第2話 最後のパン
※今回の話には残酷な描写が含まれますので、ご注意下さい。
翌日からは雪の勢いが激しく、とても山を降りるのは無理な天候だった。毎日、洞窟の入り口で空を睨みながらカイはひたすら雪がやむのを待ち続けた。
焦るカイの気持ちとは裏腹に、ようやく天候が回復したのは洞窟に来てから5日目の朝だった。
持ってきた袋の中に入るだけ果物を詰め込みながら自身の腹を満たすと、急いで洞窟の外に出た。
冷たい空気を肺いっぱいに吸い込むと、果実を詰め込んだ袋を背負い直しカイは山を降り始めた。
-母さんとティルは大丈夫だろうか?
カイの住む村は小さな村で、カイの家を含め10世帯しかない。その内3世帯は年老いた夫婦の二人暮らしで、父の部下の食糧支援が無くなった一月後に息を引き取った。二週間前には隣の家に住んでいた弟と同じくらいの女の子が、先週にははす向かいの家の奥さんが亡くなった。次はカイの家族の番かもしれない。
カイの家にはまだ、パンが一つ最後の食糧として残されていたが、カイの弟のティルは弱りきっておりとても固いパンを食べられるような状態ではなかった。
家に残してきた母と弟の無事を祈りながら慎重に雪の斜面を下っていく。
柔らかい果物であれば、衰弱した弟でも食べられるかもしれないし、直ぐに食べられないようであれば果汁を飲ませ、少しでも体力が回復するのを待てばいい。
山に行くと言ったとき、母が無理矢理持たせた最後のパンにはまだ手をつけていない。肩からかけた小さな鞄の底に残っている。
-これは、ティルが元気になったら食べさせてやろう。
屈託のない笑顔でいつも自分の後をついて回る弟の姿を思い出しながら、もくもきとカイは足を動かした。
行きよりも荷物が増えた分、動き辛い。
何度も休憩を挟みながら下山し、眼下に村が見えた頃には日が暮れ始めていた。
夕闇に浮かぶ村は静まり返っていた。
この時間であればそろそろ明かりが灯る家があってもおかしくないはずが、明かりの灯る家は一軒もない。
胸騒ぎを覚え、カイは自分の家へと走った。
カイの家は村の外れ、オルト山に一番近い場所にある。
煩いくらいに心臓が跳ね、呼吸が荒くなっていく。
開いたままになった扉をくぐり家の中に入った瞬間、カイは思わず息をのんだ。
家の中は酷い有り様だった。
壊れた椅子や机の残骸が散乱し、戸棚の引き出しは全て床の上にひっくり返っていた。
そして、荒れ果てた部屋の中央には変わり果てた弟の亡骸が横たわっていた。
頭部がぱっくりと割れ、体のあちこちはまるで獣に食い荒らされたような状態だった。
顔は潰れ誰だか分からないような有り様だったが、乾いて赤黒く変色した血に染まった服は間違いなく弟の物だった。
何より、この村には弟と同じ年頃の子供は他にいない。
背負っていた袋が床の上に滑り落ち、中に入っていた果物がコロコロと床の上に転がる。
そのままカイは戸口にへたり込んだ。
その拍子に右手の指先に何か固いものが触れる。
ゆっくりとそちらへ視線をやると、血塗れになった銀製の腕輪が転がっていた。
それは昔、父が母とカイにお揃いだと言ってプレゼントしてくれた物だった。
「ティル…母さん…」
ボロボロになったカーテンが割られたガラス窓から吹き込む風に煽られてバタバタと音をたてる。
母の腕輪を拾い上げたまま、カイは動けないでいた。
いったいどのくらいそうしていただろうか。
突然聞こえた甲高い女の悲鳴にカイは肩を震わせた。
反射的にカイは立ちあがり、悲鳴の聞こえた方へと走り出した。
悲鳴は村の広場の方から聞こえた。
曲がりくねった道を走り抜け広場にたどり着いた瞬間、カイはその場で凍りついた。
広場には村人達の死体が折り重なるように倒れていた。
蒸せかえるような血の匂いが、広場の入り口に立つカイの元まで漂ってくる。
彼らの死体は皆一様に、カイの弟と同じように食い荒らされていた。
あちこちに転がる死体の中心に、女が一人こちらに背を向けて座り込んでいた。元は茶色かった髪を血で真っ赤に染めた女のすぐ側には肉片や毛髪がこびりついた斧が転がっていた。
女はクチャクチャと音を立てながら両手で掴んだモノを貪っている。
声を発することも出来ずガクガクと膝を震わせながら、カイはその光景を見つめていた。
その間も女は食事を続けた。咀嚼音に混じり、時々ズルズルと液体を啜る音が聞こえる。
思わず後ずさった拍子に近くの家の戸口に積まれた薪にぶつかり、崩れた薪が大きな音を立てる。
ゆっくりと女がカイの方を振り返る。
口の周りを血でべったりと汚し、虚ろな目でこちらを見る“母”の顔を見た瞬間。
「うわぁー!!!!!!!!」
カイは一目散に逃げ出した。
宵闇が迫る村から飛び出し、後ろも振り返らず一目散に走った。
走って、走って、走り続けた。
-何で!?何で、母さんが!?
訳もわからず走り続け、力尽きたカイは雪の上に倒れ込んだ。
後ろを振り返っても村は全く見えなくなっていた。
母がカイを追ってくる様子はなかった。
安堵のため息をついた瞬間、カイの腹の虫が鳴った。
乾いた笑みが浮かぶ。
-あんなモノを見た後なのに…
乱れた呼吸を整え、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を袖で拭うと、カイは肩にかけた鞄の中から最後のパンを取り出した。
半ばヤケクソ気味でパンにかぶり付く。
最後のパンは固くてパサパサしていて、味なんてちっとも分からなかった。