おいしいおべんとう
にんじんを最初に星形に切った人間はどんなことを考えていたのだろう。子供の弁当を作るようになって、そんなことを思うようになった。おそろしく集中を要する作業だし、余った切れ端は煮るなりなんなりするにしても無駄が多い。そうまでして形を整える意味は、どこにあるのだろうか。敬一さんと結婚して、啓太郎君の弁当を作るようになってから、そんなことを思うようになった。母親のやりかたは、まだわからない。
私の毎日は朝の五時に起きて弁当を作ることから始まる。平日は二人の分を、休みの日には啓太郎君の分を。育ち盛りの啓太郎君にはご飯と肉と野菜をそれぞれバランスよくたっぷりと。敬一さんの弁当はできるだけ貴重な昼休みの時間を有効に使えるよう食べやすいものを。二人の弁当を作り終え、私が朝食の準備を始める頃になってまず啓太郎君が起きてくる。
「おはよう静夜さん!」
「おはよう」
啓太郎君は「し」のところに置くべきアクセントを「よ」のところに置く。バナナ一本と牛乳を一杯。彼はそれらをぐいっと食べると、玄関にパジャマを脱ぎ捨て、運動用のジャージに着替えて外に飛び出していく。毎朝元気なものだと感心しながら、私は玄関に脱ぎ散らかされたパジャマを拾い集めて啓太郎君の部屋に戻しておく。
しばらくして敬一さんが起きてくる。寝癖でぼさぼさになった頭を私はそっと手櫛で梳いてやる。
「おはよう静夜さん」
「おはよう」
彼のアクセントはちゃんと「し」の部分に置かれている。しかし焦っていたり怒っていたりまぐわいの最中などは敬一君と同じ「よ」のところにアクセントが移ってしまう。二人が血が繋がっている人間なのだという証の一つであると思うと少し不思議で面白い。
敬一さんが食卓でぼんやりしている間に啓太郎君が戻ってくる。地域の少年野球団をだいぶ休んでしまったので、こうして自主練をして少しでも追いつかなくてはならないらしい。そうしないと「俺情けなくってみんなに顔向けできない」のだとか。男の子って難しい。
二人が食卓に揃ってこの家の朝食が始まる。敬一さんは朝はたっぷり食べる人間なので、啓太郎君もばくばく食べる。今日は卵焼きと味噌汁と納豆と、ウインナー。さらさらと流れる水のようになくなっていくそれらを眺めながら、私は沸かしたお茶を飲む。
「静夜さんてご飯食べなくても平気なの? なんで?」
いち早く食べ終わった啓太郎君が聞いてきた。
「昼と夜は食べてるわよ。ただ、朝はどうしてもね」
私が答えると、彼はなんだか難しい顔をした。この質問ももう何度目になるだろうか。朝に何も食べないということが彼にはどうしても理解しがたいことらしい。
「人それぞれなんだよ」
食べ終わった敬一さんに窘められて、啓太郎君はそれぞれかーと言った。私も真似してそれぞれよーと言って片づける。啓太郎君が部屋にランドセルを取りに行っている間に、敬一さんと軽くキス。暖かい血の通った人間の唇。
「行ってらっしゃい」
「君の準備はいいのか?」
「そういえば何もしてないわね。まあ実家だからどうとでもなるわ」
「そういうもんか」
「そうよ」
肩を竦める。そこでランドセルを背負って走ってきた啓太郎君が首を傾げた。
「じっかってなあに?」
「私の産まれた家よ」
「静夜さんの……?」
なんだか信じられないといった顔をする。その鼻を指でぐにっと押してみた。
「私にだって啓太郎君みたいな子供だった頃があるのよ」
「う、ふうん……? どんなとこ?」
変な声を出して啓太郎君は離れる。
「山奥。なんにもないわよ。熊とか狸ならいるけど。怪物もいるわね」
「うっそだー! もうおれそんなの信じるほど子供じゃないよ!」
「ほんとうよ。啓太郎君も自力で熊から逃げきれるくらいになったら来るといいわ。会わない方がいいけど」
馬鹿にされていると思ったのか啓太郎君は頬を膨らませたので、頭を撫でてやった。
「明後日には帰ってくるから、それまでお父さんと生活してね」
「えー! 静夜さん行っちゃうの? 帰ってくる?」
「大丈夫よ。帰ってくるわ。それまではお父さんにレストランとか連れてってもらいなさい」
「ほんとかよー」
「ほんとよ」
啓太郎君の声が震えていた。だから、そのちっちゃな手に弁当を手渡す。
「用事を済ませたらちゃんと帰ってくるわ。だって私、お父さんと啓太郎君のお弁当作らないといけないもの」
「なるほど」
弁当の重みがそのまま言葉の信用度になったらしい。敬太郎君はうんうんと頷くとお弁当をランドセルにしまいこんだ。
「じゃあ、行ってきます!」
「いってらっしゃい」
元気よく駆けだしていく小さな背中を二人で見送る。見えなくなった頃になって、敬一さんが突然ごめんなと謝った。
「なんていうか。気を遣わせちゃって悪いな」
「ほんとのことを言ってるだけよ」
「君と結婚してよかった」
突然そんなことを言う敬一さんの頬は赤らんでいる。そこにちょんと口づけを落として、会社へ送り出した。
「いってらっしゃい、あなた」
敬一さんが出たのを確認してからお風呂場で猫を三匹食べて、荷物を準備する。荷物と言っても着替え一揃えくらいのものだから、手提げ一つに十分収まってしまった。風呂場の血を洗い流し、ドアを出て鍵をかける。ふと道の途中で振り返ると、小ぢんまりとした一軒家まで寂しがっているような気がした。住人に愛着が湧くと家にも似たような感情を抱くものらしい。
新幹線を乗り継ぎ、メールで指示された街に降りる。約束の時計塔の下で待っていたのは幾度か添付されてきた写真そのままの男だった。脂肪と筋肉がバランスよく配分された体つき。皺ひとつないシャツの上にぱりっとしたスーツを着こなしている。涼しげな口元には笑みが浮かべられていた。いかにも健全な社会人といったいでたちだ。
「ごめんなさい、待たせてしまったかしら」
「いやいや、待つのも楽しいものですよ。貴女のような人が相手なら」
歯の浮くようなセリフをさらりと言って見せる態度からして遊び慣れている。なにを言っても野暮になりそうだったので、こちらも薄く微笑んでおくことにした。
「まずは食事でもどうでしょう」
「それも、いいけれど……」
そっと手を伸ばして、腕を組む。男は一瞬子供のようにきょとんとしたが、すぐに脂っこくにたりと笑った。こちらが本性なのだろう。
ラブホテルというものは電飾できらきらと輝いているものだと思っていたが、男が選んだところは百貨店のような外見をしていた。手慣れた様子で鍵を受け取る男に続き、エレベータに入る。鈍い機械の振動が私の内臓をからかうようにくすぐる。
「こんなに積極的だとは思わなかったよ」
私の肩に手を回し、男はぐいと身体を押し付けてきた。触れた部分からとくとくと脈打つ心臓の音が聞こえる。この後のことに思いを馳せて私が黙っていると、男は沈黙を忌避したのかぼろぼろと喋り始めた。妻とは十九の歳に結婚してもう十三年にもなること。九歳、小学四年生の男の子がいること。子供ができたから仕方なく結婚しただけで、夫婦は冷めきっていること。
「そしてなによりガキがどうしようもないんだよ、ほんと。あの女に甘やかされたせいで言うこと聞きやしない。あんなもん猿だよ、猿。学校終わったところで勉強もしないでふらふらふらふら出歩いてるらしくて、近所でも肩身が狭いよ。あの女も面倒見てねえようだし。俺の子供じゃなかったらぶっ殺してるところだ」
「男の子ってどこでも元気なものなのね」
かちゃん、とドアが開かれる。私を先に入れると男はドアを閉めてしっかりと鍵をかけた。
「そっちにも、男の子が?」
「ええ。私は後妻だから、主人の連れ子なのだけど」
「大変だね」
「そうね」
サイドボードに荷物を置こうとしたところで、後ろから抱きすくめられる。私の内側に入りたい両腕が私の外側をまさぐる。されるがままにおとなしくしていると、つるりとセーターを剥がれてしまった。私が自分で脱ぐより早い。私が啓太郎君の服を脱がすのにはあんなに時間がかかるのに、どうなっているのだろう。私が首を傾げていると、ぐいと硬くなったものを後ろから押しつけてくる。
「男ってのはいつだって元気なものなのさ」
「そう?」
するりと腕から逃れると男は憮然として顔をしかめていた。つい、笑ってしまう。
「私の前の奥さんも、こうやって他の男の人と遊んでいたらしいわ」
「はあ……なんでそんな男と結婚したんだ?」
「見合いで、一番条件が良かったのよ。ねえ……シャワー、浴びましょう。私も行くから」
「そうだな。最低限の礼儀だった」
「ええ。今日は長い一日なんだから、楽しまないと」
ひとまず欲望を押さえつけたらしい男は、するすると自分の服を脱いで裸になった。ついでとばかりに私の服まで脱がせてしまう。服を脱がせる才能というものがあるのだな、と思いながら私は肌を晒した。エレベータに乗っていたときと同じように、男は私の肩を抱いてシャワーに向かう。こうしていると男の心音がより一層はっきりと感じられる。先に浴室に入り、私は男がシャワー室を閉めるのを待っていた。最期のドアを、男は微笑みすら浮かべて自分で閉めた。
「しかし旦那も哀れだな。最初の妻も二人目の妻も、他の男に抱かれるなんて」
そうでもないわ、と私は言った。
家のドアを開けると、ちょうど啓太郎君がお風呂からあがったところだった。身体はしっかり拭いてあるものの、はだかんぼうのままだ。私を見た啓太郎君は怪物でも見たかのように目をまん丸にしていた。
「し……静夜さん?」
「ただいま、啓太郎君。お父さんは?」
「帰って来たの? なんで? なんで?」
「早く帰って来たっていいでしょう?」
靴を脱いで玄関に上がると、湯気を立てた身体がどんとぶつかってきた。
「啓太郎君?」
「あ、あのね静夜さん、僕ね、僕、静夜さんが帰ってこないかと思って、おっ、お母さんみたいに、帰ってこないかと思ってっ」
「心配してくれたの? 大丈夫。お弁当作るって約束したでしょ?」
「う、うん……おん、おぐぅっ、おがえりっ」
「ただいま、啓太郎君」
顔をくしゃくしゃにして泣きだした啓太郎君を抱いていると、啓一さんがようやく奥から出てきた。啓太郎君と一緒で目をまん丸にしている。
「どうしたんだ?」
「思ったより用事が早く終わったから帰って来たの」
啓太郎君の小学校から配られていたプリントに書かれている通りにしたら、小さな彼はあっさりついてきた。ハンバーガーを与えたら嬉しそうに食べていた。食い出もなかったから、人にも食事にも飢えていたのだろう。食は満たしているつもりだが、啓太郎君もまだ人には飢えていたようだ。泣きじゃくる彼を抱きしめながら、私は啓一さんに微笑んだ。