第9話 選択
真っ青な頭上。雲ひとつない。
その鮮やかな真っ青と、真っ白で綺麗な病棟。
ボールを使って、じゃれ合う少女と少年。
少女と少年を見守る、車椅子に座った男性。穏やかに、幸せそうに笑う。
車椅子を押していく女性も笑っている。
けれど彼女は、何だか寂しそうにも見えた。
そんな風景を通り過ぎたことを、ぼんやりと思い出している。
診察室。人の良さそうな先生。
眼鏡をかけていないが、多分コンタクトを付けてる気がする。
小鼻の横にあるほくろが少し目立つ。
お世辞にも格好良いとは言えない40,50代の彼には、きっと温かい家庭があって、今日も家族が仕事帰りを待っているのだろうな。
先生はずっと、ぼくに向かって何か喋っている。
ぼくにはそれが、ほとんど聞こえなかった。
「まだ思い出せないかい?」
少年の声で、正気に戻る。暗くだだっ広い部屋の小窓から見える、過去の『ぼく』を、ぼくは眺めていた。
「思い出せないなら、教えてあげようか」
「やめろ」
「きみの言う『彼女』って娘はさ、交通事故にあったんだ。かなり大きな、自動車と人の衝突事故だった」
分かっているんだ、そんなことは。
「飲酒運転をしていた車が歩行者道路に突っ込んで、彼女は轢かれた。当の運転手は相当な酔い方をしていて、彼女を轢いたあと、何も無かったかのように元の車線に戻って、再びトップスピードへ。そのまま信号無視を数回重ねた結果、別の車に横から突っ込まれた。運転手は即死だったみたいだね」
知っている。知っている。知っている。
何度も聞いた。何度も話した。
これは嘘か夢じゃないのかと、そんなことを、何度も何度も考え続けた。
怒りの矛先を、何処にも向けられないまま。
「そして彼女自身は、と言えば」
「もう、やめろ」
それ以上は聞きたくなかった。少年を睨みつけ、彼の言葉を制す。
まくし立てるように喋る彼の声で、もうこれ以上この話について聞きたくなかった。
「もう、分かっているんだ」
まだ、ぼくの涙が枯れていないことを、ぼくは改めて理解した。
涙がどうしても止まらなかった。あれほど彼女のために、涙を流した。
それでも、まだぼくは泣いている。
「彼女は、もう一生目を覚ますことはない」
彼女はあの事件以来、目を覚ますことが無かった。
いわゆる『植物人間』になった彼女は、ぼくや家族に話をすることも出来ずに、病院の器具に繋がれていなければ、生きることさえ出来なくなっていた。
「いや、それはちょっと違うだろう?」
「そうなんだよ!」
ぼくは、自分の感情を振り回し続けていた。
そうじゃないと、息をすることさえ辛かった。
「もう、彼女は目を覚ますことなんて無いんだ!」
そうハッキリと言い切ると、ぼくは忘れていた感覚を思い出した。
自分が、まるで抜け殻になったような感覚。
ぼくの中に、もう何一つ残っていないような。
もう向き合うことに耐えられなくなった事実を、改めて噛み締めてしまうと、ぼくが今を生きる意味さえ、感じられなるような気がしたのだ。
「そう。そうやってきみは、現実から逃げてきたんだろう?」
「……逃げた?」
ぼくが逃げた?
「そうさ、きみは逃げたんだ。だからここに居るんじゃないか」
少年は煽るわけでもなく、淡々とぼくにそう言った。
そこに感情らしいものはまるで無くて、ただただ真っ直ぐに、真実を語るような言葉だった。
「彼女が目を覚ます可能性がある、とでも?」
「ああ、そうさ。それを信じていたからこそ、きみは寝たきりの彼女に何度も会いに行ったんじゃないか」
少年がそう言うと、隣の小窓が光る。そこに映っていたぼくが動き出す。
小窓の中のぼくは、寝たきりの彼女に向かって笑顔で話しかけている。
彼女から、何一つ返ってくる言葉も無いのに。
「だからきみは、彼女の母親にも気丈に振る舞ったんじゃないか」
その隣の小窓が光る。彼女のお母さんが泣き崩れていた。
ぼくはそっと抱きしめて『きっと目を覚ましますよ』と言っていた。
「医者の言葉だって、聞こえないふりをしながら、ちゃんと聞いていただろう?」
彼女の症状を告げられたあの時。
医師の言葉が、ぼくには全く聞こえなかった。ぼくは、そう思うことにしていた。
けれど医師の言葉に、ぼくは絶望を感じながら、ほんの微かな希望を覚えてしまった。
医師曰く、彼女はいわゆる「植物状態」となっていて、ほぼ目を覚ますかどうかは全く分からない。
ただし完全に可能性が無い訳では無い、と。
過去に、奇跡的に目を覚ます者もいた、と。
その言葉は、ぼくにとって絶望以上に苦しい感情を抱かせた。きっと、彼女の両親にとっても、それは同じだったはずだ。
彼女の命に対する、ほんの僅かな希望を抱いてしまったからこそ、ぼくは『彼女のためにこれからも生きていかなければならない』という感情を持ってしまった。
その先に、何一つ存在しない暗闇が待っていたとしても。
「…そうだな、アンタの言う通りだ」
ぼくは少年に向かって、素っ気なく言い放った。
「ぼくは逃げたんだ。彼女への愛情から。彼女の命への絶望から。そして、希望から」
「うん、そうだろうね。何せここは、そういう人間の『欲望』が集まる場所だから」
そう言うと、少年は突然宙に浮いた。
宙に浮いた彼が、腕を広げる。暗いドーナツ型の部屋だったはずの空間が、全ての壁を失い、光に満ちた。
ぼくはあまりの明るさに、瞬間目が痛くなった。
「人間ってのは『欲望』にまみれているから、苦痛や苦悩、絶望なんていう感情が生まれてしまうんだ。ここに来るのは、そんなネガティブな感情を全て取っ払って、自分の理想の中で生きたいと願う人間たちさ」
彼はそう言って、パチンと指を鳴らす。
頭上から足先まで、そしてこの空間の端から端まで、ホログラムウインドウのような映像が夥しいほど映し出された。
「これは、この世界にきた人間の姿。誰も彼も、ここに生きる人間は『自分が現実で果たせなかった理想』の中で生きている。
よく見ると、その夥しいウインドウの中に一つ一つに、人が映っている。
誰も彼も活き活きとした表情をしている気がした。
「例えばこの男は、他人から強烈な迫害を受け続けながら生きて来た。心身ともに傷つき過ぎた彼は、社会で生きる以上、『どうしても人と関わらないと生きられない』ということに絶望し、この世界に逃げ込んできた。そして彼は、一人だけで生き続けられる世界を作り上げた」
そう言って彼が説明したのは、ぼくがこの世界で初めて会った、あのナベさんだった。
ウインドウに映るナベさんは、楽しそうに、一人釣りをしている。
「それにこの男女なんかは、どちらも、定期的に人を殺さずにはいられない性分を持っていた。その二人が偶然出会い、遂には愛し合ってしまった。けれど二人は、互いを殺したいとも思っていた。いずれかが殺された瞬間、二人の愛は終わりを迎える。だから二人は、この世界で、永遠に殺し合いを繰り返している。あれが二人の『愛』なのかな?」
砂漠で男に殺されたはずの女は、ウインドウの中で生きていた。そして今度は女が男を殺している。
女が男の首を切る瞬間が映る。
二人の顔は、どちらも笑っていた。
「そしてきみも、彼らのようにここに逃げ込んで来た。だからきみも、彼らのようにどんな世界で生きたいか、選んでもらって構わない」
そう言って少年がぐっと両の手を合わせると、目の前に無数に広がったウインドウが全て消えた。
再び少年が手を広げると、そこには複数のウインドウが浮かぶ。
そのウインドウには、今度は無数のぼくが映っていた。
けれどどれも、ぼくの記憶には無い『ぼく』だった。
「分かるかい?これは、どれもきみが描いた理想の世界。つまり、きみがこれから選ぶ世界」
少し歳をとったぼくが、子どもを抱えている。彼女とは違う女性が、隣を歩いて微笑んでいる。
自由に空を飛んでいるぼく。鳥たちと競い合っているみたいだ。
子どものぼく。何も知らない無邪気な顔で、両親とじゃれ合っている。
「どの世界を選んでも構わない。その世界をきみは、永遠に生き続けていける」
ひとり異国を旅し続けるぼくもいた。ヒゲを蓄えて、活力に溢れている。
浴びるように酒を飲み続けるぼくがいて、ベッドの上でずっと眠り続けるぼくがいた。
どのウインドウに映るぼくも、幸せそうな顔をしていた。
ぼくはこの中で、永遠に幸せに生き続けていける。
「さ、そろそろ選ぼうか。きみは、ずっと迷い続けていた。だからぼくは時間を上げた。もう、答えは出ているんじゃないかな?」
少年がぼくに答えを迫る。
ぼくはその時、一つのウインドウに釘付けになっていた。
実は少年の言葉は、今度は本当にもう、ぼくの耳に入っていなかった。
寝たきりだったはずの彼女と、肩を並べて公園を歩く、ぼく。
ぼくが見ているウインドウには、そんな光景が映っていた。
ぼくも彼女も、何事も無かったような顔で、当たり前のようにそこに居た。
「…らない」
震える声。
絞り出すように、ぼくは言った。
「…こんな理想、ぼくには要らない」
拳を握る。
ぼくは、目の前に広がる無数のウインドウをぶち壊していった。