第2話 顔
明かりが何処にもない夜の暗闇は、こわい。生まれてこの方、こんな暗いところに来たことはなく、ぼくはそれを初めて知った。
実際に体感してみないと分からないことが、どうやら人間にはある。
少しばかりの恐怖がずっと、ぼくにまとわりつく。そのせいか、少し足も震えていた。
何処まで行っても、暗闇。
何処まで行っても、鬱蒼とした竹林。
「いつまでも何処へも辿り着けない」という状況が、ぼくの心の奥底を、ぎゅうっと握り潰そうとしていた。
不幸中の幸いか、月の明かりだけが、少しだけ辺りを照らす。それでも視界はいつまでも夜に慣れなかった。時折空を見上げた時に、そこに月があるということだけが、少しだけぼくを救った。
もういっそ足を止めて、ここで眠ってしまおうかと何度も思った。
けれど、いちど足を止めたが最後、「もう本当に、何処にもたどり着けないのではないか」という不安と恐怖が、ぼくの身体をいよいよ縛り付けようとする。
ぼくはその感情を振り払おうと、なし崩し的に歩き続けていた。
うつらうつら、眠気と恐怖と疲労感にまどろむ。
まどろみのなかで、どこからか香ばしい匂いを感じた。なんだか懐かしいような、あたたかい感覚。その匂いに触れてぼくは、少し安堵の気持ちを取り戻した。
匂いのするところに向かおうとする。足が動かない。何故か足が持ち上がらず、前に進めやしない。
自分がうつぶせに倒れていることに、その時、ようやく気づいた。懐かしい匂いも、まるでそこには何もなかったように、何処かへ消えていった。
金縛りにあったような恐怖感。ついにぼくを、この場所に縛り付けられてしまった。しかしどれだけ強く「起きなきゃ」と思っても、指先一つも動かせやしなかった。辛うじて目を開いているが、目の前には竹の根っこが何本も何本も重なって塞がれていて、もうぼくの視界には道なんて見えなかった。
「本当にぼくは、もうここから何処へも行けない」そう思った。
そうしてしばらくすると、もう何か考えたり恐れたりするのも面倒になってきて、ようやくぼくは目を閉じた。
目を閉じると、急に意識が遠のいて行く。
昼間に会った、少年。
彼は一体、何者だったのだろう。
そう言えばぼくは、この場所に来てからというもの、彼以外に、誰とも会っていない。
いつの間にかふっと消えた彼は、実は幻だったかもしれない。
そう思うと、もしかするとこの世界にはぼくしか居ないのかもしれない、などと思えて来た。
『その”居場所”ってやつに帰れると良いな』
昼間、彼に言われた言葉。
どうしてか、ぼくはそれを今強く思い出した。
ぼくの居場所。ぼくの帰る場所。ぼくの家族。ぼくの彼女。ぼくの友達。
帰る場所…ぼくの?家族?彼女?友達…ぼくの、カゾク?
カゾク?カノジョ?
イバショ?ユウジン?トモダチ?
カエルトコロ?ソレハナニ?ダレ?ドコニアルノ?
イッタイ、ソレハナンナノ?
バシャバシャ。水面を歩くような音。
瞼の裏が、明るい。朝が来ているらしかった。
冷たい。髪も顔も、手も脚も。身体中が冷たい。
どうやら身体がすこし濡れているらしい。
そう思った途端、ぼくは一気に跳ね上がった。
目を疑った。
見渡す限り一面、いつの間にか水浸しになっていた。
そして何よりあの鬱蒼とした竹が、一本も無い。
いや、もう竹どころではない。
地平線の先まで、水浸しの大地と空しかない。
「ああ、目が覚めましたか」
突然後ろから声がして、ビクッとぼくは振り返る。
そこには、背中に大荷物を背負った、人当たりの良さそうな小太りの男が立っていた。
「もう死んでいるのかと思いましたよ。良かったあ」
そう言ってホッと肩をなで下ろした男に、ぼくは掴みかかる。
「一体どういう事なんだ」
「ちょ、ちょっと、なんだって言うんです」男はいきなり胸ぐらを掴まれ、狼狽する。
「一体全体、何が起きているんだってって聞いているんだ」
異常な状況。頭も心も体もまるで追いつかない。
目が覚めるまで、ぼくは確かに竹林にいた。
何処まで行っても竹しかなかった。
竹しかなかった、はずなのだ。
どう考えても、こんなところにぼくは居なかった。
「あああ、貴方、この場所が初めて、なんですね?なるほど分かりました。分かりましたから、て、手を離してください」
男の懇願する声に、少し冷静さを取り戻す。
どう考えても、この男が『何かをした』筈もない。
「すまない」と言ってぼくは、すっと手を離した。
ふっと一息ついて、心を落ち着かせようとする。
「まあ正直なところ、ここがどういう世界なのか、私も分かっちゃいません」
少し咳き込みながら、ぐちゃっと折れ曲がった襟を、男は丁寧に直す。
「ただ私にわかることはですね、この世界は一日や二日で急に姿を変えるってこと。それだけです」
男の言葉に納得できるはずも無かった。
「言っていることがまるで理解できない」
「そんなの私も同じですよ。でも、受け入れるしかありません」
そう言って男は、背中からボトルを取り出して、水浸しの大地からこぽこぽと汲み上げた。
「とりあえずこの水でも飲んで、落ち着いてください。顔を洗ったりするのも、良いかもしれません」
差し出されたボトルを飲むのはどうも気が引けて、ぼくはそれを手で制し、まずは顔を洗おうとした。
そこでぼくは、喉が裂けるかというほど叫んだ。
「ど、どうしたんですか」
そう言って、小太りの男が駆け寄ってくる。ぼくは水面に映る、自分の顔を見ているはずだった。
「コレは一体、何だ?」
水面には皺だらけで、白髪ばかりの老人の顔が映っていた。
ぼくは今年、30歳になる筈だった。