第1話 居場所
「竹林だ。」
目の前に、鬱蒼と竹林が広がっている。竹はどれもとにかく背が高く辺り一帯に密集していて、真上を見上げないと、そこに空が確かにある、ということも分からない。
ぼくはたしかに、此処にはいなかったはずだった。けれど、ぼくはこの状況を少しも疑問に思うことなく、「目の前に竹林があり、ぼくはここにいる」という事実を、何故かすんなりと受け入れた。
ただ「ではぼくは、それまで何処にいたのか?」と自分に問うてみても、それに答えることは、なぜか出来なかった。どうも、記憶がごちゃついている。
目の前の、太い竹に触れる。
その滑らかな曲線を、下から上に優しく沿うようにすうっと、撫でる。ぼくはなんだか、とても気持ち良いと思った。ぼくは二回三回とそれを繰り返した。そうしていると、何だか心が落ち着いた。ぼくは何度も、繰り返し繰り返し、竹のつるっとした肌を撫でた。
すうっ。すうっ。すうっ。
「へええ、きみは"ちくりん"て言うんだねえ。」
びくり、とぼくは飛び跳ねた。ぼく以外にこの場には、たしかに誰もいないはずだった。たしかにそのはずだったのだ。
目の前の竹の隙間を覗き込む。後ろを振り返る。左右を見回す。やはり、そこに人の姿はない。
「ぼくは"たけばやし"と呼ぶけどね、『竹林』のこと。」
声の在り処に気づいて上を見上げると、そこには少年がいた。一際背の高い竹の上に直立で佇み、にやりとこちらを笑って見下ろしている。
彼が立っている竹の先端は、とても尖った形状をしていて、彼はどうやってそこに悠々と立っていられるのだろう、とぼくは不思議に思った。
「"たけばやし"...ぼくの彼女も、同じようなことを言っていたかも」
ぼくは冷静を取り戻すためにも、少し落ち着いて言葉を繰り出した。その言葉が、何だかとても間の抜けた言葉だった。
「ふうん。キミの彼女は、何だかぼくと気が合うのかもしれないね」
「うん...彼女?」
ぼくの奥の方で、何かが引っかかる。
「うん、キミの彼女。」
「...うん、そうかもしれない。」
そう言いながらぼくは少しだけ、何かが少しだけおかしいような気がした。
何がおかしいのだろう。ぼくは少し考えてみた。
「キミ、いま何かを疑ったねえ?あるいは不安を感じた。いや、両方かな」
ぼくは、むっと顔をしかめた。自分のことを知らない人間に分かったような顔で話されるのは、少しいらっとする。
「別に何も思っちゃいない。それよりも君のその態度、初対面の相手を前にした態度とは思えないな」
「そうかな、何かおかしいかい」
「なんというか、失礼さ」
「ふむ、そうかね。気に障ったのなら失礼した。あまり他人がどう思うか、なんてことを考えてモノを言う人間ではなくてね」
うん、やはりこの少年は失礼なやつだ。12,3才程度のガキのクセに、偉そうに大人のような口調で淡々と話してきて、何だか感に触る部分があった。けれど、ここでムキになるのはもっと大人気ないとぼくは分かっていて、努めて冷静に、ぼくはこの子どもに『話をしてやる』ことにした。
「何にせよ、ぼくはここを離れなくちゃならない。そのためには、きみが知ってることがあるなら教えてほしい。」
「ふむ、ここを離れる、か。それも良いだろう。ちなみに、ここを離れてきみはどうするのだい?」
「どうするって、何故そんなことを聞くのさ」
「いや、特に意味はないよ。けれど、気になるじゃないか。こんなに立派な竹に囲まれて生きるのも、素敵だとぼくは思うのだけれど、それでもキミはここを離れるというのだから。それ相応の理由があるのだろう、と思ったのさ」
少年はそう言っているが、正直ぼくは、この竹林になんて、全く興味を惹かれちゃいなかった。
けれどこの少年が心の底からそう思っていそうだ、というのが伝わったから、それを否定するのも悪いな、と思った。
「まあ、たしかにここで暮らすのも悪くないかもしれないね」
これはぼくなりの優しさだ。
「でも、ぼくはここを離れないといけない」
「何でさ?」
「だって、ここはぼくの居場所じゃない」
そう言うと、彼は少しキョトンとして、ぼくの顔をジロリと覗き込むようにみて、少し笑った。
「キミの居場所か、なるほどね。ちなみに聞きたいんだけど、それは何処?」
彼は聞く。
何故だか分からないが、ぼくはまた少し腹が立ってきた。
「ぼくの居場所は、いくらでもあるさ」
「だから、それはどこなんだい?」
「どこって...どこにでも、誰にでもあるだろう」
「そうじゃなくてさ、もっと具体的な場所があるだろう?」
ぼくは少し考えた。
「例えばぼくの家、故郷、会社、それに彼女のところ。他にも沢山あるさ。ここに、そんなぼくの居場所は無いだろう?」
何を当たり前のことを聞くのか。ぼくはさっぱり分からなかった。
「ふむ、なるほど。なるほど」少年は静かに呟く。
「キミ、面白いね。その"居場所"ってやつに帰れると良いな」
気がつくと、少年は何処かに消えてしまった。