延長 〇.五
いつもなら、わざわざ待たずともやって来るものだと思っているのだけれど、これは「ぼく」が非日常であったためで、本来はこういう授業の無い日を「休日」というのだろう。
待ちに待った休日。学生にとって心安らかな憩いの日。
「そもそも時間は、万物平等に与えられるものだから、待たずともやって来るのには間違い無いけどね」
それでも目覚めたら、時計が午後二時を指していた事実には衝撃を隠せなかった。昨晩最後に時計を見た時は確か午後十一時だったので、合計睡眠時間は約十五時間。しかも、途中目覚めたりしていないので、その十五時間「ぼく」は熟睡していた事になる。眠り姫でもない限り、なかなか突破出来ない記録だと思う。
ところで何故未だ「ぼく」が自身を「ぼく」と称し続けているのか、何故今日が延長日なのかというと、
「みっくーん、起きてるー? 流石に起きてるよね?」
部屋の外で叫ぶ少女の声。普段この部屋に来訪してくる人はまずいないので、声の主はいうまでもなく彼女だろう。ぼくは、敢えて無言を貫き通してみた。
「みっくーん、起きてるんでしょー?」
「……」
「みっくーん?」
「……」
「え、みっくん? もしかして……まだ寝てるの!?」
「……」
「ちょっとみっくん、返事くらいしてよ! まさか本当に寝てるの!? 眠り姫もびっくりだよ!? じゃあ王子様が起こしに行かなきゃ……って、私はみっくんの『彼女』なんだから、起こしに来てくれるのは、寧ろみっくんの方なんですけど! ねえ、みっくん嫌だよ! 一人にしないで!」
「人を勝手に殺すなし」
「わあっ、みっくん!?」
これ以上居留守を使っていたら本気で通報されかねないし、無言でいる間に身支度も済ませたので、漸くぼくはドアを開けて彼女と対面する。休日なのに制服姿だった百子ちゃんは、軽くベソをかいていたが、ぼくの顔を見れば一瞬にして笑顔を取り戻し、涙なんて最初から無かったかのように乾き切った。それくらい暑く、日差しが強い。星のヘアピンがいつにも増してキラリと光り、少し眩しかった。
「もう無視しないでよー、何か事件に巻き込まれちゃったのかと思ったじゃない」
笑っているが、目は本気だ。どうやら予想は的中していたらしい。その後、頬を膨らませてぼくの懐をぽこぽこ叩いてきて(そんなに痛くない)、ふぃとわざとらしく視線を逸らす。
「ごめんごめん、ちょっと支度してたんだよ。どうせ君の事だから、どこかに連れ出されるんだろうと思ってね」
気をなだめさせようと、彼女の頭を撫でてやる。すると、彼女は「エヘヘ」と戯れた声を零しながら、ぼくの手に沿って頭を揺らしてきた。猫か君は。
ぼくが、ぼくで居続ける理由。今日が延長〇.五日である理由。
言うまでない。彼女に流されたためである。確かに授業は昨日で終わったが、それは学校行事が完結したというわけではない。考査があり、考査が終われば長期休暇があり、それが終わって初めて学期が変わる。彼女は「テスト終わるまでが、今学期!」なんてこじつけで、ぼくにもう暫く「ぼく」のままで居てくれと頼んだのだった。
特に断る理由も無かったし、確かに授業は終わったかもしれないが、学校で彼女に会う日が終わったわけではないのだから、ひとまず長期休暇が始まるまでの間、ぼくはその延長線に乗っかる事にしたのだった。
そして今日は既に一日の半分が過ぎている。というわけで、一日ではなく、〇.五日。別にそこまでこだわらなくていいのだが。
「それで百子ちゃん、今日はどこに連れて行く方針なんですか?」
「うーん、実はあんまり考えてないんだよね。テスト前日だから勉強会でもしようかなーと思ったけど、私は午前中に学校で自習して疲れちゃったし、その様子じゃみっくん、勉強する気ゼロでしょ」
「お褒めに預かり光栄の至りだよ」
「それ今使う時じゃないよ。褒めてないし」
じゃあ貶されたのか。遠回しに酷い事を言う奴だ。反論する気は無いし、寧ろ正論だと思うけれど。
「で、何の話だっけ」
「数分前の会話内容まで忘れないでよ!? とりあえず、何処かゆっくり出来る場所に行こっか」
「ああ、うん、そうだね」
こうして向かった先は、如何にも彼女が好きそうな、甘ったるい香りの広がるドーナツ屋だった。正確にはヨーロッパ中心の焼き菓子専門店で、休日のみ開店というちょっと変わったお店だった。趣味と思われるガーデニングや、大きな絵画、各国の伝統的なカップのコレクションなどが展示されている。女の子の心をくすぐりそう、百子ちゃんが気に入ってそうなお洒落なお店だ。
で、ぼくが最初にドーナツ屋と称したのは、
「ここのオリジナルドーナツが、凄く美味しいの!」
そんな彼女の勧めで、ぼく達はベルギーのオリーボーレンやフランスのクグロフ、ポルトガルのブフテルンといった聞き慣れない名前の焼き菓子を他所に、敢えて王道なドーナツを食しているからだ。強いて言えば、その中にマラサダというポルトガルの焼き菓子も食べているが、これは確か有名なドーナツチェーン店でも食べれた気がする。
「天使のドーナツだっけ」
「天使みたいにふわふわで美味しい〜」
彼女はすっかり、ぼくの独り言をあしらう技を覚えたようだ。磨きをかけてきたな、百子ちゃん。
しかし、確かに美味しい。ぼくはこの店自慢のオールドファッションとクロワッサンドーナツのクリームブデュレ、あと豆腐ドーナツを彼女と半分にして食べた。一方の彼女は、マラサダとイチゴと練乳がたっぷりかかったベリーエンジェル・アモーレ(期間限定らしい)、そしてぼくと半分こした豆腐ドーナツ、さらに生クリームたっぷりのシュードーナツを現在ご機嫌に頬張っている。
「前から思ってたんだけど」
「んきゅ?」
「百子ちゃんって、かなりの甘党だよね」
そしていちごミルクが大好きなようだ。ドーナツにしても食堂での飲み物にしても、しばしば見られる紅白の組み合わせ。どちらも甘々としていて、よく毎日口に出来るなと感心していた。だし巻き卵もほんのり甘かったし(美味しかった)。
百子ちゃんは、少し恥ずかしそうに大きなシュードーナツで顔を隠そうと試みる。しかし、どんどん口の中へと吸い込まれていくので、徐々に隠せる部分も減ってきた。室温が少し高いのもあって、頬がピンクに染まっていた。
「可愛い」
「そんな事無いもん……!」
ピンクの頬に映えて、口元に付いている白いクリームが目立つ。恐らく今食べてるシュードーナツの物だろう。ぼくは、悪戯っぽく笑った。
「百子ちゃん、クリーム付いてる」
「えっ、うそん! 気をつけてたのにー」
「拭いてあげるよ」
「え、いいよ……」
「拭いてあげる」
「うぅ……はい」
完全な仕返し。この前、彼女がぼくのご飯粒を取ってくれたから、今回はぼくが彼女のクリームを拭いてあげる。本人は思い出したかますます赤面して、「……みっくんのバーカ」と小声で訴えた。果てさて馬鹿はどっちだか。
散々甘いものを食べた締めに、百子ちゃんはカフェラテを、ぼくはコーヒーを注文して一服する。すると百子ちゃんがふと、真面目な顔をして尋ねてきた。
「みっくんって、将来の夢とかあるの?」
「また随分と唐突な……ぼくに夢があると思うかい?」
「あると思う」
ふむ、彼女は一体ぼくの何処を見てそう確信したのか、逆に訊いてみたいところだ。残念ながらぼくには、彼女が思う程のものを内に秘めていない。というより空っぽに近い。
「ぼくは、ただ毎日がダラダラと過ぎて、草舟の如く流されて、いつか水路の途中でポチャンと水没して、終わる人生を夢見ているよ」
「久しぶりにネガティブなみっくんだね。草舟か……うん、それもそれで一つの生き方よねー」
何故か受け入れ姿勢な百子ちゃん。ぼくとは対照的な彼女のポジティブぶりは、しばしば驚かしてくれる。しかし、どうしてここに来てそんな先の話をしてきたのだろう。ぼくは訊かれたからには訊き返すのが礼儀と思い、コーヒーを飲みながら彼女に尋ねてみた。まだ少し熱い。
「百子ちゃんには、夢があるの?」
「うーん、それがね……あるようでまだ無いの。どうしたのかなー」
「どうしたのかなーって訊かれてもね。でも、わざわざ考える必要は無いんじゃないかな。どうせ夢を持って、それに合わせて進学しても、思ってた道に行けなかったり、大学というあまりの自由さに翻弄されて、結局時間を無駄に過ごす―――なんて事もあり得るし、そっちの方が、かえって夢が無いよりも辛いと思う。最も、ぼくは夢とか先の事に全く興味無いんだけどさ」
「え……」
「ん、どうしたんだい? ぼくはただ、興味が無いと言ったんだよ。やりたい事も将来の夢も無いし、そもそもぼくは、そういうのを考える事自体に興味が無い。ただ流されて勝手に沈み落ちるだけだ」
極端な話、どうでもいいのだ。他人も、社会も、世界も、ぼく自身さえも、何が一体どうなろうと構わない。例えぼくが、生きていようが死のうが興味は無く、ただ流され生きて、流され死んで、そのまま思考が止まってしまっても、一連全ては「無関心」の一言で容易に納まる。
「けどね百子ちゃん、君はさっきぼくの事をネガティブだって言ったけど、この無関心は一概にそうとも言えないんだよ。未来や夢に興味が無いとはつまり、先が見えない事に対する恐怖心すら無いという事なんだ。無関心は時に強靭な刃と化す。まさに知らぬが仏さ」
「知らぬが仏?」
「無知程恐ろしく強いものは無いって事だよ。あのことわざ、結構好きなんだ。特に無知を『仏』っていう、いかにも強そうなものに例えてるところが。一番恐れず冷静安定にしていられる人は、無知な人の他にいないと思う。そして、これの格下が無関心だ。知っているけど興味が無い。故に恐れる必要が無い。だから冷静にいられる。少なくとも、夢に対して何かしらの思いを馳せてる君と比べたらね」
こんなに喋るぼくは珍しいな。どうやら彼女も同じ事を考えていたらしく、口に含んでいたカフェラテを一気に飲みこみ、女の子らしくない、ゴクリという音を立てていた。
「ま、ただの現実逃避なんだけどね」
「うわぁ、捻くれてるなぁー。けどその場合、現実というより未来逃避かもね」
「確かに。でも結局は明日のテストに対しての逃避だろうから、近未来逃避かな」
「語呂が悪いね」
「イグザクトリィ」
何で英語なのよーと、百子ちゃんはまたいつもの笑顔に戻った。コーヒーもちょうど良い具合に冷めてきたので、ぼくは渇いた喉を潤そうと勢いよくコーヒーを飲む。が、たくさん飲むと思っていた以上に苦みが増して、ぼくは軽く噎せてしまった。どこまでもかっこ悪いなと思った。恥ずかしい。
未来を夢見る眩しい彼女の前で、こんなドス黒いものを見せて、ますます恥ずかしい。
今日は午後からの外出だったので、おやつ(ぼくにとっては本日最初の食事)を食べ終えた頃には、西日が射し込んできていた。短かったものの、何だか濃かったぼくの半日。夕日に照らされる彼女を見るのが、だんだん至福の時となりつつある。
「じゃあみっくん、明日からはテストだけど、お互い頑張ろうね!」
「ありがとう、百子ちゃん。君の努力に応えれるよう、教わった所くらいは点取ってくるよ」
「オッケー、期待してる!」
「いや、期待しないで。何のために、予め言ったと思うんだ」
えー、と口をへの字に曲げてそっぽを向く。振り返る際、彼女のヘアピンがキラキラと輝いた。見慣れた光景だけど、本人には分からない、ぼくだけの特別な瞬間だ。
「卵を割る時と似てるんだよね」
「ええっ!? 私は卵と一緒なの!? 酷〜い!」
「ごめんごめん、冗談だって。ただの独り言さ」
今回はあしらってくれないんだな。仕方なく、彼女の頭を撫でてやる。また「エヘヘ」と猫撫で声を出しながら喜ぶ百子ちゃん。相変わらず単純で純粋。分かりやすい子だ。
しかし今日は、複雑な一面も垣間見えた。夢というあまりに抽象的で不安定なものに対し、せめて輪郭だけでも捉えようと必死に空を掻く姿———いつものように夕陽に照らされ消えていく彼女の後ろ姿が、今日は何だか切なく感じる。部屋に戻って眠りにつくまで、ぼくは明日のテストの事よりも、彼女の事で頭がいっぱいだった。