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「———とまあこんな具合に、不本意に誰かの身代わりになって自分の時間を犠牲にしていく、という夢を見たんだ」
午前六時。目覚まし時計が、甲高い金属音を部屋中に響かせ、意識を覚醒させていく。
まだ瞼は重く、体もあまり動かないが、自分は僅かに意識を手元へと集中させ、片手を勢いよく音源に叩きつけた。
「結構痛い」
衝撃を受けた目覚まし時計は、弾力ある布団の上で軽くバウンドすると、カシャーンという音を最後に床へと転がり落ち、辺りに静寂が訪れた。
欠伸で酸素をたっぷり吸い込むと、ゆっくり体を起こした。しかし地球が放つ重力には逆らえず、すぐさま布団に押し倒され、あるいはうつぶせのまま動けなかった。どちらでも状況はさほど変わらない。おまけに脳すらも、覚醒しなくてはならないと認識していないらしい。
それもそのはず、現在自分は致命的な欠陥が生じている。ずばり糖分である。脳にとって唯一の栄養源である糖が不足しており、体が無駄にエネルギーを消費せぬように、そして糖が尽きて死ぬのを待つように、眠りにつくという二重の意味で致命的状況に陥っているのだ。
だが、安心していただきたい。まさかこうして物語が起きると同時に終わる事は無い。文字通りの「夢」物語で終わる事は無い。確かに致命的状況ではあるのだが、これはよくある中学生や高校生がすぐさま「終わった」とか「死んだ」と嘆くようなレベルのものなので、実際はつまり、
「お腹空いた」
これだけの事である。ちゃんと頭も体も動くし、食事を作る程度の気力はある。
しかし不思議だ。栄養を補給しなければ死ぬ事は分かっているのに、どうして栄養不足になると消費せぬよう眠ってしまうのだろう。矛盾していないだろうか。だが、これは知能の低さと眠気のせいで、栄養不足から餓死までの過程を数段階飛ばしている事も知らないだけだった。単なる妄想———ただの愚問だった。
それよりも胃腸が精一杯伸縮して音を立て、空腹を訴えてきたので、ようやく布団から出て洗面所へ向かう。
「これこそ矛盾か」
腹の中に居座る虫のしらせを後にして、まず汗やら涎やらでベタついた顔を洗う。ついでにボサボサの長髪をとかし、さらについでに慣れた手つきで、前髪を左に流して先をリボンでくくる。何故そうしているのか自身もよく分かっていないが、これは日課、癖であり、チャームポイントとでも言えば良いだろう。
さて、自ら(のお腹)がお待ちかねのようだ。しかし、ここには「キッチン」と呼べる場所が存在しない。テーブルに置かれてある市販のカセットコンロが、唯一火を使った調理に役立つ道具だ。そしてもう一つの道具は、物語界ではしばしば登場するものの、現実的にはかなり手入れの面倒な物として知られるな鉄のフライパン。どちらも、隣の部屋に住んでいた人から頂いた物だが、その人についてはいずれ話すとして。
これから調理にかかろうと思う。一応動いている冷蔵庫のドアポケットに、整列する卵を一つ取り出し、フライパンに火をかけて熱くなったところで卵を割り、鉄色の世界へ送り込む。
殻から出てきた黄身が、朝日の光で黄金色に輝き落下していく。
この一瞬は、自分にとってちょっとした楽しみだったりする。固体ではなく、液体でもない 中間部に属する生き物らしいやわらかさ。休止生命体。植物の種も同類であるが、やはり人間(=動物)なだけあって、種より卵の方が興味もあるし、感受性も働く。
しかし、その後の行為はかなり残酷だ。箸でブスリと黄身の中心を突き刺すと、グルグルと引き裂き、フライパン全体に卵を広げていく。鉄色から黄色へ。原型を失い、中身を掻き回された挙句、火に通され、分離した状態で固められる惨めな卵。こうして、スクランブルエッグが出来上がるのだ。
「いやはや、何ともグロテスクだな」
流血注意ならぬ流卵注意。
器にホロホロと卵を転がり移すと、今度は主食の準備に取り掛かる。とは言っても、手段は二つだけ。干してあった茶碗を取り出し、袋に入ってある綺麗な米を一つまみ入れるだけ。
以上。これで朝食は全て出来上がり。調味料は一切含まれてない、素材そのものを生かしたメニュー。シンプルイズベスト。
「……とは言い難いな」
正確には、そのままだと食べられないので、ひと手間加えて食べれるものにした(しかも卵限定)というだけだ。その癖、食べるのにとても時間がかかる。貧乏というより古臭い———原始的に近い。
食事で時間をかけるのは主に米だ。主食だけあって長い。一粒一粒を無駄によく噛んで食さねばならないのは、時間と労力のかかる作業である。食事とは言い難く、作業に近い。しかし、それ以外に食べる物も、食べるための道具も無いので、暫くはこれでありつけるしかない。
「シンプルイズベスト」
独り言をぼやきながら黙々食べていると、時刻は七時を指していた。そろそろ出かけねばならない時間だ。合掌して食器をシンクに移した後、偶然そこに落ちていた黒パーカーを羽織り、裾を引きずっていたダボダボのフリースからスカートへと履き替える。今まで半裸で行動していたとは、あえて言わないでおこう。
「言ったけど」
今日は、矛盾の多い一日になりそうだ。