧して任那日本府を設置します。
□ 313年 高句麗が楽浪郡・帯方郡を滅ぼす。
□ 四世紀前半 百済と新羅が建国される。
□ 360年頃 応神天皇が即位する。
□ 364年 倭国が新羅に攻め込む。
□ 372年 百済が倭国に七支刀を献上した。
□ 391年 倭国が海を渡り百済と新羅を臣民とする。
――本日のゲストは第二十一代天皇の雄略天皇となります。四世紀・五世紀のヤマト政権についてが主な議題となります。
雄略天皇(以下雄略)「うっす」
――ヤマト政権が朝鮮半島に進出するのは四世紀後半からとかんがえられてます。おそらくは応神天皇の時代ですね。朝鮮半島南端の伽耶地方を制圧して任那として支配していました。
雄略「この頃には半島南端に倭人が多く住んでいたから実質的に直轄地みたいなもんだったらしい。だから百済や新羅へ簡単に攻め込むことが出来てた」
――好太王碑によれば391年に「倭国が海を渡り百済と新羅を臣民とする」とあります。
雄略「391年に大規模な侵攻があったんじゃなく、その前に百済と新羅を支配下に置いてたんだろうな。この年に即位した高句麗の好太王が百済と新羅を制圧する為に倭国と戦争するわけだ」
――その戦が起きる前に応神天皇は崩御してしまいます。
〇 仁徳天皇の時代
応神天皇が崩御した後は仁徳天皇が即位しました。
仁徳天皇は即位すると民のことを考えて三年間の課税停止を宣言します。課税停止は延長されて六年にも及びました。
仁徳天皇は朝鮮にも出兵して高句麗の好太王と戦っています。
□ 400年 高句麗は倭国の侵攻を受けていた新羅を救援する。
□ 404年 高句麗は帯方郡で倭の攻撃を受けるが撃退する。
□ 421年 倭国王讃が宋に朝貢して「安東将軍倭国王」を授かる。
□ 427年 高句麗の長寿王が首都を平壌に移した。
――応神天皇が崩御してから仁徳天皇が即位するまで兄弟間の争いがありました。大山守皇子が反乱を起こしてます。大山守皇子は長男ですが、応神天皇は末弟の菟道稚郎子を可愛がっていて後継者に指名していました。それで応神天皇の崩御後に挙兵したのです。
雄略「この反乱を鎮めたのが大鷦鷯尊こと仁徳天皇だな」
――大山守皇子は討伐されましたが、菟道稚郎子は大鷦鷯尊が大王に相応しいと皇位を譲ろうとして、お互いの譲り合いで三年が経過しました。最終的に菟道稚郎子は自害して大鷦鷯尊が即位して仁徳天皇となります。
雄略「ヤマト政権は朝鮮半島にまで影響が及ぶほど巨大になった。一方で畿内の大豪族は大王に匹敵するほどの権力を有してやがる。つまりは次の大王を誰にするかで豪族間が揉めていたってたわけだ」
――兄弟の争いというより豪族の神輿になったというのがこの逸話になったんですね。
雄略「そうだな。実際、背後で豪族たちが操っていたんだろうな。まあ、政治の裏には常にいろんな思惑が絡むもんだ」
――仁徳天皇は税の免除など民に優しい政治を行ったとして有名です。計六年間の租税免除をして聖帝と呼ばれています。
雄略「俺からすれば朝鮮半島で高句麗と戦った天皇だけどな。退かぬ!媚びぬ 省みぬ!ってね」
――世界最大の墓とも言われる大仙古墳が仁徳天皇陵と考えられています。
雄略「聖帝十字陵………ではなく前方後円墳だな。歴史のロマンを感じるぜ」
――好太王碑によれば西暦400年に倭国が新羅を侵略したので、新羅から救援要請があり倭国を撃退したとあります。また、西暦404年には倭国が帯方郡まで攻めて来たので撃退したそうです。
雄略「高句麗に負けまくってるな。だが、この時代は朝鮮半島南部をしっかり抑えているので痛み分けってところかね」
――日本書紀では高句麗から朝貢の使者が来たと書いてます。
雄略「どちらの国も自分に都合良いように後世に残してやがる。まあ、外交の使者を朝貢の使者と言い換えるのは古代史あるあるだ」
――当時の中華についても整理しておきましょう。四世紀の中国大陸は分裂して戦乱の時代でした。五胡十六国時代ですね。それが五世紀になり北朝と南朝に統合されて南北朝時代になります。日本は南朝の宋に朝貢して冊封体制に入ってます。西暦421年に倭国王讃が宋から「安東将軍倭国王」の称号を貰い冊封されてます。この讃は仁徳天皇だとの説があります。
雄略「ああ、仁徳天皇のことだな。安東将軍は朝鮮半島での軍事的指揮権を保証するものだ。高句麗との戦に負けた仁徳天皇が宋の後ろ盾を得ようとしたと考えられるぜ」
――西暦427年には高句麗の長寿王が朝鮮半島南部に進出して首都を平壌に遷しました。百済・新羅に勝利して高句麗の最大版図を成してます。ヤマト軍も百済の救援に行ってますが敗北しています。
雄略「高句麗にやられてばかりだな」
――国内の方では両面宿儺を討伐してます。
雄略「その情報いるか?」
――即位87年で仁徳天皇崩御。日本書紀のこの辺りの年代は信用出来ません。在位年は三十五年前後と考えた方がいいでしょう。
〇 履中天皇と反正天皇
仁徳天皇が崩御した後はに中天皇が即位しました。
履中天皇は五年ほどで崩御したので、弟の反正天皇が即位します。
反正天皇も五年ほどで崩御したので、弟の允恭天皇が即位しました。
□ 430年頃 履中天皇が即位する。
□ 435年頃 反正天皇が即位する。
□ 438年 倭国王珍が宋に朝貢して「安東将軍倭国王」を授かる。
□ 440年頃 允恭天皇が即位する。
大王家・家系図
応神天皇 ─ 仁徳天皇 ┬ 履中天皇
│
├ 反正天皇 ┌ 安康天皇
│ │
└ 允恭天皇 ┴ 雄略天皇
――438年に倭国王珍が朝貢して冊封されてますが、珍は誰になるんでしょう?
雄略「珍は反正天皇だろうな」
――宋書によれば讃と珍は兄弟のようですが。
雄略「ヤマト側が『先帝(履中天皇)が崩御したので弟の反正天皇が即位して朝貢に来ました』と言ったのを、宋側が『先帝(讃)が崩御したので弟の珍が朝貢に来た』と勘違いでもしたんだろ」
――讃と珍が誰かについては諸説あります。ここではひとまず仁徳天皇と反正天皇としておきましょう。
雄略「宋に近づいたのは朝鮮半島での高句麗の存在感が増してきたからだ」
――履中天皇、反正天皇は在位年数を二人合わせて十年ほどです。その次の天皇は二人の弟の允恭天皇となります。
〇 允恭天皇
允恭天皇が即位しました。
允恭天皇は倭国王済に比定するとされています。
在位中に被害記録に残る最古の地震である允恭地震が発生しました。
□ 440年 倭が新羅に侵攻した。
□ 443年 倭国王済が宋に朝貢して「安東将軍倭国王」を授かる。
□ 444年 倭が新羅に侵攻した。
□ 451年 倭国王済が宋に朝貢して「安東大将軍倭国王」を授かる。
――443年に倭国王済が宋に朝貢して冊封されてます。実は宋の記録では珍と済に血縁関係が記されていません。単なる記録漏れか血縁関係が無いのか議論になっているところでして。
雄略「親父(允恭天皇)の話か………親父はちょっと特殊だったからな。朝貢する時に先帝との関係を話さなかったのかもな」
――特殊と申しますと?
雄略「親父が仁徳天皇の皇子というのは間違いないはずだ。履中天皇、反正天皇共に母親も同じの実弟となってる。ただ、大王候補の兄が二人いることから皇位継承から外れるために河内でなく母親の実家の大和で育ったらしい。ところが履中天皇、反正天皇共に長生きせずに履中天皇の皇子も若かったから棚ぼた敵に大王に推戴された。応神天皇が河内で即位して河内王朝を始めて反正天皇までは河内を本拠地としてたけど、親父は大和に宮を造営して本拠地としたんだ」
――血筋も同じでヤマト政権を継いだのは確かですけど、地盤が違えば政治体制も変化しますね。それで宋に対してあえて先帝との血縁関係を主張しなかったのかもしれません。允恭天皇の母方の実家と言えば―――葛城氏ですね。葛城氏の権力が増したということですね。
雄略「そうかもな」
――451年には使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号され、安東大将軍」に進号しています。
雄略「百済は宋に冊封されていたので除外されている。伽耶地方の北が加羅で南が任那と考えられるが、面白いのは秦韓と慕韓だな。秦韓と新羅、慕韓は百済の地域が重複している。宋が朝鮮半島の地理に疎かったとも思えねぇ」
――秦韓と慕韓はどこだったのでしょうか?
雄略「百済と新羅が出来る前の朝鮮半島南部は馬韓・弁韓・辰韓の三地域に分かれていて小国家群だったそうだ。馬韓が百済に弁韓が任那に辰韓が新羅になった。辰韓地域の新羅以外の勢力圏が秦韓、馬韓地域の百済以外の勢力圏が慕韓かもしれねぇ。そう考えると慕韓がどこか見当がつく」
――どこでしょうか?
雄略「後に任那四県と呼ばれる地域だ。任那ではあるが位置的には馬韓の南側になっている。ここを五世紀の百済が支配出来ていなかったのは明白だな。秦韓がどこかわ分からんが」
――興味深いですね。ヤマト政権は宋に朝鮮半島南部の大部分の軍事権を宋に認められたということですね。新羅は位置的に宋に朝貢出来なかったから冊封体制に組み込まれなかったと。
雄略「ああ、この前後に允恭天皇が新羅を攻めまくっているのも宋の後ろ盾がないから舐めてるというものあるだろうな」
――国内では允恭地震が発生しています。国内で被害記録が残る最古のものです。
雄略「この地震の復興作業をサボって宴会をしていたという理由で葛城玉田が粛清された。葛城氏は大和国の大豪族で古代から大王家と縁戚関係にあり権力を持っていたからな。難癖付けて潰したんだろう」
――葛城氏の没落の始まりですね。
雄略「俺がトドメを刺したんだがな。まあ、それは後にしよう」
――後は木梨軽皇子の事件ですかね。後継者に指名していた嫡男の木梨軽皇子が同母妹の軽大娘皇女と関係を持った為に廃嫡されました。異母妹でしたら婚姻可能な古代でも同母妹はタブーです。
雄略「大王の選定は群臣の合議でやるからな。群臣の支持を失ったらもう終わりだ。後継者争いから脱落したな」
――允恭天皇は在位42年で崩御しました。実際には二十数年でしょうかね。日本書紀の年代比定が難解で困ります。
〇 安康天皇と眉輪王の変
安康天皇が即位する。
叔父の大草香皇子を誅殺すると、その妻を大后とします。
しかし、連れ子の眉輪王に父の仇ということがバレて暗殺されてしまいました(眉輪王の変)。
安康天皇の弟の大泊瀬皇子は安康天皇の仇を討ち眉輪王を殺しました。
□ 462年 倭国王興が宋に朝貢して「安東将軍倭国王」を授かる。
□ 眉輪王の変。
――安康天皇が即位する時に木梨軽皇子は自殺もしくは配流にされているようです。
雄略「失脚したとはいえ兄だから邪魔だったんだろ」
――462年に倭国王興が宋に朝貢して「安東将軍」に冊封されてますが、済より各落ちしてます。済は二度目の朝貢で大将軍だから若い興は一旦低い位を与えられたのかもしれません。興は済の子と記録されてますので、興が安康天皇というのが定説です。
雄略「代替わりしてすぐに宋との関係を結びなおしたってわけだな」
――安康天皇は大草香皇子を討ち滅ぼして、その妻を大后としました。家臣に騙されたと言われてます。
雄略「どうなんだろうな。最初から后狙いだったんじゃねぇか?」
――大后は大草香皇子との皇子の眉輪王を安康天皇の下で育てていました。ある日、安康天皇が連れ子の大草香皇子を殺したと言っているのを眉輪王が聞いてしまいます。眉輪王は寝ていた安康天皇を父の仇と差し殺しました。
雄略「眉輪王の変だな、これで大王の座が空位になった」
――眉輪王は葛城氏の邸宅に逃げ込みます。安康天皇の弟たちは一人を除いて兄の仇を取ることを躊躇していました。眉輪王がこの時で七歳と幼かったからです。
雄略「眉輪王が子供という理由で大王殺しなのに追討されなかったのはどう考えてもおかしいだろ」
――唯一、眉輪王を討てと主張した皇族が安康天皇の弟の一人の大泊瀬皇子でした。眉輪王の討伐に消極的な兄らを大泊瀬皇子は惨殺します。そして、眉輪王を匿っていた葛城円の邸宅を燃やして、眉輪王と葛城円を討ちました」
雄略「この大泊瀬皇子が俺様だ」
――大泊瀬皇子はどさくさに紛れて皇位継承のライバルとなりえる従兄弟の市辺押磐皇子(履中天皇の皇子)をその弟の御馬皇子と共に暗殺しました。そして他に皇位継承ライバルがいなくなったので即位して雄略天皇となります。
〇 雄略天皇即位
雄略天皇は即位すると有力豪族を次々と滅ぼしてヤマト政権を大王を中心とした中央集権化しました。
平群真鳥を大臣に、大伴室屋と物部目を大連に任じています。
他にも紀氏・蘇我氏・秦氏などの新興勢力を優遇して活躍させています。
氏姓制度の整備や渡来人の登用も積極的に行いました。
□ 463年 雄略天皇が即位する。
□ 469年 吉備氏の乱。
□ 471年 新羅征討の軍を派遣する。
□ 475年 高句麗の長寿王が百済の漢城を陥落させる。
□ 478年 倭国王武が宋に朝貢して「安東大将軍倭王」を授かる。
□ 479年 宋が滅亡して南斉が建国される。
□ 485年 雄略天皇が崩御する。
――雄略天皇は旧勢力の豪族らを粛清して中央集権化を目指しています。
雄略「手始めに葛城円を潰せたのは都合が良かったな」
――よくそんなことが出来ましたね。
雄略「朝鮮半島南部を支配して鉄資源が多く取れた。その鉄で農具を作り開墾して人口が増えて新興勢力が増加した。新興勢力は旧来の大豪族が目障りだが、だからと言って力で排除すると無秩序な世界になっちまう。俺は自分の手足となる部下が欲しい、新興勢力は権威の後ろ盾が欲しい。そして両者とも旧来の大豪族が邪魔だ。利害が一致したからな」
――なるほど、その新興勢力の力を借りて古き強大な豪族たちを従えたのですね。葛城氏と同様に吉備氏も滅ぼしています。
雄略「吉備一族は下手すりゃ大王より権力持ってたからな」
――古代の古墳大きさランキングで吉備の古墳がランキング上位に来てるくらいですからね。
雄略「吉備氏の他に伊勢の朝日氏なんかも滅ぼしたぜ」
――大王に即位して平群真鳥を大臣に大伴室屋と物部目を大連に任じてます。彼らが新興勢力というわけですね。
雄略「そうだな。そう言えば氏姓制度を取り入れたのは俺だからな。俺の時代になって葛城氏とか吉備氏とか大伴氏と物部氏とか呼ぶようになった。それまではなんとなく住んでる地域で〇〇の一族なんて言ってたくらいだ」
――氏姓制度とは氏と姓を大王が臣下に与える制度ですね。名字の始まりと言われています。
雄略「日本の苗字に二字姓が多いのは氏姓制度を作る時に参考にしたのが百済だったからだな。百済は二字姓が多い。まあ、朝鮮半島は後に中華化して一字姓になるんだけどな」
――それでこの時代の豪族は二字姓なんですね。源平藤橘は四つの内の三つが一字姓ですが。
雄略「橘は奈良時代に名付けられ、源・平は平安時代で名付けられた。その頃は唐風文化が強かったからだろうな。藤原氏が出来た頃は百済の影響が強く残ってた。どうでもいい雑学だがな」
――ちなみに姓は臣、連、伴造、国造などがありました。
雄略「臣の中で力ある者が大臣、連の中で力あるものが大連というわけだ。後に大臣は政治のトップの役職となり大臣となり右と左に分割され右大臣・左大臣という役職が出来て、明治時代には総理大臣を始めとして令和まで続く役職になったわけだ」
――伴造の代表例としては秦氏がいます。応神天皇の御代に渡来した弓月君の子孫が秦氏で大陸由来の技術を持っていました。その秦氏をまとめたのが秦酒公でした。
雄略「「秦酒公には養蚕とか紡績技術の普及を命じたな。ヤマト政権の近代化を成し遂げたのも俺だ」
――雄略天皇は新羅征伐の軍を朝鮮半島に派遣していますね。
雄略「紀小弓・蘇我韓子・大伴談あたりを将軍にして派遣したが、仲間割れを起こして撤退しやがった」
――その少し後の475年に高句麗の長寿王が百済の漢城を陥落させています。百済はこの時に一時的に滅亡したとも言われてます。
雄略「俺が支援して百済を復興させてやった。百済が滅んで任那と国境を接したら面倒だからな」
――478年には倭王武が宋に朝貢しています。朝鮮半島情勢の悪化を受けてのことでしょう。
雄略「倭王武は俺様だな。朝鮮半島の権益を守る為にも宋に朝貢して「安東大将軍」に冊封してもらったぜ。兄貴(安康天皇)より上で親父(允恭天皇)と同じ位だ」
――百済以外の南朝鮮の軍事的支配権を認められていますね。
雄略「少しイラッと来るのが将軍号は百済の方が格上だったってことだな。百済は鎮東大将軍に冊封されていたから、安東大将軍でようやく並んだってことだ。俺様の助けが無ければ滅んでたくせに」
――雄略天皇の時代には中央集権化が進み旧秩序と新秩序が入れ替わりがありました。朝鮮半島の進出にも積極的でした。新興勢力の積極的な登用と文化技術の発展を推進したことから有徳天皇と呼ばれています。
雄略「照れるぜ」
――独裁的で粛清も多くしたことから大悪天皇とも呼ばれてます。
雄略「照れるぜ」
――日本書紀では在位二十三年で崩御したとされています。本日はいろいろとありがとうございました。
雄略「じゃあな」
――雄略天皇が崩御した後は清寧天皇が即位しました。本日のお話は以上です。ご清聴ありがとうございました。
注意)古代史は不明な点が多くこの内容は作者の妄想です。断定的に書いてますがフィクションとして楽しんで下さい。日本書紀の記述を元に西暦に換算してますが、基本的に根拠はありません。
同時代の史実エピソードや異説などがありましたら、参考にしますので感想でお願いします。