第3話 心
「出来ましたよ」
小太りの男がぼくに呼びかける。
男は大荷物の脇にぶら下がっていた2脚の小さな椅子と、火を焚く為の小さな台を置いて、台の上で小型鍋を使った料理をしていた。
空と水浸しの大地。それしかない世界で、モノを濡らさずに料理をするための道具を、男は全て持っていた。
ぐつぐつと、小さな鍋の上に野菜や肉や米がどろっと煮えている。香辛料も幾分か工夫しているのか、刺激的な匂いがあたりに立ち込め、食欲をそそられる。
思えば、ぼくはしばらく何も食べていなかったことを思い出した。
一度思い出すと、無性にお腹が減った。
「食べないのですか?」男が尋ねてきた。
「食べて良いのですか?」
「ええ、もちろん。私の好みに合わせて作ったので少々脂っこいですから、お口に合うかは分かりませんが」
そう言って男は笑った。食べます、とぼくは返した。
今のぼくの見た目を見て、年齢的なものを気にしているのかもしれなかった。
彼から見れば今のぼくは、倍以上は年上の人間に見えるだろう。
ぼく自身にとってもそれはそうだが。
男の置いた小さい椅子に座ろうとするが、水浸しで濡れた身体のままなことに気づき、さらに、体を拭くものも何も無いことに気が付いた。
ぼくは今更ながら気づいたが、いま、本当に何も持っていないのだった。
「濡れていても構いませんので。どうぞお座りください」
そう言って男はお椀に料理をすくい、箸と一緒に差し出してきた。
「ありがとう」
ぼくは濡れた身体で椅子に座り、湯気の立ち上るお椀と箸を、男から受け取った。
久々の食事にありつけることに、ぼくは感謝し、手を合わせてその気持ちを示した。
その時、皺々の両の手が目に入る。改めて自分の状況を思い出す。たしかに30歳のはずだったぼくは、突然、80歳前後の老人のような姿になっていた。
いつの間にか竹林にいたかと思うと、今度は空と水浸しの大地に転がっていた。
そして、たしかにぼくは30歳だった。そのはず、だったのだ。
全くこの状況を受け容れることは出来なかった。
それでも今は、思い出してしまった食欲に身を委ねたかった。
「いただきます」
湯気の立ち昇るピリッと辛い鍋料理を、一口食べる。
その一口で、ぼくの食欲は加速度的に増した。掻き込むように一気に食べる。
少し時間が経つと、身体の内側にじわあっと何かが沁み入るような感覚があって、
いつの間にか失っていたらしい元気を、ぼくは少しずつ取り戻してた。
『ああ、ぼくの身体の中は空っぽだったのだ』
料理を掻き込んでぼくはそう思った。
”空っぽ”だった自分の身体にどれだけ栄養を入れたところで、
ぼくが老人になってしまったことは、やはり変わることがなかったが、
そのことを深く考える余裕は無かった。無心になって、食べた。
「よく食べますね。作った人間として嬉しい限りですよ」
小太りの男はそう言って笑う。”屈託のない笑顔”というのは、きっとこんな顔だ。
「本当に美味しいです、ありがとう。何かで恩を返したいのですが、生憎、今ぼくの手元には何も無い」
「いえ、お構いなく。それよりお腹が空いているようでしたら、もう一杯どうです?」
そう言って男は微笑む。
ぼくは男の厚意に甘え、結局3杯も食べてしまった。
少し料理を食べてから落ち着くと、男はすっと立ち上がる。
「少し水汲みをしてきます。それに、魚も釣らなければ」
「魚?魚が釣れるのですか?」
あたり一面、地平線の果てまでずっと水浸しになっているのだが、見る限りどこも浅瀬で、食料になるようなサイズの魚がいる感じもしなかった。
「さっき少し歩いた先に、水の深い場所があったのを見ましてね。そこに大きめの魚が泳いでいたんですよ。あ、貴方はここにいてもらって大丈夫ですので」
「いえ、ここにいても何もありませんし。ぼくも行きましょう」
料理の分、何かを手伝えればと思った。
男は少し嬉しそうに「それであれば」とぼくの同行を認めた。
とはいえ実際のところ、ぼくにできることは、ほぼ無かった。
男の持っている折りたたみ式の釣竿は1本だけだったし、第一ぼくは釣りなんてしたこともなかった。
男が釣りをしている間、ぼくは男の持っていた空のボトルで水を汲んだり、男の喋り相手になるばかりだった。
それに、何処までいっても水浸しの大地であるから、少し動くだけで、水の波紋や音が広がってしまう。
そういった刺激が魚に伝わると、魚は人間の存在を察知して逃げてしまう。
なので魚に刺激を与えぬように、極力動くことが避けた。
水汲みを終えた後は、ほとんど突っ立っていたり、水に濡れるのを覚悟で座っていた。
立っていても靴の中に水が浸水するので、もう濡れるのには慣れ始めていた。
「すみません、本当に何も出来ず。お役に立てればと思いましたが」
堪らずぼくは言った。
「いやいや、私は嬉しいですよ」
「嬉しい?」
「ええ。この世界に来てからというもの、なかなか人に会わないもので」話しながらも、男は竿をくんっくんっと動かしている。魚を誘う動きらしい。
「貴方のように、たまに会う人と喋るだけでも、心が浮き立つような心地がするのです」
話し振りからして、男もぼくと同じように、”この世界”に迷い込んだ人間のように思えた。
不思議な光景だった。空と水と太陽以外、この世界には何も無いように見えた。
前後左右、そんな状態だった。
海の上にポツンと立っているような感じなのだが、実際は浅瀬の大地が水浸しになっているような状態で、水にはほとんど波風が立っていな買った。
静かすぎる光景。何処となくぼくは、この場所に神聖さを感じていた。
「ここは一体、何なのですか?」
ぼくは改めて、男に問うてみた。こんな光景、地球上どこを旅してもきっと見当たらない。
「先程も申し上げた通り、私にも分かりません。ただはっきりしていることがあります。まず、この世界は、1、2日程度でガラリと姿を変えます」
そう説明しながら、男は魚を釣り上げていた。
「その姿は、見たことあるような景色の時もあれば、自分が過去に生きてきた世界では、絶対に見ることは無いであろう特殊な景色の時もあります。こんな風にね」
釣り上げた魚の口をさっと指で挟んで掴み、水を入れた小箱にすっと離す。
手慣れた手つきだった。
「そしてもう一つ。世界が変わる時、人はその世界に、再び一人で生きて行くことになります」
再び小太りの男は釣針に餌をつけ、竿を振る。先ほどからうまく同じ場所に餌を落としていた。
どうやら魚がそのポイントには多くいるらしい。
「再び、一人で生きて行く?」少々言葉の意味が掴めなかった。
「ええ、そうです。原理は分かりませんが、偶然にも誰かとこの世界で巡り会い一緒に行動をしていたしても、世界の姿が変わる時、それまで一緒に居た人は、必ずどこかに消えてしまうのです。過去に私は何度か、貴方のように彷徨う人々と出会うことがありました。その人たちと話をしたりしていれば寂しさも紛れましたが、世界が変わると、その人たちは消えてしまいました。何度もそういった事はありましたが、必ずそうなのです」
そう言うと、少しだけ男は目を細めた。
「寂しさはあります。けれど一方で、慣れると悪くもないものです」
男は笑ってそう言った。
「この世界に来るまで、貴方はどちらに居たのですか?」
「実は、もう過去のことが私には分かりません。私だけではなく、これまで会った人間の誰一人として、過去の記憶を正確に持っているものはいませんでした。貴方もそうではないですか?」
この男の言う通りだった。ぼくもこの世界にくる以前のことが、ほとんど思い出せないのだった。
時間が経つごとに、記憶はいっそう曖昧になっていって、家族も彼女も、帰る家さえも、ぼくには元々ないのでは無かったか?という風に思えてきたのだ。
「そうかも知れません」ぼくはそう返した。
「でも、それも悪くないのかも知れないなと、最近は思ってきましてね」小太りの男はそう言って、ふっと笑いながら続ける。
「こうして、此処で確かに生きている。それも目の前には、こんな見たこともない景色が広がっている。記憶は曖昧で薄れていますが、なんとなく分かるのはこんな景色には今まで一度も巡り合わなかっただろう、ということです」
男の顔はあまりに不思議で、希望にも絶望にも、諦めにも慣れにも見える顔をしていた。
「人には会えなくなりました。記憶も曖昧になりました。でも、それが悪いこととは思えなくなっていたのです。不思議なものですがね」
男の釣竿にピクッと反応があり、再び彼は竿を勢いよく引き上げる。
釣り針に食いついた魚を掴むと、ペットに話しかける飼い主のように、男は嬉しそうに話しかけていた。
ぼくはなぜだか、どうしても男の言葉や表情に、心を掻き乱された。
「貴方の大切な人たちは、今どうしているのでしょうか?」
ついぼくは、意地悪くもそんなことを聞いてしまった。個人の領域に、ずかずかと踏み込む質問だと思った。
ぼくはまだ、家族や彼女たちがどうしているか、まだ不安に思っていたからだ。
男も同じように、そんな不安を抱えているかもしれないと、そう思ったからだ。
男は少しの間を置いてから、笑いながら言った。
「さて、どうなのでしょうね。『だれか私にも大切な人がいた』ということも忘れてしまいました」
そこそこのサイズの魚を、7,8匹ほど釣り上げた。
それを何とか2つの小箱に詰めて、「大漁大漁」と嬉しそうに男は持ち帰った。
ぼくも一箱持ちながら、さっき男と食事をした場所に帰り始めた。
帰り道、水と空しか見えない世界の太陽が傾くと、ぼくはふっと足を止めた。
水面を煌びやかなオレンジ色が反射している。静かな水面を、見渡す限り一面、オレンジ色の輝きが反射して煌めいていた。
何にも例えられない。
圧倒的な光景に、ぼくはただ飲まれていた。
気づくと男も夕陽の方を見て足を止めていて、しばらくそこに留まった。
その光景を前に、ぼくもこの男のように、”この世界”を受け入れる日が来るかもしれない。
ぼくはそう思えてしまった。
そうして昼間に料理を食べた場所に戻ると、置いたままにしておいた小椅子に、
ぼくら以外の誰かが座っていた。
これには、ぼくも小太りの男も驚いた。
「おう、おかえり」
ぼくはその男に、どうやら見覚えがあった。
小椅子には、竹林で出会ったあの少年が座っていた。