三
三日目と言うより、考査三日前と言った方が生徒らしいか。
「眠い」
回数少ない通学で、そろそろ体に苦痛を覚え始めた今日この頃。時刻は相変わらず午前六時。早起きが苦手なぼくにしては、なかなかの快挙だ。電池を替えたので目覚まし時計は活発に活動し、加えて騒がしい小鳥がやって来るようになったので、体がどれだけ拒絶的な反応をしても早起き出来るようになった。そうせざるを得なかった。
今朝も変わらず、七時に来る約束なのに六時半頃に、耳馴染みの無いインターホンの音が鳴り響いた。
「みっくん起きてー! 朝だよっ! 百子アラームが鳴ってるよ! グッモーニン!」
「……」
どうして朝からそこまでハイテンションでいられるのだろうか。普通この時期の学生は、徹夜で勉強をこなし、そのせいで朝に弱く、結局親に叩き起こされ、遅刻ギリギリに登校するものだと思っていたのだが、彼女からはそんな一面少しも感じられない。最も、これは所謂漫画の読み過ぎみたいなもので、単なるぼくの空想論でしかないのだけれど。
「これぞ正しく、戯言だな」
「どうしたの?」
「何でもない」
朝日によって、朝とは対照的な星のヘアピンが彼女の前髪でキラリと光った。
「そんなにふてくされないでよー。今日は良い物持ってきたんだから!」
寝る前に掃除機をかけた絨毯の上で、百子ちゃんはゴロゴロ寝転がりながら、昨日よりやけに膨らんだ鞄から箱を取り出した。大部分を占拠していたらしく、箱が無くなった鞄はシューッと風船の如く萎んで、通常の大きさに戻る。
そして、例の箱を開けると、
「じゃじゃ~ん♪ 昨日入手した、買いたてほやほやのミニ炊飯器で~す!」
百子ちゃんはどうだと言わんばかりの表情で、高々と炊飯器を掲げた。ぼくは、きょとんとした表情でその炊飯器をただ見つめる。すると、百子ちゃんはまるで殿方に献上するかの如く、高く持ち上げた状態でぼくに差し出す。
「みっくんにプレゼント!」
「え、いいの?」
「もっちろん! 寧ろ貰ってくれなきゃ困る!」
「お、おう」
思わず柄に合わない声が出た。ぼくは大人しく、彼女から新品の炊飯器を受け取る。白いボディに黒のラインで幾何学模様が施されているのが何ともお洒落で、これでぼくはご飯が食べれるようになるらしい。
昨日入手したという事は、あれから勉強の時間を惜しんで探したという事だろう。証拠に、今日の彼女は気が緩むとすぐ眠気が襲い、こっそりぼくが見ていないところで小さな欠伸をしている(バレてるけどね)。
「えへへ、みっくんのために頑張ったよー」
「そうみたいだね。ありがとう、嬉しいよ」
素直に感謝した。百子ちゃんも何だかとても喜んでいる。
「よかったーこれでみっくんも主食に悩まなくて済むね! それにこの炊飯器、ご飯を炊く以外にも色々な機能が付いてるから、料理の輪も広がると思うよ!」
「料理するか怪しいところだけどね」
「んもう! そんな事言わずに使ってよー! 折角のニューアイテムなんだから!」
その後百子ちゃんは、ずっとご機嫌で、ぼくが何度言われても理解出来ない炊飯器の使い方を、いつまでも丁寧に教えてくれた。
そして、今ぼくの手元には、世間で言う「ご飯」が盛られた茶碗がある。
「熱い」
「そりゃ、炊きたてだもん」
そして一口、ご飯を食してみる。
「熱い」
「そりゃ炊きたてだもん!?ちゃんとフーフーしなきゃ!」
これが感想。生憎、味覚による感想は、熱過ぎて述べようが無かった。そんな様子のぼくを見た百子ちゃんは、しばらく何か考え事をして、
「そういえばみっくん、昨日卵食べてたよね。まだ残ってる?」
と尋ねてきた。ぼくは頷くと食事を中断し、冷蔵庫のドアポケットから、整列する卵を一つ取り出す。卵は、ぼくにとって唯一の主菜であり、調理しないと食べられない物のはずだが……
百子ちゃんはぼくから卵を受け取ると、食べていたごはんの上に割ってそのまま乗せた。
「わあ」
自身の発想を覆す瞬間だった。唖然としているぼくに、百子ちゃんはいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「大丈夫、皆こうして食べてるんだから。あと『醤油』ある?」
「せうゆ?」
「何で古典風なの」
訊き返すぼくに、彼女は「あー」と言わんばかりの表情で、再び鞄から何やらボトルを取り出した。それを見て、ぼくは自分のある限りの記憶を呼び起こすように、それについて考える。
「確か……発酵酒か何かの」
「違います」
完全否定された。おまけに知ったかぶりをしたのがバレてしまった。恥ずかしい。
そんなぼくに構わず、彼女は例の発酵酒(違う)を卵と少し足したご飯にかけ、「はい!」とぼくに渡してきた。
出来上がった料理は「卵かけご飯」。実に面白い食べ物だと思った。理由を話すとキリがないが、一つ言うとしたら、卵と米の「調理して食べる」、「そのまま食べる」という役割が、見事に逆転しているところだろうか。
そして今度こそ、味覚的感想も言おうと期待したものの
「痛い」
先程の一口で舌を火傷してしまい、結局何も述べられなかった。
起きて早々ハイテンションな彼女と話していると、なかなか思考が追いつかないが、いつもと違う食事が取れて、昨日と同じように彼女と学校に向かう途中、色々質問を浴びせられながら予習(本当は復習なのだが)をしたおかげで良い頭の体操になり、授業を受ける頃には意識もすっかり覚醒していた。
珍しく連日かつ一日授業を受けているぼくに、先生も生徒も驚きを隠せない。そしてその喜びは、何故かぼく本人ではなく、ぼくを連れて来た彼女に向けられる。百子ちゃんは自慢気にぼくとの生活を語るが、その中には自分から提示した「恋人ごっこ」の件は一言も取り上げなかった。
「だって、恥ずかしいじゃない!」
食堂で、無料ご飯と彼女のお弁当を少し貰って食べていると、彼女は不服げに理由を述べる。今日の彼女は、弁当に加えファミリーサイズのフライドポテト(チョコソースがけ)と抹茶ラテを注文している。ポテトにチョコとは、さすが甘党。
「今時の高校生が、リア充味わいたいがために女の子同士で恋人ごっこしてるなんて、口が裂けても言えないよ」
「言い出しっぺは君だけどね」
「だから尚更言えないよ!」
弁当とポテトを交互に食べつつ、文句を言う百子ちゃん。大して深い意味は無かったのに、必死に言い訳を探す彼女を、ぼくはご飯とおかずを口にしながら黙って聞いてあげた。時間が経っていたのか少し冷めていた食堂のご飯は、朝のと比べて甘みが感じられない(不味いわけではない)。そして昨日も食べたけど、やっぱり彼女のだし巻き卵は美味しい。
「卵、気に入ってるんだね」
「いきなり話を中断するのか」
そもそもぼくが学校に通えば―――と言ったところで流れるように話を切り替えたので、ぼくは一瞬思考が途切れる。そのせいで、折角の卵焼きを呑み込んでしまった。
これを見て百子ちゃんは「ウフフ」と軽くほくそ笑みながら、ぼくの方に体を乗り出してくる。
「ご飯粒ついてるよ。取ったげる」
「え、いいよ。わざわざ……」
「取ったげるのー」
「はいはい」
この程度の流され具合は、最早日常茶飯事だ。言われるがままご飯粒を取ってもらうと、百子ちゃんは「エヘヘ」とさっきからわざとらしい笑みを浮かべて、明日の話をし始めた。さっきまでの話は、とうに忘れてしまったようだ。
「みっくん、明日は一瞬にお弁当作ろうよ」
「え……」
「作るのー!」
「はいはい」
流れるように明日の約束を交わしてしまった。流石百子ちゃん、ぼくという草舟を見事に操っている。
その後、勉強を教えてもらいつつ、明日必要な食材をリストアップされたぼくは、彼女に近くのスーパーへと連行される。「自然解凍で大丈夫なんだよ!」と、日頃なかなか見ない冷凍食品のコーナーで思わぬ便利具材に驚いたり、「ご飯にはふりかけもアリなんだよ!」と鮭や卵のふりかけを買ってもらったり、あらゆる形や機能を持つ弁当箱で目が回ったりと、彼女を通してスーパーという空間に様々な色彩がある事に気づかされた。勿論ついでに卵も買った。十二個入りパック、タイムセールにて一家族につき百二十円。
「私もいるから二パック買えるね!」
一つは百子ちゃんが持って帰ればいいのに、結局両パック共、ぼくの冷蔵庫の中で眠っている。そして、久しぶりに空っぽだった冷凍庫や野菜チルドに食材が投入され、食器棚には、新しい長方形の二段式弁当箱が加わった。
「じゃあみっくん、また明日ね! 明日は授業が最終日だから、多分自習ばっかりだよ」
「そうだね。よく寝れるね」
「何言ってるの、明日も学校に行くんだよ! そのためにお弁当の食材買ったんでしょ。それと、みっくんのこれからの食事のレパートリー増やすために!」
「主な目的は後者だったか……」
通りで一日のためにしては、やたらカゴが重かった訳だ。
あと、自分が寝れるとぼやいたのは、あくまで家で熟睡出来るという意味ではなく
「ぼくは学校で、君の隣で寝れると思ったんだ」
「え……!?」
僅かに間が空いて、百子ちゃんは突然赤面する。恥ずかしそうに両手で顔を覆い、自分の荷物を手早くかき集めると「じゃ、じゃあまた明日も来るから!」と、足早に部屋を去っていった。
しかし、少し走ったところで見送るぼくの方を振り返る。
「ありがとう、みっくん。大好きだよ」
夕陽に照らされ、空よりも早く光る彼女の一番星。あの時の笑みは、いつもより一層綺麗に見えた。