**
今は、高校時代の最終章とも言える三年の初夏。至って普通の公立高校なので、この時期はそろそろ期末試験に向けて、普段は完全にそっちのけだった勉強に皆が漸く取り組み始める頃だ。 学生なのだから、試験の前から、普段から勉強しろよと真面目な人は思うのだろうが、あいにく自分は、試験が近づこうが通り過ぎようが、あまり関係無い。実際に今までの試験は、呆気なく自分の脳裏を通過していった。
だが、今回ばかりはそうはいかない。今年は受験の年と言われている。おまけに今年になってから不登校続きだった自分の場合、試験は通過すると思いきや、追試や補習といった形でUターンしてくる。あるいはこれらの止まれ標識に従って、自分の頭で滞在してくる。つまり、そう簡単に通り過ぎてくれない。そんな事に気づいたのは、期末試験の一週間前。二週間ぶりに学校に来て、先生からの忠告や周囲の会話などを聞いて、漸く事の重大さに目が覚めた頃だった。
だが、目が覚めたのはあくまでこの混雑とした賑やかな空間に突然放り込まれた衝撃からなので、全くもって危機感を抱いていない。まるで危機感が無いので、自分は三限辺りで退屈な先生の話を聞くのに飽きたため、トイレに行くと言ってそのまま真っ直ぐ食堂に向かった。
モラルが無いわけではない。申し訳ないとは思っている。だが、周りの事を気にする以前に、今自分は激しい空腹による命の危機を感じていたので、本能的に延命活動を行なっているまでだ。前言撤回。いや、この場合は訂正だろうか。 勉強に対する危機感は抱いていないが、命に対する危機感は抱いていた。
「冗談だけどね」
しかし、空腹である事は間違いないので食堂へ。
当然の事ながら、ガラガラの空席だった。真面目な学校なら、こんな時間にやって来る生徒は一人もいない。皆は今頃、お腹が鳴りそうなのを必死に堪えてペンを握っていたり、お腹が鳴ったとしてもあたかも自分では無いかのようにノートを凝視しているに違いない。
逆にこの時間に来るとしたら、そのうち満席になるのを読んで、早めに昼食を取る先生か、両針が太陽を指す頃にお腹が空く規則正しい従業員か、何らかの理由で来校し、食堂の様子を見に来た客人くらいだろう。実際ここにいるのは、こちらを不審に見ながらも、黙々と日替わり定食を食べる白髪の先生と、厨房で昼休みの騒動に備えて、せっせと料理をする食堂のおばちゃん達だけだった。自分に気づいたおばちゃんの一人が、洗い物をしていた手を止め、カウンターへと駆け寄る。
「ご注文は?」
「ああ、ご飯小盛一つとお冷を」
「ん? おかずは要らないのかい?」
たまにお弁当でご飯を忘れた生徒が、このような注文をするようだが、おばちゃんは自分が両手に何も持っていない事から、そのように質問してきたようだ。自分は「いえ、大丈夫です」とお盆に箸を置き、食堂の無料コースをいただく。(この食堂では、ご飯小盛はサービスでもらえる。ありがたい)
怪訝そうな顔をしながらも、おばちゃんは素直にこちらの注文に従い、ご飯小盛とお冷をお盆に乗せてくれた。ペコリと頭を下げ、先程見てきた先生とは対角線上になるように座る。両手を合わせ、本当にご飯だけを食べていると、気を遣ったのかおばちゃんがカウンターからパタパタと走ってきて
「皆には内緒ね」
と人差し指を立てながら、唐揚げの入った器を添えてくれた。何という大サービスだ。これは美味しくいただこう。
こうしてご飯と唐揚げという、まともな食事にありつけているところで、また別の生徒が食堂に入ってきた。しかもそこそこの数で。
まだチャイムは鳴っていないはずだが、そんな事お構いなく先程の方含め厨房に居たおばちゃんは「いらっしゃーい」と明るく朗らかな掛け声をかける。何、自分程不真面目な生徒は早々いない。恐らく授業が早くに終わったので、人気のデザートを先取りしに来たのだろう。珍しく予想が当たり、やってきた生徒達は男女問わず一目散にカウンター前にあるデザートへと手を伸ばした。今年度から入荷した数量限定のいちごミルクケーキは、相変わらず大人気なようだ。と、そんな事を考えながら唐揚げを食べていると、背後から聞き覚えの無い声が自身の耳に飛び込んで来る。
「あの…もしかして、みーさんだよね?」
振り返り、話しかけてきた人の方を向く。が、そこに声の主は居ず、思わず顔を戻すと、いつの間にかその人は、正面の空席に座っていた。
茶色で内巻きの髪型。確か表現の仕方としては「ミディアムボブ」だったろうか。上半身は赤いリボンに薄茶色のセーター、下は黒っぽいスカートと黒ハイソックスにローファー。そして、背丈としては自分とそこまで変わらない。真面目で大人しそうな、でも明るくて笑顔の眩しい子だった。
「えっと……改めて、みーさんだよね?」
「みーさん」と慣れ慣れしく呼ぶ彼女は、こちらの方をジッと見つめながら、食堂で買ったと思われるメロンパンを頬張る。敢えてあの人気商品に手を出さなかったのかと思うと、テーブルにはちゃんとその品が置かれていた。ついでにパックのいちごミルクも添えて……。
何だこの子、かなりの甘党か? どこにも塩分を摂取出来そうな品物が見当たらない。まあ、とはいってもどんなものにも多少の塩分は含まれているので、さて置こう。
それよりも重要なのは、彼女が誰なのか分からないという事だ。どうやら向こうはこちらを知っているようだが、生憎自分は不登校続きだったもので、クラスメイトの名前は勿論、顔すらも記憶していない。 知ったかぶりするのは良くないと思うので、ここは正直に話す。
「すいません……どなたでしょうか?」
珍しい自分の他答に驚いた彼女は、先程の様子から一変。
「えっ嘘、みーさんでしょ!? 私だよー!クラスメイトの!しかも隣の席!それくらい覚えといてよー!」
女子高生らしい口調になった。これが本来の姿か。
しかし、彼女にそう言われても相変わらず思い出せない、と言うのも当然の事で
「さっきも言ったけど、最近全く通ってないもので、覚えといても何も、まず知らないんですよね」
「言ってないよ!? みーさんは『どなたでしょうか?』としか言ってない! 全く通ってないなんて聞いてないもん! 知ってるけど!」
独り言も自分にとっては言った事になるんだな、なんてエゴな解釈を伝えたら、彼女はますますふてくされそうだったので、言わなかった。
「言ったけどね」
「えー」
恐らく自分の考えとは違う形で捉えられてしまっただろうけど、彼女は項垂れながらズズッと音を立てていちごミルクを啜る。どうやら相当ショックだったらしい。
少し落ち着いた口調で、くるくるとストローを回しながら、ぶつぶつ自分に聞こえる声量(かなり人が混んできたので、つまりは結構な大声で)つぶやき始めた。
「確かにあんまり来てないみたいだけどさ……でも流石に、何にも持ってきて来なかったみーさんに教科書貸して、一緒に授業受けた隣の席の人まで忘れちゃってるなんて、ちょっとショックだな。それに私の名前を聞いてすぐ、あんな事言ったのに本人記憶無いって、言われたこっちも何だか……ね」
ふと脳裏で何かが過ぎった。そういえば、いつだったか忘れたが、誰かと一緒に授業を受けた覚えがある。近々退学処分されると思いながらも学校に通い、案の定先生に目をつけられていたところで、誰かが教科書を持って話しかけてきたような。
また思い出す。その時名前を尋ねられて教えた後、彼女の名前も聞いて「何だか縁の無い、残念な苗字だな」と言った覚えもある。
その肝心な苗字は生憎忘れてしまったが、名前は確か……
「……モモコさん、でしたっけ?」
パアッと効果音でも鳴りそうなくらい輝かしい笑み。どうやら当たりだったらしい。
モモコさんは嬉しそうにテーブルから身を乗り出し、自分の手を力強く握るとそのまま上下に揺らしながら高らかな声で話し出した。
「そうだよ!百子だよ!寿無 百子!久しぶりだね!そしておかえり、みーさん!」
「ただいま、久しぶり。言ったかもしれないけど『寿無』って、残念な苗字だね」
「フフフ、それ前言ってた~」
何故彼女が「おかえり」と言ったのか、よく分からなかったが、そこはイレギュラーな事態にも柔軟に対応する食堂のおばちゃんに倣って、乗っておく事にした。果たしてこれが彼女に通じたかは、今もこれからも知らない。
それからの百子さんは、どんどん本性を露わにしていく。まず、テーブルに残されていた数量限定スイーツを、目の前でカツカツスプーンをかき鳴らしながら一気に食べた。食べたというより呑んだ。
これは、かなりの衝撃映像だ。見ている自分が恥ずかしく思えた。見た目に騙されてはいけない、と肝に命じた。
しかし、百子さんはそんな事気にもせず、器を勢いよくテーブルに置くと、再びこちらをジッと見つめてきた。あまり凝視される事の無い自分にとっては、見つめてきたというより睨んできたに近い。本人はそんなつもりさらさら無いんだろうけど。思わず身を後ろに引き、椅子の背もたれに背中を貼り付けた。
「えっと……何ですか?」
「『何ですか?』じゃなくて、普通にタメ口で話してよ。同級生なんだし!」
「いや、まあ、はい……考えときます」
「あっ、そう言ってやらないパターンでしょ!? 駄目! 今すぐやるの!」
「……分かった」
とりあえず頷く。わざわざ意識して話さなきゃいけない方のは辛いが、強制となっては仕方がない。大人しく彼女と会話する際、敬語はやめておこう。
「ところで百子さん」
「『さん』付けもやめて。呼び捨てか『ちゃん』付けで!」
面倒くさい奴だな。後者を選ぶ。
「百子ちゃん、授業はどうしたの?」
「え? 先生がキリいいし、テストに向けて勉強してほしいからって早めに終わったんだよ? さっき……あ、いなかったっけ」
「お察しの通りで」
そんな授業もあるのか。知らなかったな。まあ、知ったところで現状は少しも変わらないが。
「そう言うみーさんは? どうして今日は学校来たの?」
「授業に関してはブッチだけど、流石に場の空気くらいは吸っておこうかな、と」
「ふむふむ、なるほど」
明らかに正当で真面目そうな彼女と、学校の制服すら着ていない自分とでは話が合わない。というより空気が合わない。
周囲から異様に視線を感じるが、自分も彼女もそこまで気にしていなかった。寧ろ自分は、こんな奴に気安く話しかけて、周囲を全く気にしていない彼女の方が気になった。
「んー……聞きにくい質問でなんだけどさ。みーさんは、どうして学校をちょくちょく休んでるのかな?」
「単にお金が無いだけ。心配しなくても、近いうちに強制退学だよ」
「えっ! でも、それって何か支援とかあるんじゃないの? 奨学金とか」
「あるのはある。でもこの学力だと、国も必要としないんじゃないかな。学校通ってない上に働いてもいない。だったらむしろ、早く退学処分受けて、国民から集めてる貴重な税金を浪費せずに済めば、国も自分以外の国民も安心すると思うよ」
「うわ……すっごいネガティブだよ。そんな思考する人、初めてだよ。でも、国は別にそんな事思ってないと思うよ? だって私達学生ですらも、いろんな形で税金払って国のために生きてるようなものなんだから!」
百子ちゃんの動きによって、時々彼女の前髪をとめてる星型のヘアピンが、日の光に反射しキラリと輝く。暗い話をする自分に向かって、前向きに生きようと希望の光を与えているような気がした。彼女の明るく必死な言い方が、よりそんな気にさせた。
「綺麗だね。百子ちゃん」
ぼんやりつぶやいてしまった。彼女は赤面になって立ち上がり、
「ななな何言ってるのみーさん!? 別に私は偽善とかそんなんじゃなくて……あれ、違う? とにかく私は、綺麗じゃないよ!」
と、謙遜して見せる。しかし、あくまで自分が「綺麗」と言ったのは、彼女の容姿でも言葉そのものでもなく、彼女のヘアピンと言葉を素材に創造した自作の比喩の話であるが、その真実を伝えると、彼女が怒り出しそうなので、あえて間違った思考のままで居てもらおう。
別にここから話が大きく矛盾する事は無いだろうし。
「みーさんって、何だか男の子みたいだよね」
突然、彼女は言った。本来なら、すぐさま否定するものだが、自分は思わず考えてしまう。一体どこに男らしさがあったのだろうか。そもそも男って何だろう。一般的に男の反対は女だが、男と女って何が違ったっけ。
考えてしまった自分の失態で、彼女には酷い混乱が訪れた。たじろいでる彼女が何だか面白くなった自分は、さらに追い討ちをかけるように質問を投げかける。
「どっちだと思う?」
「え、まさか……男の娘って可能性も?」
「さあ、想像に任せるよ」
これは全て言い出しっぺの百子ちゃんが悪い。自業自得。事故死からの自己死。いや、死は流石に言い過ぎか。なら自滅———あれ、あまり変わってない。
喉が渇いたので冷水をもらいに席を外す。百子ちゃんは両手で頭を抱えながら、「んなー」と項垂れていたが、戻ってきた時には落ち着いていた。空っぽになったと思われる(さっきズゾゾーッと音が鳴っていたので)いちごミルクのパックを大事そうに両手で包み、戻ってきたこちらの方を真っ直ぐ見つめてくる。 あまり凝視されるのは好きじゃないが、仕方がないと思い、こちらから訊いてみた。
「答えは見つかった?」
「んー」
肯定とも否定とも言えない返答。もう少し踏み込もんで訊こうかと思ったら、彼女から口を開いた。
「私達、もう高校三年生でしょ。ラストJKでしょ。でも私、今まで一度も彼氏作った事無いんだなー」
「そうなんだ」
「だからみーさん、男の子になって欲しいな」
「……はい?」
つまりは自分を女と認識している訳だが、それからの言葉の意味が分からない。この人、今何て言った?
「男の子になって欲しい、だって?」
分かってるじゃないか。
しかし自分で自分をツッコンでいる間も無く、彼女は少し頬を赤らめながら、でもさっきよりも真剣な眼差しでコクンと頷く。
「そう、男の子に。無茶言ってるのは分かってるよ。百も承知。でもあなた程、男らしい女の子いないと思うの。淡白でさっぱりしてて、でも己の道を歩くのに熱意があって、結構自由奔放で、気まぐれで、けどいきなり話しかけてきた私にも何なりと答えてくれる優しさもあって、何だか色々……変わってて」
褒められているのか貶されてるのか分からないが、ここ数分間の会話だけで、ここまでイメージを植え付けられた自分に少し恐怖を覚える。(あ、でも百子ちゃんとは以前にも会ったんだっけ。すっかり忘れちゃったけど。)
長々としたコメントだが、つまり、要約すると
「君の中にある男の子のイメージに似合ってたって事?」
「そう、もうこの上ないくらいに。ちょっと変かもしれないけど、私……みーさんみたいな男の子に会ってたら多分……恋してた」
自分でも何を言ってるのか分からないらしく、百子ちゃんはあうあうとアシカの如く口を開閉しながら、顔を両手で覆い隠した。かなり恥ずかしがっているようだ。
不覚にも可愛いと思ってしまう。そのまま包んでしまいたいような、不思議と大切にしたい感覚が走る。
百子ちゃんは、顔を覆いながらもボソボソと呟くように話を続けた。
「一度で良いからやってみたかったの。恋愛ってやつを……もうこの際、男女なんて関係無いと思って。今の時代、同性愛もトランスジェンダーもあまり関係無いんだし、私を助けると思って……お願い!」
助けるつもりで彼氏になれと。なかなかな無茶振りを要求する女だ。
しかしその目には、今にもこぼれ落ちそうなくらいいっぱいの涙が溜まっていた。ここまで必死でせがんでくる人は、生まれて初めてだと思う。(あまりに過去に関する記憶が無くて、定かではない)
一方こちらは放浪者だ。人生がどう転ぼうが構わないと思ってる。ただ自分が生きて、ただ自分が死ねばいいと思う、何ら中身の無い意思無き人形だ。
「流石に自虐的過ぎるか」
「え?」
「いや、何でも無い。別にいいよ。断る理由見つからないし」
「え……」
百子ちゃんはポカーンと口を開いた。閉じる気配は無く、顎が外れたかのように、それこそ意思無き人形かの如く。
暫くの静寂。暫くの黙想。
さらりと流れるように言ったが、これは完全に「ぼく」がこの場の空気に流された結果だ。が、それが幸い彼女の心に届いたらしく、再びパアッと効果音でも鳴りそうなくらい輝かしい笑みが戻ってきた。
またしても百子ちゃんは、嬉しそうにテーブルから身を乗り出し、ぼくの手を力強く握るとそのまま上下に揺らしながら高らかな声で話し出した。
「ありがとう!本当にありがとう!よろしくね、みっくん!」
「ああ、うん。よろしく、百子ちゃん」
この時既に、彼女の溜まっていた涙はすっかり乾いていた。ああ、言ってはいなかったが、流されやすい性格っていうのも想定済みだったのか。何て恐ろしい女だ。
けど、それでも別に構わなかったので、改めて彼女と一緒に「ぼく」の物語を始めるのであった。