第8話 彼女
「….ね…っと...て…」
誰?
「…ねえ…ちょっと聞いてる?」
「…え?」
「大丈夫?なんだかぼうっとしてる」
ベンチに座っている。らしい。
そして隣から、ぼくの顔を覗き込む。
ぼくの額に手を当ててくる。たしかに『彼女』だ。
「大丈夫なの?今日暑いもんね。はい、お水」
ああ、そうか。
「ああ。ありがとう」
ぼくは夢を見ていたんだな。ずいぶんと長い夢だった。
彼女から水を受け取って一口飲む。そして、ひとつ深呼吸した。
「ねえ、本当に大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。少し暑かったから、ちょっとぼうっとしてただけだよ」
「そう。なら良いけど、無理しないでね」
彼女の目を見て、ぼくは頷いた。
いつも彼女と待ち合わせている、中野セントラルパーク。
あたりを見渡す。何も変わったところはない。なんだか静かで、今日は平和だ。
先の先まで竹林で視界を遮られてもいなければ、
見渡す限り水面しかない世界でも、
廃墟と砂漠だけの世界でもない。
普通の世界。いつも通りの世界だ。
思い返せば変な夢だった。
嫌な夢でもあったように思うけれど、案外悪くなかったかもしれない。
「どうしたの?」
「ん、何が?」
「なんだかニヤけてる」
「あ、いや。今日見てた夢を思い出しちゃって」
「ふうん…どんな夢見てたんだか」
ぼくにニヤリと微笑みながら、彼女はぼくに尋ねてくる。
「まあまあ、そんなことは良いからさ。今日はどこ行こっか?」
そう言って彼女の手を握り、ぼくらは駅の方へ向かった。
何でもないこんな日が、幸せなのだろう。そう思う。
少なくとも、ぼくにとってはそうだ。
非日常的な時間は、良くも悪くもぼくたちを浮き沈みさせる。
時に心を蝕み、時に心を弾けさせる。
「非日常」は全くぼくらに対して加減をしないから、いつだってぼくらを包み込む「日常」が側にあることが、ぼくには心地よい。
「非日常」のような世界を当たり前にする人もいるのだろうけど、ぼくは少なくとも、そうしなくて良い。そうしなくて良いんだ。
多分、きっと。
当たり前の日々を過ごして。
時折いつもと違うところに行って。
たまには彼女と喧嘩したり。また仲直りして、またいつもの時間に戻って行く。
そんな日々を過ごせれば、ぼくは多分、幸せなんだ。
きっとそうなんだ。
「ねえ、今日は東京タワーに行ってみない?」
「なんで東京タワー?」
「景色が良さそうだから」
「あ、そう」
東京にいながら、行ったことのない場所の一つだ。
東京に生まれた人間のぼくは、東京タワーに行きたいと思ったことがない。
だってそこから見えるのは、「東京だけ」だ。
もっと違う世界を体験できる場所に、ぼくは行きたい。そう思っていた。
ベタなデートのルートだと思うが、だからこそ行きたくない、というのもあるかもしれない。
「でも、たしかに良いかもね」
そういうベタな場所も、良いじゃないか。
そんな絵に描いたような場所も、二人だけで行ってみるのも。
ぼくたちはすぐに、改札をくぐり抜ける。
電車に30分前後揺られて、少し歩いた先。
そこに東京タワーはあった。思ったよりも、下から見上げると巨大な塔だった。
案外近くにあるもんだ。
「案外近かったね」
ぼくも同じことを考えていた。
「そうだね」
分からないけど、ぼくはとても嬉しかった。
その瞬間そこは、ぼくと彼女だけしか存在しない世界だった。
今日はぼくと彼女以外の人がほとんどいなかったのか、すんなり展望台行きのチケットを手に入れられた。
すぐに、ぼくたちは展望台行きのエレベーターで展望台まで上がる。
到着すると、そこには想像以上に綺麗な景色が広がっていた。
すでに世界には夕陽が射し始めていて、鮮やかなオレンジ色の光が全てを照らす。
それを照らし返す無数のビルが、何千万ものダイヤモンドみたいだった。
「すっっごいね」
「すっっっっごいな」
お互いを見返しながら、二人ともバカみたいに笑った。
そういえばこんなところに二人で来るのも、これが初めてだったかもしれない。
ぐるっと360°を見渡すことができる展望台を、二人で少し廻りながら、
ぼくと彼女は都度都度立ち止まって、写真を撮り続けた。
ツーショットを撮って、景色を撮る。またツーショットを撮る。
当たり前の日々。その中の、少しだけの非日常。
こんなもので良いんだろう。
ぼくは今、とても幸せだ。
「今日はとっても最高でした、ありがとね」
一周したところで彼女が振り返り、ぼくにそう言った。
今日は少しだけ、いつもよりテンションが高い。
「本当だね、今日は良かった。東京タワーがこんなに良いところだとは思わなかったな」
「だよね、わたしもびっくりしちゃった。それに、わたしと君しかいないんだもん。こんなの奇跡だよね」
「うん…そうだね」
彼女の言葉を聞いて、何かがぼくの胸に刺さった。
なんだ?
「あれ、楽しくなかった?」
「いやいや、まさか。すごい楽しかったよ」
なんだろう。この違和感。
「そう?なんか今日、やっぱり変だね」
「そんなことないよ。本当に」
辺りを見回す。なんなのだろう。
彼女。ぼく。望遠鏡。景色。夕陽。
「いやあ、本当に今日は、楽しかった!」
無数の輝くビル。広大な世界。
なのに、どうしてだろう。
「ちょっと、ねえ。どうしちゃったの?」
どうしてなんだろう。
どうしてぼくは、泣いているんだろう。
突然。
ズルッと何かに思いっ切り、ぼくは首から引き抜かれた。
「ぼく」という身体全体から、ぼくという存在の全てが、抜き取られた。
そんな気がした。
瞬間、世界が黒く染まる。真っ黒に。
すぐにまた気がついた。なんだか薄暗い空間。
通路がドーナツ状になっている部屋のようで、壁にぼうっと何かが映っている。
目の前の壁。
そこには「夕陽を見つめるぼくと彼女」が映っていた。
ぼくは泣いていた。ずっと、泣き続けていた。
「知っていたんだ。知っていたのに、忘れたふりをしてた」
ぼくの目から、いつまでも涙が止まらなかった。
身体が震えてしまって、立っていられなかった。
「彼女と、もうこんな日々を過ごすことなんて、もう出来ないんだ。分かっていたんだ」
もう。ぼくはどうしようもなくなっていた。
すぐ隣の壁が見えていた。
「白いベッドの上で寝たきりの彼女」が、そこに映っている。