熟成
「結婚しようか」 峰岸がボソっと言った。
カウンター席8席だけのBarで峰岸と和歌子は飲んでいた。
薄暗い店内に静かにジャズが流れていた。 他にお客はいなかった。狭い店内の少しだけ空いているスペースにピアノが置かれていた。
カウンターの中からの照明の明かりが、バカラのグラスに注がれた琥珀色のシングルモルトのウイスキーを照らしていた。
「それ本気なの?」
和歌子はカウンターの上に置かれたカクテルを見ながら言った。
「本気だよ」
峰岸はそう言うとグラスの中のウイスキーをゆっくりと飲みほした。
和歌子は 峰岸が飲み終わるのを待って、
「30年遅かったわね」
「もう そろそろお墓の用意もしなければならない年になってるのよ」そう話した。
峰岸と和歌子は高校の同級生だ。峰岸は高校を卒業すると就職し、和歌子は短大へ進んだ。21歳のときから3
年間付き合ったが24歳で別れた、
今年で54歳になる。峰岸も和歌子も離婚を経験し峰岸には子供が二人、和歌子には娘が一人いる。
峰岸は和歌子の言葉には答えずカウンターの奥のボトルが並んだ棚を見ていた。その中に、山崎と書いてある木箱があった。1984と書いてある小さな字も見えた。山崎の1984は珍しいお酒だ。数年前に数量限定で700mlで10万円で発売された高級ウイスキーだ。希少価値もあり今は当時の2倍くらいの価格になっている。
峰岸はバーテンに、
「そこの棚の奥の木のケースに山と言う字が見えるけど、もしかして山崎1984かな?」 と聞いた。
「そうです。でも、申し訳ないのですが、グラス売りはしてないんです」
峰岸は少し迷ったが、ふと運命的なものを感じ
「今夜はいい日になりそうだからボトルでおろしてくれますか?」
と バーテンに言った。バーテンは少し慌てたように峰岸の方を見た、
峰岸はバーテンに、
「僕もこどもではないから野暮なことはいわなくていいから、ロックのダブルで出してくれますか」と言った。
暫くして、山崎1984がグラスに注がれて出てきた。
峰岸が語り始めた。
「俺たち21の時に付き合い始めて24で別れたよな。別れた年に京都に旅行したの覚えてるだろ、その時に山崎まで足を伸ばしてサントリーの工場に見学に行ったよな。その年にあの工場で樽に詰められたウィスキーがこの酒なんだ」
峰岸は、グラスに口をつけた。和歌子は時折頷いて峰岸の話に耳を傾けていた。
峰岸は続けた、
「この酒は山崎の販売25年を記念してその年に蒸留、樽詰めされたモルト原酒のみを厳選してミズナラ樽という樽で20数年熟成されて2010年に数量限定販売で数も全国というよりこのお酒のファンは外国にもたくさんいるから全世界でと言った方がいいな、全世界で数百本しか出てないんだ。それから数年経っているから消費されたボトルも多いから、希少なお酒なんだ。その希少なお酒の樽詰めされた年に山崎の工場に二人で行き、そして僕が君にプロボーズした夜に僕たちの前に現れたお酒、僕は運命的なものを感じるんだ」
そこまで話すと峰岸はグラスに口をつけた。外国人にオリエンタルな香りと評されるミズナラの樽の香りがほのかにした。
「あのとき 君はこのウイスキーは何年後に出荷されるの?」
「このウイスキーが出荷されて私たちが飲むことがある? もし二人で飲んでたらそれって運命? て言ったよね?」
そう言うと、峰岸はバーテンに山崎の水割りを1杯オーダーした。水割りがくるとそれを和歌子にもたした。
「正しく運命の日になったんだよ。その運命の日に僕は君にプロポーズしたんだ」
和歌子も思い出した。時間の針が逆戻りした、ミズナラの樽も鮮明に思い出した。30年前のあの日と今夜が見事に重なった。
奇跡とは今夜のこと、そう思った。
「僕たちの運命の夜に、奇跡の夜に乾杯しよう」
グラスとグラスが軽くふれた。二人は暫くグラスを合わせたまま、みつめあっていた。やがてグラスの中のウイスキーの揺れる二つの波動が一致した。
「今日の夜のできごとは神様からのサプライズプレゼントだと思ってるよ」 峰岸が言った。
和歌子は頷いた。
「僕たちもこの30年は熟成の時間だったんだよ。無駄な時間ではなくて必要時間だったんだと思うんだ」
「あのとき、俺たち結婚してたらうまくいかなかったとおもうんだ」
和歌子も同感だった。
確かにあの頃はお互いに角があった。その角と角とのぶつかり合った生活、そう考えると、今は熟成されて角が取れてまろやかになったと思った。
確かに今が二人の結婚へのいいタイミングなのかなのかも
「でも、今夜は返事できないの」和歌子が言った。
「携帯のメールみてごらん」
峰岸に言われるままに携帯を見た、娘からメールが着てた。開くとそこには
ママ そろそろ幸せになって、結婚に私は賛成です と書いてあった。
峰岸はわかっていた、まだ結婚してないむすめのことを和歌子は心配していた。だから今夜は返事をくれないであろうと思っていた。
和歌子は峰岸の方を向いて、
「30年熟成された男は気がきくわね」
峰岸はポケットからケースを取り出すと、
「婚約指輪ではないよ 結婚指輪だよ」と言って和歌子の指にはめた。
峰岸の手がふれたとき、温もりが伝わってきた。
和歌子の目から涙が溢れ出てきた。
いつの間にかバーテンがピアノの前に座りジャズを弾いていた。
昔聞いた、ウイスキーのCMのこんな言葉を思い出した。
なにも足さない、なにも引かない。
熟成された二人に、まさにぴったりの言葉だった。