第1話 オルト山の洞窟
深く積もった雪に足をとられながら、カイは必死にオルト山の中腹を目指していた。
早く、早くと焦る気持ちとは裏腹に雪のせいで遅々として歩みは進まない。
雪に覆われ真っ白になった山には常の山とは違ってなんの目印もなく、方向すら定かではない。
そのうえ、今はやんでいるとはいえ、またいつ雪が降り始めてもおかしくない空模様だ。
こんな雪のなか山に登るなど自殺行為だと、必死に自分を止めようとした母を振り切ってここまで来た。そんなことはカイだって十分理解している。だが、このまま何もしなければカイも家族も飢えて死ぬだけだ。ならばまだ少しでも体力が残っているうちに最後の望みに賭けてみようと思ったのだ。
いつにない強い力で腕を掴んだ母と衰弱した幼い弟のの顔を思い出しながら、カイは必死に足を動かした。
例年よりも早く冬が来て少したった頃、軍の仕事で王都から帰ってこない父の代わりに、父の部下が荷馬車に大量の食糧を乗せて村にやって来た。そのお陰でカイ達の住む村は他の村のようにすぐに餓死者がでることはなかった。
だが、食糧が届いたのは最初の二月だけだった。その後は深く積もった雪のせいで、村は外の世界から隔絶された。
間もなく食糧は底をつき、村の人々は深い雪を掘り起こし、木の根をかじって飢えをしのぐしかなかった。
体力のない老人や病人、子供がまず犠牲になった。
今年八つになったばかりのカイの弟も衰弱し、生死の境をさ迷っている。
村の人々は自分と自分の家族のことで精一杯で、カイの家族を助ける余裕などないし、頼りの父は雪のせいで連絡を取れぬままだ。
父がいない今、あの二人を守るのは自分しかいない。
-早く、あの洞窟に行かないと!
昔、父に教えてもらったカイと父だけが知っている秘密の場所。その洞窟は夜光虫の光で日は差さずとも常に明るく、冬でもほんのりと温かい水をたたえた池があった。その池の周囲には様々な果樹が生えており、季節に関係なく果実を実らせる不思議な場所だった。
7年前に父が軍の仕事で王都に行き、一年のうち数えるほどしか家に帰ってこなくなってからも、カイは何度も一人でその洞窟を訪れた。
-あの洞窟に辿り着きさえすれば食糧が手に入る!
カイは自分の記憶と感覚だけを頼りに山道を歩き続けた。
代わり映えのない景色に何度も心が折れそうになり、その度に死を覚悟した。
日が暮れ始めた頃に見覚えのある洞窟の入り口を見つけることが出来たのは、まさに奇跡としか言いようがなかった。
洞窟の奥は温かく、夜光虫が発する淡い緑色の光のお陰でほんのりと明るかった。
寒さで凍え、強ばっていた体が弛緩する。疲れた体を引き摺るようにして、カイはゆっくりと小さな赤い実をつける木にに歩み寄った。
赤い実を口に含むと少し酸味の混じる果実の甘さが口の中に広がり、そのあとは夢中で手が届く範囲の果実を貪った。
空腹が満たされると、カイは池の側に座り込んだ。
すぐにでも果実を持って、山を降りたかった。
しかし洞窟の外はすでに夜の闇に包まれ、カイの体は体力の限界を訴えていた。
無闇に山を降りようとすれば、今度こそ確実な死が待っている。
朝が来るまではこの洞窟で体を休めるしかない。
果実の汁でベタつく口の中をすすぐ為、カイは来ていた服の袖を捲り、池の水を両手で掬って口を水に含んだ。何度か口をすすぎ、顔を洗おうと池を覗き込んだ時、水の底に夜光虫とは違う光を放つものを見つけた。
左手で池の縁に生えていた草を掴み、右手の肘の辺りまでを池に突っ込み指先で池の底を探ると、指先に硬いものが触れた。
指先にそれを引っかけ池から引き上げる。
「何だこれ?コイン、いやメダルか?」
カイの手の中で金色の鎖に通られたメダルが鈍い光を放つ。
メダルの表には林檎のような木の絵が彫られている。
裏面には小さな文字が彫られていたが、カイには読めない。
父から文字の読み書きは教わってはいたが、メダルの文字はカイの知らない文字だった。
草の上に横たわり、ぼんやりと手にもったメダルを眺める。
この場所を教えてくれた父ならば何か知っているだろうか、等と考えている内に疲労が押し寄せ、そのままカイは目を閉じた。
その晩は夢も見ず、カイは泥のように眠った。