第一話 最後の登校
「はあ」
思わず溜息が漏れた。中学3年の冬休みが終わって一週間。
俺は憂鬱な気分で通学路を歩いていた。吐く息が白くなる寒い日。
高校受験シーズン真っ只中である。俺の両親はせっかく再婚したのに不仲で、家に帰ってこない。そして俺は学校で虐められ、中学3年になるが、毎日学校に行くことが苦行で仕方がなかった。
中学になってからは桐山という好きな女子もいたのだが、姉が有名モデルであることでも知られる彼女は、自身もかなりの美少女である。虐められっ子の俺が、そんな高嶺の花に声もかけられず眺めているだけだった。
「受験ももう間に合わないのに、なんで学校行かなきゃいけないんだ。親父のやつ今更担任となんて何を話せって言うんだよ」
世界中にダンジョンが現れて5年。世間の常識は徐々に変わりつつあるが、それでもダンジョンが現れる前の考え方が未だに主流である。俺は両親に高校へは行かずダンジョンに入ると宣言していたのだが、父親が弁護士をしていて、中卒を許してくれなかった。
『お父さんは、お前のことを心配してるんだぞ。とにかく今日は先生と話せ』
「って、電話越しに言われてもな」
再婚してすぐに義母の浮気が発覚した我が家。以来、義母は家に帰ってきていない。それからすぐに父親も浮気して、最悪なことに家に帰ってきていない。
「親父まで家に帰ってこなくなってもう5年か」
お互い浮気相手の家にいるのに、離婚しない両親の顔を思い浮かべながら、憂鬱な気分で校門をくぐり、教室に着く。ざわつく朝のホームルーム前の教室。見慣れた光景。中学3年になって、クラスで最もさえない男子のことを一瞥しただけで、みんな興味を無くした。
この中学は俺の学力でぎりぎり合格することができた私立中学であり、みんな受験でそれどころではないのだ。ダンジョンが現れて、きっとこれから世界は変わっていくのにバカばっかりだ。
あのアメリカや中国でさえ、ダンジョンに翻弄され、今までの学校教育なんてどこまで通用するのかわからない世界になっている。でも日本ではほとんどの人間はまだその現実を受け入れていなかった。
明日も同じ現実が続くと信じたがっていた。
「六条、お前どこ受けるんだよ?」
だから学校に来ればこんなアホなことを聞かれる。前の席の虐めっ子の一人、小野田が話しかけてきた。家が散髪屋で、私立中学なのに地毛だと言い張って、女にモテたいがために茶髪に染めてるアホである。
俺はどこも受験する気はないのだが、そんなことを言えば騒がれるのがわかっているので、今日まで、自分の進路をクラスでひた隠しにしてきた。それでも、小野田は虐めている俺がどこを受けるか知りたいようだ。
うるさい。聞くな。このカス。
「え? あ、えっと、まあ色々と」
心の中では威勢のいいことを思いながらも、口を開けばおどおどしてしまう。
「はっきり言えよ。どこ受けるんだよ」
小野田はきっと高校に行かない人間が日本にいるなんて想像もできないだろう。しかし俺は既にそうしようと決めていた。ダンジョンがなければ、そんなこと考えもしなかった。
しかし今はダンジョンがある。無理をして学校教育なんて続ける必要はない。大体、そんなところに行っても、俺は馴染めない自信がある。それぐらい俺は虐められっ子が身に染み付いて、なんと幼稚園から虐められ続けの人生だ。
「お、俺の受ける高校なんてどこでもいいだろ」
「んーだよそれ。どこを受験するかぐらい教えろよ」
「小野田ー、どうした?」
「いや六条の君が、どこ受けるか話さないんだよ」
弁護士のくせに育児放棄をしている父親のせいで、今日は先生との話し合いもある。でも早く、帰りたい。声をかけてきたのは俺の中学生活を灰色にした元凶。
「六条の君がどこを受けるかなんてどうでもいいけど、俺もちょっとは気になるな。どうするんだよ。Dランか?」
虐めっ子の池本という男子が声をかけてきた。池本は背が高くて、イケメンで、色黒の肌をしていた。中学に入ってから何か格闘技を習っているようで、筋肉質で喧嘩が強い。そしてその強さを人に誇示したがる嫌なやつだ。死ね。
小野田がにやにやしている。こいつは池本の横で俺をからかうのが大好きなのだ。俺は池本と小学校の頃から一緒だった。小さい頃、池本は身長も低くて別に喧嘩が強いわけでもなかった。
しかし何を思ったのか小学5年の頃に、急に俺に廊下でプロレスごっこをしようと言ってきた。その頃から虐められてた俺に負けるわけがないと思ったんだろう。しかし俺の技が変に入って、池本の腕が変な方向に曲がった。
それが大層痛かったらしく、池本はその時泣いてしまった。それから一年、中学になり、再び池本が俺にプロレスごっこをしようと言ってきた。次は筋肉ムキムキになっていた。こいつ、もしかして俺に勝つために修行してきたのか?
勝てるわけがなかった。以来、いじめられ続けてる。俺、悪くないよね?
この進学校にさえくれば、小学校時代のやつとはもう会わないと思っていたのに、池本は意外と頭も良くて中学まで一緒だった。中学では虐められたくなくて私立の受験を頑張ったのにその計画がご破算だ。
ダンジョンで強くなったら、俺はマジでこいつをまず殺そうと思ってる。
「六条の君! お前もDラン行くんだろ!?」
池本は近づいてくると挨拶のように俺のあだ名を呼んで腹を一発殴ってくる。俺はそれを受け止めて、変な感じに体をくの字にして、
「はは、まあそんなところ」
我ながら曖昧で気持ちの悪い返事をした。
「やっぱDランかよ! 俺もだぜ!」
さらに腹を殴られる。うるさい。そんなところに行くわけない。DランとはDランクの高校とかではなくダンジョン高校の略である。入りやすい大学がFランと言われるのと同じで、ダンジョン高校も入りやすいことで有名だ。
そのせいで未だにダンジョンに対して忌避感のある日本では、ダンジョン高校を馬鹿にして、Dランと呼ぶのだ。最近ではその風潮も無くなってきているが、バカにした名前がそのまま愛称として定着したようだ。
そしてダンジョン高校とは、ダンジョンが現れてから造られたダンジョンについて学ぶための高校だ。入りやすさとは裏腹に卒業するのはとても難しい。入りたいものはほぼ100%合格するにもかかわらず、卒業するのは1/10とも言われていた。
しかしその反面、ダンジョンではレベルアップと共に知能も飛躍的にアップするため、卒業さえできれば人生の勝ち組は間違いない。だから、その厳しさが知られているのに入学希望者はとても多かった。
「六条の君、お前ダンジョン高校に行くなら武蔵野にしとけよ! そしたら俺とまた一緒だぞ! 俺がダンジョンでお前の面倒を見てやるから、お礼に俺の荷物持ちしろよ! もちろん自分の意思で『やらしてもらいます』って言えるよな!?」
池本。俺はお前がそう言うと思ったよ。
だから行かないんだよ。今やダンジョン高校を卒業することが、中学生の夢である。だから中学でイケてる奴は大概Dランに行く。クラスでは一番イケメンでもある池本は、ダンジョン高校に入ることを明言していた。
「あーあ、武蔵野でもこいつの面倒を見てやるなんて俺ってマジで優しいよな!」
池本が俺の首にネックロックをかましてくる。
「もちろん、お前から出たガチャコインも俺にくれるよな?」
「いや、もうやめろよ」
何度も何度もこのクラスで繰り返された日常。自分の情けない姿に、好きな女子でクラスメイトの桐山が気になって目が行く。
登校してきたところのようで教室に入ろうとしていた。一目見れば誰でも綺麗だとわかるスタイル抜群の女子。特にお尻の形が綺麗だった。桐山とは特に二人の間で何かイベントがあったわけでもない。
ただ可愛いから好きになった。それだけの単純な恋心だ。
「どこ見てるんだよ!」
相変わらずネックロックしたままの池本が、それを目ざとく見咎めた。
「別にどこも見てないよ」
「あ! お前、桐山見てるだろ?」
「ち、違うよ!」
「なんだよ。隠すなよ。おい、桐山! 六条の君がお前のこと好きなんだって!」
「お、おいやめろよ! そんなこと誰も言ってないだろ!」
実際のところ本当は好きで見ていた桐山がこちらを見てきた。切れ長の瞳に後ろでポニーテールにまとめられた艶やかな髪。驚くほど整った顔立ち。健康的な肌色をしていて、それでいてクールであまり喋らないところも好みだった。
クールな桐山さんはこちらに興味を示さず、一瞥しただけで視線を戻した。
「池本。もうやめてくれよ。もうすぐ先生くるから」
「なんだよつまんねーな」
俺のネックロックされていた首が外された。別に俺の言うことを聞いて外してくれたわけじゃない。この池本も桐山さんが好きで、露骨に虐めをするところを桐山さんに見られないように気をつけているのだ。
こいつが告白したら桐山さんはこいつと付き合うだろうか? 少なくとも俺よりは可能性が高いんだろうな。そう思うだけで胸が苦しくなった。
「——おーい、席に座れ」
担任教師が入ってきてホームルームが始まり、受験についての注意事項が話される。それから授業が始まった。相変わらず難しくて、中学に入ってからまた虐められて、勉強する気力が失せていた俺は、全くついていけなくて苦痛としか思えない時間が続いた。
そして、明日から最初の高校受験であるDラン受験が始まる。午前で授業は終わりになり、
「六条、後でちょっといいか?」
このまま帰れたらいいのにと思っていたら、担任から声をかけられた。話す内容は分かっていた。進学についてである。本来ならこんな問題児、教師も放っておきたいところだろうが、あの弁護士から、
『今日は行かせるから、進学について先生からも言ってください』
と連絡が入っているはずだ。育児放棄をしている親父は、俺の対応に困ると教師に丸投げする。そして投げられた教師はその対応に困り、それでも何もしないわけにはいかず、申し訳程度の対応をしてくる。
今日も場所を生徒指導室に移して、
「なあ、本当にダンジョン高校へ進学しないか? まだ出願に間に合うぞ」
真剣に教師が勧めてくる。青いパイプ椅子に座った俺はうんざりしながら教師の顔を見た。50過ぎて偏屈そうな男教師。生徒人気のない教師だった。
「たとえDランでも行くつもりはありません」
「しかしなあ、いくらなんでもダンジョン高校にも行かずにダンジョンに行くのは厳しいぞ。死んだって不思議じゃないんだ。というかダンジョン高校にも入らずにダンジョンに入ったやつなんて、ほとんど死ぬんだぞ」
「俺は自分の力でダンジョンに入りたいんです。Dランじゃそれは叶わない。みんな横並びのことばかりさせられるだけだ」
色々言い訳を述べているが、つまるところもう誰もいないところに行きたかった。幼稚園から虐められ続けて、集団生活にはホトホト嫌気が差していた。ダンジョンで一人になりたい。それで死んだら死んだときである。
どうせ俺が死んだところで泣きもしないだろうに、もうほっといてほしかった。
「確かに横並びの授業かもしれないが、その代わりダンジョン高校では滅多に死者は出ない。優秀な探索者がサポートしてくれるからだ。逆にダンジョンへ勝手に入ったら大概死ぬんだ。いや、それ以前に現実を知ってやめることになるだけだぞ」
「そんなことぐらい、先生以上にダンジョンについて調べて知ってるつもりです」
「お前が俺より詳しい? 本当かー?」
いかにもお前みたいな馬鹿が? と言いたげだった。勉強ができないことは認めるが、だからってバカだと思われてるのは心外だ。勉強できないのは勉強しなかっただけだ。
「本当ですよ。武蔵野ダンジョン高校の前年度の受験問題は満点をちゃんと取れましたから。興味のあることに関しては賢いつもりです」
「ダンジョン高校ね……。所詮はバカの集まりの受験なんてな……」
今の大人の認識はこんな感じである。
ダンジョン高校は不良の集まり。学校で人も殺せるようになる術を教えるなんて、野蛮の極み。教育としてあってはならないこと。特に教育関係の仕事に就く人は、ダンジョン高校が嫌いだった。
「こんな非人道的な高校の受験者数が、毎年どんどん増えていくとは世も末だな」
「あの何の話ですか?」
「いいか、六条の君」
この教師もたまに俺のあだ名を呼ぶ。六条の君とは、平安時代の貴族の名で、和歌が得意だった。そして俺は、国語の授業で、和歌の時間があり、その時の和歌の出来がやたら良かったらしく国語の先生に珍しく褒められた。
勉強で褒められたのは嬉しかったのだが、それを聞きつけた担任が、俺のことをホームルームで『六条の君』と褒めるつもりで言った。クラス内で大爆笑された。特に池本がそれをからかって、以来俺は六条の君と呼ばれるようになった。
「ダンジョンで安定して稼げるのなんてごく一部の人間だけだ。どうせ六条の君は軽い気持ちで夢見ているだけだろ?弁護士のお父さんもそう言って心配されてるんだぞ」
親父が子供の心配をしているみたいに言うな。浮気した上に育児放棄しているクソ野郎だぞ。
「親父の話はやめてください。それに先生、俺は許可されていないことをするわけじゃない。15歳以上になればダンジョンは俺を受け入れる」
「受け入れてくれるからって何なんだ。未成年が命をかけてダンジョンに入るなんて法律的にも本来は規制されるべきことなんだぞ」
教師が上から見下したような口調で喋ってくる。
「でも規制はされてませんよね」
「それは政府が不甲斐ないだけだ。欧米ではちゃんと未成年や一般人が無許可でダンジョンに入れないように方法をこらしてある」
「おかげで欧米は大混ら――」「そこが間違ってるんだ!」
俺が言おうとしたことに急に教師がヒートアップして声をかぶせてきた。
「本来なら! お前達みたいな未成年を利用するような真似をするべきじゃない! 欧米のようになんとか方法を見つけてダンジョンは規制されるべきだった! 先進国でダンジョンに規制をかけなかったのは日本だけだ! 自衛隊とか警察とかそういうのがダンジョンに入って、危険なことはやるべき! 違うか!?」
「いや、でも、どのみち自由意志以外をダンジョンは受け入れない。それを政府も自衛隊もどうにもできなかった」
「それをどうにかするべきだという話だ!」
「い、いや、赤の他人のことなんてもうほっといてくださいよ」
「はあ!? その口の利き方は何だ! 俺はお前の弁護士の父親から、お前の面倒を頼まれてるんだぞ!」
担任教師の目がみるみるつり上がった。ドンッと強く机を叩いてくる。俺はびくっと体がすくんだ。相手に強気で出られると怯えてしまうのは俺の癖だ。
「年上に向かってそんな口の利き方で、いいと思うのか!? 本当にお前は世間のことが分かっていないんだ! ダンジョンなんかにお前みたいな虐められっ子が入っても、死ぬだけだと言ってるんだ!」
「虐められっ子」
それをお前が言うのか? 虐められていたのをこの担任に助けてほしかったわけじゃない。そんな義務がこの担任にあるとも思わない。
「でも、じゃあ、俺の意思に関わるなって話だよ……」
「なんだ? お前が虐められてるのは本当のことだろ?」
「もういいですよ。立場上の理由で一生懸命止めてくれなくても。俺は明日の誕生日で、15歳だ。正確には朝の5時23分からです。だから明日からダンジョンに行く。せいぜい、あんたの成績には響かないよう、死なないようにします」
少なくともこの学校で一番俺の心配をしなきゃいけなかったのはこいつだ。生徒と先生は利害関係で繋がってる。心配せざるを得なかったと思う。とはいえ、その関係性もこれで終わりだ。
「今! お前! 教師のことあんたって言ったか!?」
担任が立ち上がって身を乗り出してくる。何怒ってるんだよこのバカ。教師という職業だから尊敬しろとでもいうのか。俺は居心地の悪い空気が嫌で、席から立つと踵を返して出入り口の扉へと歩いた。
「おい! まだ話が終わってないぞ!」
「俺の方は終わったんで、もういいです。卒業式も出る気がないので、これで最後になると思うけど、まあお世話になりました」
「ふざけるな! お前は俺の苦労を何もわかってない! 俺がお前のせいで、どれだけ残業しなきゃいけなくなって、どれだけ時間を使わされたと思ってるんだ!」
話がありそうな担任教師をおいて生徒指導室を出た。中から苛立って机を蹴る音がした。だが、担任教師は生徒指導室の扉を開けてまでは追ってこなかった。
「そんなことしたら他の先生の目につくもんな」
俺のために担任が時間を作ってくれたのは知ってる。本当ならこんなやる気のない生徒は、放置したかっただろう。だが、俺の父親は弁護士で、法律関係にとても詳しかった。だから下手に無視もできなかったのだ。
でもそういうところが両親と似ていてうんざりだったんだよ。幼稚園、小中合わせて12年間、よく大人はこんなクソみたいな施設を造ったものだ。学校の廊下を歩きながら、不快な気持ちが増していく。
「じゃ、先生失礼します!」
「おう、池本受験しっかり頑張るんだぞ!」
と、目の前に池本が歩いているのが見えた。こちらには気づいておらず意気揚々と廊下を闊歩している。俺を虐めている池本の方が教師からは好かれている。最後の最後に後ろから飛び蹴りをしてやりたい気持ちにかられた。
それでも俺は池本にバレないように廊下の角に隠れることを優先した。
「はあ……俺。明日からダンジョンで命をかけて頑張るんだろう……」
池本の姿が消えたのを見てから、隠れた場所から出た。惨めな思いをしただけの学校生活だった。それでも池本がいないか警戒しながら、学校の校門から出て、校舎を振り返ることもなく、学校から逃げるように歩いた。