第7話 ぼく
光も闇も色も形も、何も無い。
ぼくはここに居ない。それとも、ぼくは居る?…いや、やはり此処には居ない。
ぼくという存在は、「この世界」には存在していない。
「それはそうさ。ここは、ぼくの世界。『ぼくだけの世界』なんだから」
少年だった。
竹林で、水浸しの世界で会った、少年。
「そう。ぼくのこと、覚えているみたいだね」
何一つ存在しない世界。
光も闇もなく、形も色も、線も点も存在しない。
時間の感覚も存在していないみたい。
前に進んでいるのか、後ろに戻っているのかも分からない。
そもそも、此処には自分自身が無い。
そんな世界に唯一つ、少年だけは居た。
「そう。この世界はぼくの願い…いや『願い』なんて、そんな綺麗なものじゃない。ぼくの薄汚い『欲望』そのものだ」
少年の言葉に耳を傾けている場合じゃなかった。
ぼくという存在が、どこにも居ない。
ぼくが今、この世界には居ない。
探さなきゃ。見つけなきゃ。
『自分』を取り戻さなきゃ。
しっかり握りしめていなきゃ。
『ぼく』が消えてしまう。
「もう分かったから、認めなよ。此処に、きみは存在しない」
なぜ?
「わかっているんだろう?」
ここが、きみの世界だから?
「そう。いや、半分は正解だ。正しくは、此処がぼくの『ぼくだけの世界』だから」
きみは、他の世界にも居た。
「そうさ。それも、ぼくの願いだからね」
この子の言っていることが、分からない。
「そうやってきみは、いつも分からないフリをする。でも、きみは欲望のままに生きて、人の生き方を眺め、此処にたどり着いたじゃないか?」
欲望…ぼくの?
「そうさ。きみは独りを求めて、独りの世界を生きた」
ぼくが願った?
「そして耐えられない『孤独』の理解者を、優しさを求めた。そこできみは『希望』を覚えた」
ぼくが、求めた?
「そして他人との関わり合いを求め、人の愛し方に戸惑った。そしてきみは此処に逃げた」
ぼくが…逃げた?
「そう。だから、きみは此処にいるんだろう?」
少年は、多分笑っていた。何処にいるかも分からない。音さえも無い世界。
でも多分、彼は笑っていた。
「そりゃそうさ、だって笑えるだろ。きみはきみ自身のことを、知らない振りしているんだから。きみは自分で、すべて決めてきたんだ。まあ、それを見て見ぬ振りしても構わない。どっちにしたって、結果は何ひとつ変わらない」
彼は何を言っているんだ?ぼくは一体、何をしているんだ?
「少しは自分自身に、目を向けたらどうだ?」
音がないこの世界で、少年の声は聞こえない。
けれどその言葉は、ぼくに届いた。
ぼく自身に、目を向ける…?
ぼく自身の声に、姿に、記憶に、心に…?
「そうさ。きみが本当にしたかったことは、そういうことだろ? だけどきみは、それを拒んだ」
身体も何も無いはずなのに、全てをグルンと回されるような感覚がした。
グルングルンと回る。酔いはしない。気持ち悪くもない。
ただ『ぼく』という思考がぼうっとしてくる。
「人の世界に逃げ込んで。自分の内側に目を向けようとせず。真実からも嘘からも目を背け。ただ目の前の『現実』を受け入れようとした。それもまた、君の望んだ世界だっただろう。けれど、きみがしたかったことは、本当にそれで終わりだったか?それだけだったかい?」
少年の声が、薄れながらも届く。
「もう一度。きみは、きみ自身に向き合いなよ。それでも此処に来たかったら、またおいでよ。そしたら、本当にきみという存在が消せるだろうから」
ぼくが本当にしたかったこと。ぼくが逃げたかったもの。
ぼくが見たかった世界。ぼくが求めた世界。ぼくは思い浮かべる。
何も感じない。何も分からない。何も求めていない。何も。
意識が少しずつ、確かに遠のいていく。
最後に、少年の声が聞こえた気がした。
「きみと向き合え。名も無き世界を行け」