第6話 愛
女の突き出したナイフをするりと避け、無精髭の男は、ぼくの首に当てていたナイフで女に突き返した。
それを女は左手で上手く払いのける。そのままぐるんと男の手を捻り、そのままナイフを奪った。
さらに余った右手で、女は男を刺そうとするが、男はすかさず後ずさった。
ナイフを奪われた当の男は、薄手のロングジャケットの内側に手を延ばし、替えのナイフを2本取り出した。
男がそのナイフを投げる。2本のナイフは、一直線に女の顔を目掛けて飛んだ。
女はそのナイフを自分のナイフで弾くと、突然後ろに宙返りした。
男が斬りかかっていたのを、女は読んでいたようだ。
女の右靴裏に、男はナイフを突きつけようとする。男の手を、女の左足が蹴り上げる。
蹴り上げた勢いのまま四つん這いで着地した女は、すぐさま獣のように手足を使って走り出し、再び2本のナイフで男に斬りかかった。
首や腹部、脚部に至るまで、男の体の隅々を狙い続ける。
男も同様に女を斬りつけようとしながら、一方で女の攻撃を受け流す。
かわす。斬りつける。受ける。また斬り返す。
互いにほぼ無傷の状態で、二人の剣劇は続いた。
最初はあまりの壮絶な斬り合いに呆然として見ていたが、ぼくは少しずつ、目の前で何が起こっているのか分かり始めた。
これは、純粋なる「殺し合い」だ。
本気で2人が殺し合っている目の前の光景を、ぼくはただ見ているほかなかった。
ぼくはずっと、彼らの殺し合いを見ていた。目を離せずにいた。
それから彼らは、しばらくの間、互いを斬り合い続けた。
彼らが斬り合ってから、一瞬とも、あるいは永遠とも感じられる時間が流れた。
気づけば日が傾き始め、ぼくはこの空間に時間が流れていることを、その時はじめて知った。
パッと見では、彼らは延々と変わることなく戦い続けているようだったが、
お互いに人間離れした技術で応戦し続ける中で、少しずつだが、互いを傷つけ、
体力を削り合っているようにも見えた。双方とも手数が減ってきている。
斬り合い続けた時間が、突然止まる。夕陽が砂漠の丘に隠れ始めた頃だ。
互いに2本のナイフを構え、止まったまま。
ぼくは、もうこの戦いは終わるのだろうと思った。
無精髭の男が地面の砂を、女の顔めがけて蹴り撒く。
女はすかさず屈み、避けようとした。そこに男のナイフがアッパー気味に突き上がる。
それを女が受け流した直後、女のもう一本の腕に、男のもう一方のナイフが突き刺さった。
動じた様子の無い女は、自分の腕を刺した男の腕にもう一方のナイフを突き刺した。
次の瞬間、男が強く女に抱きつきながら、先ほどアッパー気味に突き上げたナイフを翻し、女の背中に突き立てた。
赤黒い血が、女の背中から流れ出る。
女はナイフの刺さった腕で、男に何とか一矢を報いてみせようとしたが、
男は女の腕に刺さったナイフで、さらに手先まで斬り裂いてみせ、そのまま男の腕にナイフを刺した腕を、ぐちゃぐちゃになるほど斬り裂いた。
女の両腕は、どちらも宙にぶらりと垂れ下がる肉片になった。
ぼくはあまりの凄惨な光景を、まともに直視できなかったが、女の顔をみると、
女は涙を流し、歯を食いしばりながらも、何故か笑っているように見えた。
男は、背中に突きつけたナイフをさらに奥に差し込み、女に止めを刺そうとした。
その時、男は女をぎゅっと強く抱きしめ、強くキスをした。とても力強いキスだった。
キスをしながらも、背中のナイフをさらに深く、深く男は刺し続けていた。
女の膝がぐんっと崩れ落ちる。
女が死んだことを、ぼくは悟った。
男は抱きしめた力を緩め、女の背中に刺したナイフを抜いた。
辺りの砂が赤黒く染まっている。男の体も赤黒い色に染まっていた。
男は女を、優しくその赤黒い砂の上に寝かせると、女に再びキスをした。
何度もキスをしていた。女はすでに死んでいるはずだった。
ほぼ陽が沈んで夜になった頃、男はぼくの方を見た。
「君は、どうしてそこにいる」
「…分かりません」
恐怖はあった。だが、恐いもの見たさで見ていたわけでも無かった。ただ、
「ただ、何故だか貴方たちに惹き付けられてしまっていました」
それは、ぼくの本心だった。
「そうか。ところで腹は減っていないか?」
そう言い、男は、自分の荷物の中にある毛布に女を包んで、抱き上げた。
「…腹、ですか?」
「そうだ。すっかり腹が減ってしまってな。もし良かったら、一緒に飯を食おう」
そう言って、抱き上げた女と一緒に彼は近くの家の中に入っていった。
ぼくは、彼に付いていくことにした。
家の中に入ると、男は血まみれの女をベッドに寝かせたまま、早速料理を始めていた。
家の中に血の匂いが充満して、ぼくは急に死の現実感とともに、気持ちが悪くなった。
ベッドの上のこの人は、もう死んでいるのだ。
腐臭が漂い、人が死んだ現実感が、ぼくの内臓をぎゅっと締め付ける心地がした。
気持ちの悪さと、そしてぼくも同じ目に合うのではないか、という恐怖がぼくを襲った。
「安心しなよ、俺はきみを襲ったりしない。それと、ここでは飯も食えないだろう?外で待っていて構わない」
彼はぼくの顔を見て、ぼくの考えていることを悟ったようだった。
ぼくは血まみれの彼の言葉に甘え、外で待つことにした。
「さ、よかったら食べてくれ」
男が家から出てぼくに差し出してきたのは、米と肉の炒め物だった。
香ばしい香りとともに、肉の旨味が料理に混ざり合うことで、シンプルながら食欲をそそられる。
少し気持ちが悪くなっていたが、なんとか食べることができた。
食べ始めたら、手が止まらなくなっていた。
「あんた、変な人だな」
男はぼくを見て、笑っていた。
「人の殺し合いをずっと見ていたかと思えば、その死体や、殺した人間の近くで飯を食える。そうそうそんな人間に出会っていない」
ぼく自身もそう思っていた。ぼくはこの現実を、簡単に受け入れすぎている。
「ぼくも、そう思います」
「まあ、ジイさんにもなるとそうなっちまうものかな」
そう言われ、自分が年寄りの姿になっていたことを思い出した。
ぼくは、いつになったら元の姿に戻れるのだろうか。それを不安がっていたが、鏡の無い世界では、いつからかあまり気にすることもなくなっていた。
「少しお聞きしたいのですが」
「おう、何だい」
「貴方とあの女性は、お知り合いなのですか?」
そう聞くと、男は料理を食べた手を止めた。
「ああ…いや知り合いというレベルでもないな。俺とアイツは、恋仲。正確にいえば、結婚相手だ」
冗談だと思った。
恋人で結婚相手なのに、殺し合う理由などどこにある。
「恋人や結婚相手が、その相手を殺すはずが無いでしょう?」
「あるのさ。俺たちにとっては、な」
そう言って彼は目を細め、どこを見るともなく地面を見つめた。
「俺たちは、互いに互いを殺し合いたがっていた。それが俺たちにとっての、唯一の愛情表現だったからだ」
「…意味が分かりません」
「ふむ…そうだろうな。俺たちはな、元の世界では人を殺しながら生きてきた人間だった。そのことを俺たちは、出会った頃から互いに気付いていた。同じ匂いがする人間だ、とな」
彼は再び料理を手に取り、食べながら話を続けた。
「だからこそ、俺たちは悟っていた。いずれはお互いを殺そうとするだろう、と。何故だか俺もアイツも、どうにも互いを殺したい魅力に惹かれていた。それは、あまりに酷な事実だったよ。真の愛情を伝えた時、相手か自分が死んでしまう。つまるところ、それは俺たちの愛の終わ理でもあるんだからな」
言いながら、男は料理を食べ終えた。近くの井戸で水を汲み、一口飲む。
「絶望を抱え続ける毎日だった。自分の第一欲求を抑え込み、どれだけアイツと身を重ねても、この空白は埋まらなかった。俺は、いやおそらく彼女も、ずっと頭がおかしくなりそうだった。その空白を、この世界は埋めてくれた」
「どういうことです?」
「この世界では、俺が彼女を何度殺しても、彼女はまた次の世界で生き返るのさ。逆に俺が彼女に殺されても、同じことが起こる。だから、俺たちはこの世界で何度でも殺し合える。愛し合えるんだ」
狂気の沙汰のようにも思える言葉を放っていたが、男が正気を失っているようには見えなかった。
「人が死んで…蘇る?」
「ああ。俺と彼女は、この世界に来れたことを心底感謝したよ」
「そんなこと、あるとは思えません」
「あるんだよ。実際に俺は、これまで何度も彼女に殺されてきた。そして何度も、彼女を殺してきた。そうして次の世界で俺たちはまた巡り会い、殺し合う。これほどの幸せは無い」
嬉しそうに話す男の顔は、とても落ち着いていた。狂った様子は微塵も感じられなかった。
「この世界で、人と巡り会うことはほとんど無いと、前に出会った人が言っていました。仮に死んだ彼女が生き返ったとして、次の世界で出会えない可能性もあるのでは無いですか?」
「いや、俺たちは必ず出会うんだ。これまでも、ずっとそうだった。これからも、それは変わらない」
話をしながら男は、胸のコートからナイフを1本取り出していた。
「たまに出会えた別の人間とも話をしようと思って、アンタに話をしたんだ。付き合ってくれてありがとうよ。だけど、やっぱり俺の渇きは埋まらないみたいだ。そろそろ俺は次の世界に向かうよ」
そう言ってすぐの出来事だった。男は、ナイフで自分の首を裂いた。
頚動脈が切れたのか、目の前で血がどくどくと溢れた。
男は血を吹き出しながら、穏やかに笑っていた。
ぼくが砂漠で最後に見た光景は、そこまでだった。