プロローグのような本編
これから小説を書くにおいて、絶対にやってはならない事をする。これを誤魔化すために、わざわざ前書きやプロローグといった免罪符が存在するが、それも使わない。これは紛れもなく本編で、人々がこれからさあ読むぞと意気込んで開けた最初の一ページ、現在三文目である。
はじめまして。この本を手に取って読んでいただき、誠にありがとうございます。
小説においてやってはならない事———それは、物語の作者本人が登場するという事だ。この小説を今まさに書いている(あるいは書き終えた)作者が物語に登場するのは、読み手の想像力を働かせるにおいて障害でしかないし、実際にその物語にいない者が、物語に登場するという事は極めて異質である。作者が書かなければ物語は存在しないが、物語が書かれた以上、作者に用は無い。語り手が語らなければ物語は生まれないが、物語が生まれた時、その中に語り手は存在せず、あるいは存在してはならないともされる。
作者とは、作者であり、裏方なのだ。そしてこのような構造は、辺りを見渡してみると結構多い。映画監督や脚本家もそうだし、会社を動かす社長などもそうかもしれない。特に今の時代、お偉いさんが表に出てくる事はあって欲しくないと考える人もいるだろう。ニュースなどで深々と頭を下げている上司の姿を見るのは、何とも惨めで心苦しいものだ。
裏方は裏方なのだから、基本表に出ないし、寧ろ出てはならない事もある立場の者なのだ。分かっている。しかし、このような構成にどこか矛盾があるように感じてしまう。というのは冗談で、単純にこの作者は目立ちたがりで、寂しがりで、裏方には到底似合わない性分なのであった。だから何とかして、作者が作者のままで、作者の語る物語に入ろうと考えた。
どうして作者はダメなのか―――映画では監督本人が出演したり、漫画やアニメでは微小ながらも作者が登場するコマがあったりするのに、どうして小説では、作者が直接物語に関わると違和感を覚えるのか、どうして許されていないのか。それは考えるまでもなく、作者であるからだろう。きっと「作者」という肩書きが邪魔なのだ。これがあるせいで、読者はいつものように本を読み進める事が出来ない。
では、今こうして語っているのが作者ではなく、作者に酷似した誰かなら如何だろう。すると今ここで連々と語っているのは、作者であって作者ではない。その誰かの独り言となる。
単なる言葉遊び、ただの戯言だ。
作者によく似た彼女。今もこれからも語るのが、作者ではなく本人だと言いくるめられてしまう彼女。この物語を語る彼女を、これから紹介するとしよう。
自己紹介。最初に、彼女には名前が無い。未だ名前が無い。名前が未明―――未名の少女。
しかし名前が無いと、これからを語るにおいて色々と支障が生じるので、"未"名という事から「みーさん」と名付けよう。そう名乗ろう。そう名乗られるようにしよう。
亜麻色がかった長い金髪を風になびかせ、派手なピンクのプリーツスカートが揺れる。真っ黒のパーカーから出てくるのは、対照的な真っ白な肌。髪は腰にまで伸び、後ろ髪とあまり区別のつかない前髪の一部は細い黒リボンで蝶々結びされており、風が吹く度申し訳なさそうに髪の毛と一緒に揺らめいた。見た目は至って普通。寧ろシンプルな服装から、素の自分が出せていて、少し綺麗だと自賛する。
だが、そんな見た目とは裏腹に、否、素を出しすぎたのが裏目に出たともいえる。この美貌には似合わない、荒んだ部分が体の内側から、声という形になって口から零れ落ちる。
「草が広がり、鳥へ変わる」
「果実が崩れ、人へ変わる」
「花弁が落ち、魚へ変わる」
今まで言った事は全て独り言だ。非常につまらない独り言。非常でつまらない独り言。
そしてこれから語られるのは、夢無き少女の夢物語。 未名の少女による無題の物語。
「楽しみだな」
そんな一言で、彼女は漸く夢から醒めるのだった。