第四百二十九話 戦後処理
窓から差し込む光と、そこから眺める桜が咲き誇る美しい光景。そんな桜千の制作した会議室の中で、視線の端に映る伊万里の緊張した横顔を眺めていると、彼女の心の動きとは対照的に、愛おしい衝動に駆られる。
間違いなく伊万里に理解してもらえなさそうな心の中を、深呼吸とともに表情には出さずに押し込めた。正直に言えば、俺にとってこの時代の記憶は、砂時計の砂がこぼれ落ちるように、ほとんど忘れかけていた。
自分にとってはあまりにも遠く、遥か昔の出来事。あまりにも距離がありすぎて、その全てを記憶し続けることは、非常に困難だった。
普通の人間が赤ん坊の頃の曖昧な光景を思い出せないように、俺も時間が経過するほどに昔の記憶が曖昧になり、かつて何を望み、何をしたかったのかという目的意識すらも薄れていく感覚に、言い知れぬ不安と難儀さを覚えていた。
この世界に再誕したところで、目的を見失い、欲望という根源的な渇望すらも静まってしまった状態では、ただそこに在るだけの虚無の存在になってしまう。だからこそ、俺に必要だったのは、この時代の六条祐太の記憶と情動の全てだった。
祐太はそのことを深く理解してくれていたのだろうか……。
だからこそ、彼は死ぬことを選んだのか。弱い自分が生きていくより、自分のすべてを失ったとしても強い自分がこの世界を歩む方がいいと、自らの存在を投げ打ってしまったのか。
考えを巡らせるたびに、胸の奥で痛みが走る。自分の記憶でありながら、どこか他人の人生を覗き見ているような、奇妙な感覚が常につきまとっていた。
未熟なままの少年に、あまりに残酷な選択を迫ってしまった。そのことがどうにも悲しいのだ。伊万里を生き残らせた彼への賞賛とともに感じる申し訳なさが、消えぬ思いとなって頭の中に残り続ける。俺は可能な限り無表情を装う。
「ふう……」
「祐太、今後の方針への話し合いを始めるぞ。いいな?」
南雲さんの落ち着いた、しかし重みのある声が響く。俺はその声に促されるようにして、視線を伊万里から外した。
「はい。お願いします」
自分の声が、どこか遠い場所から響いているように聞こえる。今の俺を構成する人格の根底は、あの時、ヨミが持ち帰ってくれた祐太の構成データに基づいている。
あの時、ヨミが『あなたにはこれが必要でしょう』と言わんばかりにそっと届けてくれた、祐太の人格データ。それが俺を形作り、空洞だった心に血を通わせていた。
目的意識が薄くなり、あらかじめ組み込まれたプロセスに従って機械的に生きていた俺に、このデータは“人間”という複雑な生き物であることを思い出させてくれたのだ。
だからこそ俺は、祐太が遺したかった願い、したかったことを何よりも大切に扱いたいと願う。
祐太はこの時期に、成し遂げたいことがいくつかあった。俺はまず、それらを一つ残らず実行すると心に誓っている。過去を振り返るのも、自分がなさねばいけないことをなすのもその後だ。少年の願いこそが今の俺の最優先事項だ。
まず祐希丸と玉姫の授業参観に参加し、子供たちの成長する姿を目に焼き付けること。千年郷日本国と聖勇国、二つの世界の橋渡しをし、対立的な関係にならないように調整すること。
ホロスの恩義に報いるために、桜魔をホメイラとサクラマギアの王様として正当に認めさせること。そして、少年がかなり気にしていた、米崎の生死を確認すること。そしてジャックの後に遺された家族への十分な保証と慰撫。
千代女の供養。そして命を賭して戦った仲間たちへの相応の報酬の支払い。
それらが全て終われば、12英傑会議に参加し、かつての同志であるエヴィーと再会を果たそう。
それが終了すれば、やらなければいけない最後の仕事がある。それがもし、全て問題なく終われば――その時は、美鈴たちと、何にも追われることなく、ゆっくりと穏やかな時を過ごしたい。
それらの全てが祐太の、構成データからの願いだった。その中に自分がしたい。百万年を生きてきた俺がしたいと思っている内容は一つとしてない。百万年という時間。それは人間を人間で居させるための全てを摩耗させるに十分な時間だった。
多分俺は……。
「では司会進行は僭越ながら、私が務めさせていただきます」
柔らかな声とともに、すっと俺の後ろの影から桜千が現れた。彼の所作は流れるように洗練されており、その存在感だけで室内の空気が引き締まる。
「頼む」
南雲さんもあらかじめ承知していたようで、小さく頷いて席に腰を落ち着ける。桜千がゆっくりと一歩前へ出て、話し始めた。
「ではまず、この会合に必要な人間を召喚したいのですが、よろしいでしょうか?」
伊万里以外の全員が、同意を示すように頷いた。伊万里の顔を見ると、彼女は明らかな緊張を漂わせ、俺の方を頑なに見ようとしない。どうも彼女は、俺という存在を恐れているようだ。まあ、無理もない。
自分自身の手で確実に殺し、消滅させたはずの人間が、こうして目の前で息をして座っているのだから。伊万里にしてみれば、真夏の夜の悪夢よりもなおタチの悪い、逃げ場のないホラーのようなものかもしれない。
実際のところ、祐太はかつて伊万里によって完全に消滅させられた。この世には六条祐太という存在を証明する記憶の欠片さえも、どこを探しても残っていない。
俺の中に残っているのも六条祐太ではなく彼そのものに見えるデータだけだ。
だが、全てを語り、彼女を追いつめるわけにはいかない。全てがちゃんと決着し、役目を終えた時が来れば、いつかは話すことになるとは思うが。
それまでは、少々かわいそうだが怖がっていてもらうしかない。まあ、それぐらいの罰は、あいつがこれまで背負ってきた覚悟を思えば、まだ可愛いものだろう。今はただ、その恐怖を受け入れてもらうしかない。
桜千が軽く指先を鳴らすと、室内の空間が歪み、千年郷において現在重要なポジションにいる五人の人物が召喚された。彼らは瞬間的な召喚にも関わらず、動揺も見せず、あらかじめ承知していたのか整然と並び立つ。
「あなたたち。ここにいる五英傑様にご挨拶をしてください。くれぐれも無礼のないように」
「「「「「了解しました」」」」」
召喚された全員が迷いなく頷いた。
「ではご存知とは思いますが、まず私から。恐縮ながら千年郷日本国、何の因果か未だに内閣総理大臣を務めさせていただいております、山田太一と申します」
その言葉に合わせて、部屋の内装がゆっくりと変容していく。円卓は長大な一列の机へと変わり、俺たちが右側に、彼らが左側に腰を下ろした。一人一人が立ち上がり、緊張した面持ちで自己紹介を続けていく。
「次に私ですな。私は外務大臣を務めさせていただいております、関谷稲造と申します。主に一般人の聖勇国側の人間の交渉を担当することになりました。微力ながら、精一杯尽力させていただきます」
おそらく、多少はレベルが上がっていることは分かる。精悍ながらも苦労の皺を刻む壮年の男が、こちらに向かって頭を深く下げた。その背中には、緊張が滲み出ている。
まあ一般人にしたら、願わくば、レベル1000を超えるような存在の前には立ちたくなどないだろう。全員神気をまとっている状態で、一般人にしてみればこれだけで土下座したくなるような衝動が湧き上がるらしい。
「では次に私が。南雲様と雷神様はすでにご存知と思いますが、伊万里様とクミカ様、そして六条祐太様、初めまして。日本におけるルビー級の取りまとめ役、並びに【探索者取締】という役職を仰せつかっている、烏丸時治と申します」
目鼻立ちの整った、いわゆるイケオジと呼んで差し支えない風貌の男が立ち上がり、淀みのない挨拶を口にした。その背中には鴉の翼が優雅に折り畳まれており、探索者として並外れた実力を持っていることが一目で分かる。
彼は亡き森神様の一番の部下であり、現在も引き続き南雲さんの右腕として、世界各地を奔走している男だ。そのことはリアルタイムで桜千が【意思疎通】を使って送ってきていた。
「では次に聖勇国側からも2名呼んでおります。ロガン様、五英傑様にご挨拶を」
そして桜千が会議を進行していく。
「了解した。我が名はロガン・ゼノ・パラディウス。ロガニアという地域の支配者を務めていた者だ。現状、聖勇国側として、伊万里様を除けば生き残りの中で最もレベルが高いのは私ということになる。それゆえに、聖勇国臨時統括という立場に今は収まっている」
男は淡々と語り始めた。その姿は、一見すればどこにでもいそうな若々しい青年だった。浅黒い肌に、どこか憂いを帯びた涼やかな目元。ヤサ男風にも見えるその細身の体躯には、しかし、独特の威圧感が宿っている。
耳元で揺れるイヤリングは、単なる装飾品ではなく、極めて高位のアイテムであることを今の俺の眼ならば、一目で理解できた
桜千が事前に送ってくれた報告書には、彼がなかなか精神的に成熟しており、過酷な状況下でも揺るがない強い責任感を備えているとあった。聖勇国では間違いなくホロスの次に有望な人材と言える。
この男が生き残っていたことが、聖勇国側にとってはまだかなりの希望と言えた。正直言ってこの男がいない場合、聖勇国側の人材は著しくランクダウンしてしまう。
ロガンは言葉通り、自分の立ち位置を冷静に把握し、俺たちという圧倒的な強者たちに対しても卑屈にならず、かといって不遜でもない、バランスの取れた態度を崩さない。
「何度か話し合っていることだが、こちらに戦う意思はない。戦ったところで無駄なことも、重々承知しているつもりだ。そのことだけは、まずは理解しておいてもらいたい。その上で俺以外の人族の安全を、できるならば脅かさないでもらいたい」
ロガンは敗北を認めながらも、それでもなお自らの民を護ろうとする指導者としての矜持が混ざり合っていた。
「えっと……俺は何で呼ばれたのかよくわからないんですが、ゼオン・オービシャスというものです。エルフ族で、エルダーリア森林州という地域の冒険者ギルド長を務めておりました」
続いて立ち上がったのは、六条祐太がかつて知る人物、ゼオンだった。自分の紹介をしながら、どこか居心地が悪そうに周囲を見回している。その体躯は、筋肉質で二メートルを超える圧倒的な高身長。
エルフというよりは、古の伝説に登場する巨人の血筋を引いていると言われても納得できる大柄さだ。もしその長い耳がなければ、誰も彼をエルフだとは思わないだろう。レベル432。
ゼオンより高レベルの実力者は他にもいるが、六条祐太と知り合いであったかどうかで、桜千は多分に私情を交えて選んだようだ。
「ああ、俺が知り合いだということで呼んでもらったんだ」
俺が事実を告げると、ゼオンは『なんて迷惑なことをしてくれるんだ』という顔で、恨めしそうに俺を睨みつけてきた。きっと、こんな聖勇国側の人間の運命が決まりかねない場所に出てきたくなかったのだろう。
だが、俺は彼が人として信頼に足るかを知っている。俺が知っているかどうかそれが重要なのだ。だからこそ、俺は彼に相応の権限を与え、もっと表舞台で動いてもらおうと考えていた。
まあものすごく迷惑がられそうだが……。
一通りの紹介が終わり、緊張感の漂う会議室で、俺は椅子からすっと立ち上がった。
「全員、ご苦労様。とりあえずリラックスして座ってくれ。切江、シャルティー、全員に何か飲み物でも用意してやってくれ」
声をかけると、控えていた切江とシャルティーが目にも止まらぬ速さで動き出し、全員の分の飲み物を用意し始めた。洗練された手つきでグラスが置かれる音だけが、静寂の会議室に心地よく響く。それを見届けて、俺は改めて口を開いた。
「南雲さん。この場に、もう一人呼びたい人間がいるのですが、いいでしょうか?」
「お前が呼びたければ誰でもいい。好きにしろ」
南雲さんの簡潔な許可を得て、俺は空間の先を見据えた。
「ありがとうございます。……クミカ。お前、『桜魔』という人間を闇の檻に閉じ込めているはずだな?」
「はい。……何か問題がありましたか?」
クミカは相変わらず、俺に対してその心のすべてをさらけ出している。今の俺には複雑な事情があり、彼女に本心を見せることは控えているが、彼女の方は『私という存在のすべてを知っていてほしい』と強く願っているようだ。
そんな彼女から共有された情報の中で、俺は『桜魔』という存在の末路を知ることになった。クミカは、まだ百年以上の寿命を残していたその女を、永劫の出口のない深い闇の中へと完全に封じ込めていた。
常人であれば発狂しかねないほど、桜魔が受けた仕打ちは残酷なものだった。しかしクミカにとって、それは敵を排除するための『最善手』に過ぎない。死ぬまで闇に閉じ込め続けることに、一片の罪悪感も抱いていなかった。
戦争という極限状態が生んだ、善悪の境界すら曖昧な非情な判断だった。
だが、俺にはホロスに対する拭いきれない恩義がある。かつてのギガとの戦いにおいて、ホロスが美鈴たちを助けてくれなければ、犠牲者は千代さんだけでは済まなかったはずだ。
あの場でさらに多くの仲間が命を落としていたことは、クミカが伊万里から剥ぎ取り回収したセラスの記憶からも、裏付けられている。だからこそ、俺はホロスとの約束を守らなければならない。
もしホロスが生きていれば、間違いなく桜魔の助命を何よりも最優先に願うはずだ。
「問題はないが、その檻から出してやることはできないか?」
「……すみません。聖勇国の座標は、あの崩壊とともに失われました。その場所に行けばおそらく出せると思いますが、この状況では無理です」
クミカの沈んだ声に、俺は小さく首を横に振った。
「わかった」
俺は意識を指先に集中させ、空間の『境界』を指先でなぞり、重たい扉をこじ開けるかのように押し広げる。空間にぽっかりと漆黒の穴が開いた。開いた先には、概念としての虚無がどこまでも広がっていた。
光の一片も存在しない、真っ暗な空間。聖勇国がかつて存在した場所には、どういうわけか瓦礫すら残っていなかった。どこに何があるかもわからない孤独な場所。しかし、クミカは驚いたように目を丸くし、それから口を開いた。
「驚きました。座標すら消失したはずのあの虚無に、これほど正確に干渉されるとは……」
虚無を見つめながらクミカは独りごちた。
サファイア級となったクミカはその虚無を見つめて、俺に言われる前に、自分がしなければいけないことを理解して魔法を紡ぐ。
【そこは闇の闇。夜の夜。日の差す時が来た】
虚無の深淵から、さらにもっと暗い何かが蠢き、こちらへ溢れ出そうとする。しかし、俺が設けた『扉』を越えて、その深淵の闇が会議室へと広がることは決してなかった。そして虚無の奥で、一人寂しくうずくまる少女の影があった。
【さあ起きなさい。私の主がお呼びです】
クミカの導きに応じるように、俺は開いた虚無から桜魔を回収し、繋げた空間を閉じた。伊万里が、まるで得体の知れないものを見るようなすごい目でこちらを凝視しているが、とりあえず無視することにした。
現れた桜魔と呼ばれた少女。見た目は確かに可憐な少女だが、その瞳には三百年の孤独が刻まれている。見た目が若いという言葉では片付けられない重み。彼女はゆっくりと体を動かした。
長い黒髪、透き通るような白い肌、そして深い紫色の瞳が、部屋を見渡す。最初に俺に目を向け、次にクミカを捉えると、警戒するように身を強張らせて後ろに下がろうとする。
「無礼ですよ。まずはちゃんとご挨拶をしなさい」
桜千が冷たく、しかし毅然とした態度で彼女を止める。クミカが桜魔の背後に素早く回り込み、彼女の体を容赦なく床へと押さえつけた。静寂の中、少女の荒い息遣いだけが響いていた。
「ぐっ……何をする、離しなさい!」
桜魔が鋭く叫び、床に押さえつけられた状態から激しく身をよじってもがく。見た目こそ可憐で儚げな少女だが、その内側に秘めた魔力は正真正銘のルビー級。
一歩間違えれば、この頑強な会議室さえも粉砕してしまうほどのエネルギーが、彼女の中で渦巻いている。
だが、彼女が動こうとしたその瞬間、床に這うようにして黒い影が這い上がり、その運動エネルギーを飲み込むように吸収してしまった。クミカの操る影の檻が、彼女を物理的に封じ込めたようだ。
「あまりに失礼だとまた闇の中に戻しますよ」
クミカが淡々と口にして、少女の顔が恐怖に歪む。
「乱暴なことはするな。クミカ……離してあげるんだ」
俺の言葉に、クミカは一瞬だけ躊躇いを見せた。彼女にとって、この桜魔という存在は本来、排除すべき敵に過ぎない。しかし、俺がそう命じると、彼女は不満げに口元を歪めながらも、すっと影を引かせた。
解放された途端、桜魔はすぐさま反撃に出ることもなく、ただ荒い呼吸を繰り返しながら、獣のような鋭い瞳で俺を睨みつけてきた。その瞳には、強烈な敵意が宿っている。
「私に何の用だ? 殺すというのなら、今すぐやりなさい!」
「いろいろと事情を話しているのも悠長だからな。直接、データで頭の中に送り込む」
俺はそう告げると、クミカの記憶領域で保管していた、ホロスの終わりまでの経緯を、余計な感情を通さず彼女へと【意思疎通】で送信した。残酷かもしれない。しかし、誤解なく事実を突きつけるには確実な方法だった。
桜魔の瞳が、急速に色を失っていく。送り込まれた情報を理解するたびに、彼女の表情からは血の気が引き、絶望の淵へと沈んでいくのが見て取れた。彼女はその性能の良い頭脳で、現実のすべてを理解してしまった。
ガタガタと全身を震わせ、ついに支えきれなくなったかのように床へと崩れ落ちる。
「あ……あぁ……ホロス様! どうして、どうして私を置いていってしまったのですか!?」
心の底からの絶叫。自分にとっての全てが、もうこの世にいない。それを一度に流し込まれる苦痛は、凄まじいものだろう。細い肩が震え、頬を涙が伝う。待ってあげたいという慈悲の心が俺の心に浮かぶが、彼女は敗者。
そんな甘えが許される場所ではなかった。この会議でちゃんと発言をしないのなら、勝手にこちらで彼女の運命も何もかも全て決めるまでである。
「俺はホロスと、俺の仲間たちが交わした約束を果たすつもりだ。しかし、サクラマギアの領地のすべて、そしてホメイラの領地の全域を保障するのは、正直に言って聖勇国が崩壊した今の状況下では難しい。だが、ある程度の領域の安全を確保し、不可侵の領域として保護することを約束する」
「……期間……は……」
桜魔は何とか言葉を発した。
「永遠ではない。まずは暫定的に10年間だ。それ以降は、自分たちで管理すること。そして、その地域の支配者として桜魔、お前を指名する。この条件、受けるか?」
桜魔は茫然とした様子で顔を上げ、濡れた瞳で俺を見た。
「そんなこと……今の私に聞かれても、知るかッ!」
絞り出すようにそう言うと、顔を背けた。あまりに急すぎる提案であり、俺も同じ状況で、こんな話をされたら、相手を殺したいと思うかもしれない。しかし、彼女に支配地域を与えるという決定は、今後の聖勇国の運命に関係している。
「……すまない。この女の説得は、俺の方で必ずやり遂げる。だから……しばらく、時間を許してやってくれんか」
そう言って立ち上がって発言したのはロガンだった。しかし、その言葉に答えたのは俺ではなかった。
「だめだ。今すぐ決めろ。嫌だというなら、いや、この女がホロスの後を追いたいというのなら……俺がこの場で殺してやる」
南雲さんが、椅子に座った状態のまま、桜魔の身体を覗き込むようにして低く呟いた。その声には、一切の躊躇いも混じらぬ、本物の殺意が宿っていた。
俺は彼女の事情を慮って待つという選択肢を考えていたが、南雲さんはそれでは甘いと判断したようだ。南雲さんがそういうなら、俺はそれ以上の言葉を飲み込んだ。俺ではなくロガンが反論してきた。
「しかし、桜魔にとってホロスは……自分の命よりも大事な存在だったのだ。それを失ったことを今知ったばかりで、即座に決めろというのは、あまりに無理があるだろう」
しかし、南雲さんは冷ややかな視線を向けただけだ。
「確かにな。だがホロスの件は、俺もこの会議の前に詳しく聞いている。なかなかの器の人間だったようだ。それは俺も認めてやる。だからこそだ、その人間が残したものを、大事にするか、それとも放置して朽ち果てさせるか。今すぐ決めろ。お前らは敗者なんだ。はっきり言って、今の条件は破格だ。それでもこの件に関する最大の功労者である祐太がその恩義に報いるため、本来なら許されないことをねじ込んだ結果だ。これ以上の譲歩はない」
「……」
ロガンは何か言おうとしたが、南雲さんの目を見ると、それ以上の言葉は不要だと悟ったようだった。彼は観念したように桜魔へと向き直った。
「桜魔。我らは敗者だ。お前も俺も、完膚なきまでに負けたんだ。最愛の人間が死んで泣いている暇も……俺たちにはないらしい。今すぐ決めろ。それがホロスのために、お前ができる唯一のことだ」
ロガンの言葉に桜魔はしばらく震えていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。
「……引き……引き継ぎます」
か細く、消え入りそうな声。しかし、研ぎ澄まされた感覚を持つこの部屋の全員には、その言葉がはっきりと伝わった。
「OKだ。じゃあもう無理にしゃべらなくていい。黙って座っておけ。悪いようにはしない」
南雲さんの言葉に、桜魔は重い足取りで立ち上がる。その背中は小さく、脆そうに見えた。魂の抜けたような足取りで席に着く彼女の様子に、俺は哀れみを覚えながらも、会議の継続を桜千に促す。
「じゃあ続けようか」
「桜魔。元気を出せとは言わん。後は我らで話しておくから、心配するな」
ロガンは意外なほど優しく彼女を励ましていた。人が揃ったところで、ようやく会議は本格的に動き出した。





