前編
「ひははははは、よく俺様が見破れたなシャイニングウルフよ!」
「おまえが誰に化けていても、俺だけには分かるんだ! もう悪いことはやめろ、ダークウルフ!」
「だったら力づくで止めてみろ。戦うのが宿命だ、ひははははは!」
日曜日の朝、ぼくはいつも早起きをする。
平日もこのくらい寝起きがいいと助かるのにね、なんて呆れ顔のママを放っておいて、七時前にはリビングのテレビの前に座る。パパはまだ寝ている時間だからチャンネルを変えられる心配はないけれど、早いに越したことはなかった。
テレビ画面の右上の時計が七の数字に変わると同時に、かっこいいテーマソングが流れて、ぼくの大好きな『守護戦獣シャイニングウルフ』が始まるんだ。
「航、ちょっと離れて観なさい。目が悪くなっちゃうでしょ」
ママはぼくを無理やりソファに座らせて、朝ごはんの支度を始める。そのうちにパパが起きてきて、
「おっ、今週も観てるな。面白いか?」
と、あくびをしながらぼくの頭を撫でるが、ぼくは返事もせずに三十分間テレビに釘づけだ。
『守護戦獣シャイニングウルフ』は『闇のちから』を追って別の世界からやってきた戦士だ。ピカピカした金色のスーツ――甲冑っていうらしい――とオオカミみたいな顔のついたヘルメットを身に着けて、人知れず戦っている。
『闇のちから』はこれまでにたくさんの世界を滅ぼしてきた巨大な悪で、そのボスがダークウルフ。シャイニングウルフによく似た甲冑姿だけど、全身が真っ黒で、目と口元だけが血みたいに赤い。ヤツは悪の心をもった人間につけ込んで身体を乗っ取るのが得意なんだ。毎週いろんな人に乗り移っては悪いことを企んで、それをシャイニングウルフが見破って戦って、止める。
でもシャイニングは正義の味方だから、ダークに操られてる人間を傷つけることができない。ひははははは、って気持ちの悪い声で笑いながら人間を盾にするダークは、本当に嫌な奴だ。ぼくはいつもテレビの前でやきもきしながら見守っている。
最後にシャイニングが『聖剣ファングブレイド』をかざしてダークを追い出し、必殺技でやっつけるまで目が離せないのだった。毎週、倒しきれずにダークを逃がしてしまうんだけど。
「パパ! ダークはシャイニングの弟だったんだよ!」
夏休みに入って最初の日曜日、今日の放送で明らかになった衝撃の事実を、ぼくは興奮してパパに報告した。口からパン屑が零れて、ママが顔をしかめる。
「へーえ、最近のお子さま向け特撮番組の設定は凝ってんなあ。シャイニングとダークは敵同士なんだろ? 兄弟なの?」
「そう! ダークウルフは悪の心が強かったから『闇のちから』に引っ張られたんだって」
パパはあんまり興味がなさそうで、のんびりとコーヒーを啜って新聞に目を落とした。ぼくにとっては大事件なのに。
「シャイニングは悩んでるんだ。悪い奴でも弟だから戦うのは嫌なんだって。ぼくだったらやっつけちゃうのになあ。シャイニングが本気出せばいっぱつで倒せちゃうのに。ファングブレイドでずばっ、て」
「あんまり怖いこと言わないでよ、航」
ママが食べ終わった食器を重ねながら嫌な顔をした。パパはにやりとして、
「航はきょうだいがいないから分かんないんだよな。弟が欲しいってママに頼んでみ」
「いらないよう、そんなの」
大きな手で髪の毛をくしゃくしゃとやられて、ぼくは椅子から逃げ出した。ママはやっぱり嫌な顔をしている。さっきとはちょっと違う感じの嫌な顔だった。
「ごはん終わったら、朝のうちに宿題のドリル済ませなさい。明日から修二おじさんが来てくれるんだから、分かんないとこはちゃんと訊くのよ」
「はーい」
ぼくは駆け足でダイニングを横切り、二階の自分の部屋へと階段を上った。返事はしたけれど、宿題を始める気はあんまりなかった。
「シャイニングウルフは面白いよね。どんな人間にも悪の心があるってことを真正面から描いてる。大人が観ても考えさせられるよ」
真面目な顔で言いながら、修二おじさんは『聖剣ファングブレイド』を手に取った。パパとママに半年間おねだりして、先月の誕生日に買ってもらったぼくの宝物だ。手元のボタンを押すと「グワオー」とオオカミの吠える声がして、剣全体が光って、おじさんはちょっとびっくりしたようだった。
「おおっ、よくできてんなこれ」
「いいでしょー。光の司祭の祝福で進化した後のモデルなんだ!」
「ほんとだ。柄にラインが入ってる」
ママはどっちでも同じでしょなんて言ってたけど、形も模様も全然違う。こっちを買ってもらってよかった。修二おじさんはそこのところがよく分かっているから、ぼくは嬉しくなった。
修二おじさんはパパの弟だ。おじさんといってもパパよりだいぶ年下で、大学六年生。何だか難しい研究をしているらしい。すっごく頭がよくって、だから会社に勤めるより勉強をしていたいんだって。
「研究もいいけど、まず生活をちゃんとしろ。そうだ、夏休みの間、航の勉強を見てやってくれ。そしたらちょっとは規則正しい生活ができるだろ。時給も出すぞ」
パパの提案で、この夏、おじさんはぼくの家庭教師になった。普通だったら嫌だなあと思うところなんだろうけど、ぼくはウキウキした。おじさんは大人なのにヒーローやアニメに詳しくて、小学二年生のぼくと話が合うんだ。勉強が終わった後には、街のゲームセンターに行ったりプールに行ったり、一緒に遊んでくれる。
今日も算数のドリルと漢字の書き取りを早々に終わらせ、ぼくたちはベッドに腰かけてシャイニングウルフの話をしていた。
「ねえおじさん、誰にも悪の心ってあるの?」
「あるよ。生まれた時からみんな持ってる」
「ママやパパや、ぼくにもある?」
「たぶんね。僕にだってある。でもそれに負けないように、日々戦ってるのさ。ダークウルフにつけ込まれないようにね」
「ダークが来たら、ぼくこれでやっつけてやるんだ」
ぼくがファングブレイドを振り上げて「グワオー」とやると、おじさんは細い目をさらに細くして笑った。
パパと修二おじさんは兄弟だから、やっぱりよく似ていた。パパをもう少しスリムにして、髪の毛を長めにした感じ。笑顔はおんなじに見えた。
「なあに? 賑やかね」
お盆を持ったママが部屋に入って来た。暑いから、窓を開けて扇風機をつけて、部屋のドアは開けっ放しにしている。はしゃいでたのが聞こえちゃったかも、とぼくは慌てて勉強机に戻った。
おじさんは焦る様子もなく、
「もう今日のノルマは終わったよ。航、頭いいから。中学は私立も狙えるんじゃないかな」
「修くんにそう言ってもらえると心強いわ。今度塾の相談に乗ってくれない? 庸一さん、まだ早いだろって、そういうことにあまり熱心じゃなくて」
「兄貴は昔から体育会系だったからなあ」
ママは肩を竦めて、お盆をカラーボックスの上に置いた。つやつやした紫色のブドウがガラスのお皿に盛られている。
「頂きものだけど、よかったらどうぞ。お昼も食べていってね」
「いつもすいません。おかげで夏バテにならないよ。僕も義姉さんみたいに料理上手な奥さんが欲しいなあ」
「その前にまず彼女でしょ」
おじさんが恥ずかしそうに頭を掻くと、ママはうふふと笑った。何だかくすぐったくなる声だ。ママは珍しくスカートを穿いていて、ふんわりとお化粧のいい匂いがした。
でも部屋を出ていく前に、ちゃんとおじさんの言うこと聞くのよ、と僕に言い残した厳しい顔は、いつも通りのママだった。
修二おじさんが来てくれるおかげで、夏休みの宿題はどんどんはかどった。
ドリルや学習ノートはお盆までにおおかた終わってしまって、残りは毎日の絵日記と、工作と、自由研究だけだ。自由研究は、おじさんのアドバイスで近所に棲んでいる昆虫について調べることにした。どんな場所にどんな虫がいるのか、地図とイラストにまとめるんだ。
本当はシャイニングウルフの必殺技の研究がしたかったんだけど。
ぼくの住んでいる所には、畑や林やため池がいっぱいある。お米や野菜を作っている農家が多くて、クラスメイトの半分くらいは田んぼを持っている家の子だった。昆虫を捕まえる場所には不自由しない。
虫捕り網と虫かごを持って、ぼくはあぜ道を走り回った。おじさんももちろんつき合ってくれて、ツクツクボウシのとまっている木やバッタのいる茂みを教えてくれた。
同じクラスのタカちゃんやヤッシーが加わることもあって、僕たちは競って虫を追いかけた。
虫の苦手なママは、虫かごの中を見て毎回悲鳴を上げていた。
「義姉さん大丈夫だよ、絵を描いたら逃がすから」
「絶対に庭には放さないでよ!」
ママは怒ってるような怖がってるような表情で、おじさんの背中に隠れた。まるでからかわれたクラスの女子のような反応で、ぼくはお腹を抱えて笑った。
ギラギラした太陽とソーダ水みたいに透き通った青空の下、その年の夏は駆け足に過ぎていった。
「航はずいぶん黒くなったなあ」
会社から帰ったパパは感心したようにぼくを眺めて、冷えたビールを飲む。大人は夏休みがなくてかわいそうだ。
「修二のやつ、意外と子供好きなんだな」
「二学期からも、続けて航の勉強を見てもらえないかしら? 時給を上げてもいいんじゃない?」
「うーん、大学が始まるとあいつも忙しくなるだろうからなあ」
パパとママはそんなふうに話していて、ぼくは本当にそうなればいいのにと願ってしまう。修二おじさんはパパの弟だけど、ぼくのお兄さんになってくれればいいのに。
その時のぼくはまだ知らなかったんだ――おじさんがとんでもない秘密を隠していたことに。
八月最後の月曜日は登校日だった。
この日までになるべく宿題を仕上げて、学校に持って来るように言われていた。去年はたくさん残してしまって、休み最後の二、三日が大変だったけど、今年は違う。自由研究も工作も、堂々と先生に提出してやった。
学校は午前中で終わって、ぼくはタカちゃんとヤッシーと一緒に通学路を帰った。久し振りに背負うランドセルは重く、肩に食い込むようだった。あと一週間で長かった夏休みも終わるんだと思うと、胸の中に暗い雲がかかったようだった。眩しい空とは正反対だ。
ぼくたちはその後、家には帰らずにタカちゃんの家に遊びに行った。タカちゃんの家はトマトやキュウリを作っている農家で、広い庭に犬のロンがいる。今日はタカちゃんのママが特製トマトカレーを食べさせてくれることになっていた。
タカちゃんの家に着くと、タカちゃんのパパが慌てて玄関から出てきた。
「おばあちゃんが畑仕事の最中に倒れたんだ。隆司、病院に行くぞ」
熱中症、っていうやつ。おばあちゃんは救急車で病院に運ばれて、おばさんも一緒に付き添って行ったらしい。せっかく来てくれたのにごめんな、とおじさんはタカちゃんを軽トラックに乗せて、病院へ行ってしまった。
ぼくはヤッシーと一緒にしばらくロンをからかって遊んでいたけれど、じきつまらなくなって、家に帰ることにした。
お昼はタカちゃんちで食べることにしていたから、ママはぼくのごはんを用意していないだろう。ピザを注文してくれないかなあなんて期待して、ヤッシーと別れ、家に着いた。
ガレージを見て、あれ、と首を傾げた。パパの通勤用のワンボックスカーは出払っていて、ママの黄色い軽自動車だけが残っている。その隣の空いたスペースに、銀色の自転車がとまっていた――修二おじさんの自転車だ。
おじさん、今日は来ないはずだった。お昼ごはんだけ食べにきたのかな、とぼくはちょっと嬉しくなった。昨日放送のシャイニングウルフの話をしなくちゃならない。シャイニングはついにダークと対決する決心をしたんだ。
玄関は普段通り鍵が開いていて、ぼくはそおっと中に入った。ママはぼくがこんなに早く帰って来ると思っていないだろうから、びっくりさせてやろうと考えたのだ。
明るい外から入ってくると、家の中は普段よりもずっと暗く見える。床の色も壁の色も濃く見えて、何だか別の家に入ってしまったようだ。顔に汗が流れて、早く冷たい麦茶が飲みたかった。
リビングからテレビの音が聞こえる。お昼のニュースだ。ぼくは足音を立てないように廊下を歩いて、リビングの引き戸の前に辿り着いた。
いっきに開けて驚かせてやろう! ぼくは戸に手を掛けたが、ふと、誰かの声が聞こえてきて動きを止めた。
女の人の高い声――泣いてるみたい。細くて震えていて、途切れ途切れに聞こえる。よく耳を澄ませると、苦しそうな息遣いまで感じた。
リビングで誰かが泣いてる。だとしたらママが泣いてるんだ。
ぼくはそろそろと戸を開けて、細い隙間から中を除いた。
右側にテレビがあって、真面目な顔をしたアナウンサーがニュースを読んでいる。その後ろは窓なんだけど、今は分厚いカーテンがぴったりと閉められていた。
反対側にはクリーム色のソファがある。ママと修二おじさんは、そこにいた。
ぼくは大きく目を開けた。声を上げそうになったが、乾いた喉に粘っこいものが貼りついて、声は出なかった。
おじさんはママをソファに押しつけて、その上にまたがっていた。腕を握ったり胸を掴んだり足を持ち上げたり、狭いソファの上でママの身体を乱暴に動かしている。その度にママは悲鳴を上げて荒く息を吐いた。小さい女の子が泣くようなか細い声だ。
「お……お願い修くん……もう許して……早く……」
「まだだよ……もっと楽しもうよ。ねえ、僕と兄貴と、どっちがいい?」
「いや……意地悪……」
「ちゃんと答えてよ、義姉さん。どっちが上手?」
ママがまた声を上げた。すごく苦しそうな声だ。尻尾を踏んづけられたロンが上げた悲鳴を、ぼくは思い出した。
二人ともなぜか半分くらい裸になっていて、ソファの下に服が散らかっていた。ママのオレンジ色のスカートが床にふわっと広がっていて、やけに目立った。
二人が何をしているのかよく分からなかったけれど、ママが苦しんでいることだけは確かだった。別の人みたいに顔を歪めて、目を固く瞑って、口をパクパクさせている。
ママを助けなくちゃ――ぼくは決心して、一度離した手を戸口に掛けた。
「ひははははは、無駄だあ!」
気味の悪い笑い声が響いて、ぼくは辺りを見回した。この声はよく知っている、あいつだ!
それは、ママにのしかかって変な動きを繰り返しているおじさんの背中から聞こえてきた。おじさんは黒っぽいシャツを着たままで、その皺がはっきりとあいつの顔を描いていた。
真っ黒いオオカミ。目と口だけが血みたいに赤い。
「この男は俺様の言いなりだ!」
おじさんが身体を揺らす度にあいつの口が開いて、恐ろしい声でぼくに怒鳴る。
「俺様が乗っ取ってやったのさ。この女は痛めつけて食ってやるぞ。ひははははは!」
黒い顔は醜く歪んで、それでも口をぐにゃぐにゃと動かして笑っていた。
ママが甲高い呻き声を上げる。白い腕が助けを求めるように伸びて、おじさんの背中に回された。あいつの赤い口がその腕にかぶりつく。
ママが食べられてしまう!
でも僕は怖くて足が震えて、どうしても中に入って行くことができなかった。ぼくが何もできないと分かっているのか、あいつはギラつく目でぼくを睨んだままずっと笑っていた。
「悔しかったら俺様を倒してみろ、クソガキ。おまえのような弱虫にはできないだろうがな」
僕は耳を押さえ目を瞑って、ゆっくりと後ずさりした。足の震えが全身に伝わって、床がぐらぐら揺れている気がした。
「私もう……駄目……」
ママの悲しそうな声が聞こえたけれど、ぼくは玄関までそのまま下がっていって、回れ右をし、一目散に外へ逃げ出した。