四
本日は考査二日前、土曜の午前六時(うちの学校は、土曜日も通常通り授業がある)。昨夜は敢えて目覚まし時計を付けなかった。あれにも時には休暇を与えないと。
そして何より……
「来ちゃった!」
「うん」
目覚まし時計代わりのおはようコールを鳴らしに、いつも通り百子ちゃんがやって来るのだから、今は必要無いだろう。
と言うわけで、現在ぼくの隣にはフリル付のエプロンを着た百子ちゃんが、持参した四角いフライパンで「だし巻き卵」を作っている。うさぎが描かれた可愛らしいフライパンなのに、それを簡易コンロの上に置いた瞬間、非常にシュールな光景へと変換されてしまったので、これを機に、ぼくはコンロを買い直そうかと思った。お金無いけど。
「この部屋、設備が不十分だから、家主さんが無償で提供しても良いと思うな……」
「こういう環境だからこそ、驚く程家賃が安いんだよ」
その家賃すら、ぼくは親から仕送ってもらっているのだが。ここ数日間でぼくのありとあらゆる面を知り尽くしてきている彼女だ。それぐらい、伝えなくとも既に分かっているだろう。
だし巻き卵が出来上がると、
「冷凍庫から昨日買った分出して〜」
「はーい」
ぼくは言われるがまま、冷凍庫から冷え固まった食材の袋を取り出す。同時に百子ちゃんも、鞄からタッパーを用意した。中には予め刻まれたほうれん草や花型人参といった弁当箱を彩るための野菜が、綺麗に袋詰めされている。流石百子ちゃん、準備が良い。
油をひき、刻まれた食材に醤油を始めとする様々な調味料(一部百子ちゃん持参)を絡め、菜箸やフライパンそのものを動かし、軽く炒める。ぼくは、その手際の良さを隣で傍観し、時々彼女に指示されたものを手渡したり、洗い物を済ませたりした。
「何だか親子みたいだねー」
「そうなのか」
ならこれは、幼少期によくやる家族ごっこか。ぼくはやった事がないけれど、あるいはやった覚えがないけれど。
「私は小さい時、よくお母さんに頼まれたなー。一分以内にご飯をお茶碗によそってテーブルに置きなさい、とか」
「せっかちなお母さんだ」
「時間を大事にするお母さんなんですー」
なるほど、手際の良さは母親譲りか。そして彼女は心から両親を大切にする良い子だ。見習いたい。見習おう。
ところで彼女はぼくの家庭事情を知っているが、ぼくは彼女の家庭事情をあまり知らない。会話を挟むのに特に支障が無いようなので、ぼくは何となく彼女の内実について訊いてみた。
「百子ちゃん、家ではどんな事してるの?」
「んー至って普通だよー? お弁当作って学校行って、今は帰ったらテスト勉強して……と言いつつサボりがちだけど」
最後の台詞は、学生のお約束として捨て置こう。
「ご両親は?」
「共働きだよ。でもお母さんは内職だから、いつも家事とかご飯作ってくれるの。お父さんが、時々早めに帰ってきたら家族皆で外食って感じかな」
なるほど、彼女は一人っ子で、なかなか豊かな家庭で暮らしているらしい。彼女自身も、この生活に然程支障を抱いている様ではなかった。
「よかった」
何となくそう言った。だがこの独り言は、油が弾けるノイズによって掻き消されたため、彼女の耳には入らなかった。ぼくは、また彼女の手伝いに集中する。
本当に百子ちゃんは手際が良くて、弁当箱にご飯や具材を詰め、保冷剤と一緒に布に包み終えた時、ちょうど彼女の携帯のアラームが午前七時を知らせる音を鳴らした。
「よし!ちゃんと時間内に出来たー!」
「ありがとう」
「いえいえ、自分以外の人にお弁当作るの楽しかったし、その相手がみっくんだから尚更嬉しいよ!」
お粗末様でした、とエプロンを外しながら満面の笑みで応える百子ちゃん。最近、彼女の笑顔が目につくような気がする。
こうして長い朝を過ごし(時間は万物平等なのでただの勘違いだが)、今学期最後の授業に挑む。先日言っていた彼女の読み通り、今日は五時限のうち四時限が自習という考査前の学生にとって有難い話が舞い込んできた。ぼくはそれらの時間を全て、予習(彼女は復習)にあてた。ほとんど記憶に残らなかった。
「みっくんって忘れっぽいの?」
自習中、彼女がシャーペンを回しながら尋ねてきた。
「忘れっぽいのか忘れるくらいの勿忘草」
「えー何それー」
適当に答えたのだが、百子ちゃんにとって面白かったらしく、ケラケラ笑った。この時の笑顔は、女子高生らしい砕けた笑い方だ。
どうやら百子ちゃんは、周囲に人がいる時と二人きりの時で笑い方を使い分けてるらしかった。どうしてそんなに器用な事が出来るのか、いつからそんな技術を身につけたのか、彼女に作ってもらった弁当を味わいながら、何となしに訊いてみたが、彼女は
「恋の力だったりして」と適当な答えを返すばかりだった。恋人ごっこだと言うのに。
「何だか納得いかないな……」
だし巻き卵は美味しかったけど、それ以外の食品は少し味気なかった気がする。
そして夕方。最後の足掻きと言って、百子ちゃんに散々知識を植え付けられたぼくは、久しぶりに勉強するとはどういう事なのか、身をもって理解した。
「しんど……」
「仕方ないよ。だって考査は明後日だもん!」
「今日が終われば翌日か」
大きな溜息を吐くと、何故か百子ちゃんはぼくの頬を人差し指でつついてきた。
「ん?」
「よかった」
「何が?」
「みっくんが学生らしい溜息吐いて」
意味が分からない。一応ではあるものの、ぼくは今も昔も学生だ―――と言い切れる程、まともに通った記憶が無いので、ぼくはただ「そっか」とあっさり彼女の言葉を流した。
「明日は休みか」
「流石に連日で早起きして疲れたでしょ?今夜はゆっくりお休みしよ」
「そうだね」
「……迷惑だった?」
「え?」
あまりに唐突だったので、ぼくは思わず聞き返す。彼女を見るといつもの笑顔は無く、どこか切なげな、やるせない雰囲気が伺えた。
「どうしたの、らしくない」
いや、らしくないのは、ぼくの方か。学校に何となく通ったのをきっかけに、彼女と偶然再会して話したのをきっかけに、ぼくは彼女の恋人になりきり、学校にちゃんと出席したり、ご飯を食べたり、あらゆる事において非日常を味わっていた。今もこうして誰かと一緒に帰る、という非日常を味わっている。
けど、これはどうやら世の日常らしかった。百子ちゃんは、ぼくに「ぼく」となって欲しいと願った代わりに、日常とは何なのかを教えてくれた。本来の日常から外れ、それが慣例化していたぼくを、あるべきレーンに軌道修正させてくれた。だからぼくは、考査前という倦怠感から、彼女の言う「学生らしい」溜息を吐けるようになったのだろう。ぼくを学生らしい学生に戻してくれたのは、他ならぬ彼女だ。
そんな彼女が今、迷惑だったか尋ねてきた。彼女がぼくを、ぼくだった頃のレーンに戻そうか迷っている。明らか大袈裟だとは分かっているが、他人に対してはこれくらい大胆に考えて行動せねば、自身の思いは伝わらない。これもまた、草舟なぼくを操った彼女から学んだ教訓なのだ。
だからぼくは、言わなきゃならない。
「違うよ」
彼女はふと、こちらを向いた。夕陽によって星のヘアピンが黄金色に輝く。けど、その中に彼女のあの煌びやかとした笑顔はない。
それは嫌だ。
「ぼくは君に会えて、よかった。再び会えて、本当によかった。心からそう思ってる」
あんなに色々思索したのに、いざ出てきた言葉はあまりにも薄っぺらかった。けれど、ここからさらに言葉を重ねたら、寧ろ嘘臭くなる。最初の一声が肝心なのに、分かっていたのに、ぼくはそれよりも先に、自身の思いと実際の行動が常に齟齬する事を理解すべきだった。
「ごめん」
ただ謝って、彼女の方を振り向くと―――
百子ちゃんは泣いていた。それも今まで以上に輝かしい笑顔で。トレードマークである星のヘアピンがくすんでしまうくらい、彼女の目には沢山の涙が溢れていた。
この時、ぼくがどう反応したのか分からない。ぼくの反応を見て、彼女がどう思ったのかも分からない。けど代わりに分かったのは、ぼくの腕の中で、百子ちゃんが泣きじゃくりながらも顔を埋めて、息絶え絶えに「ありがとう」と言ってくれた事だった。
今日は、今学期最後の授業日、今学期最後の勉強会、今学期最後の食堂での昼食、今学期最後のお弁当、今学期最後の夕陽、今学期最後の早朝———
そして、今学期最後の恋人ごっこだった。