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女神の心臓  作者: 瑞原チヒロ
~其れは幼き心の傍らに~ プロローグ
1/69

プロローグ

 時の流れの一切が、そこにはないようだった。


「人はこの場所を“とこわかの森”と呼ぶ――」


 森。そう、そこは森だ。数え切れないほどの樹木が空間を満たしている。視界に映るのは悠然と揺れる木の葉。支える幹の太さ、地面の茶色の土にさえ、みずみずしさがただよう。

 今は冬――

 木々を包むのは底冷えするような冷たい空気。けれど森の色彩は衰えを知らない。春も夏も秋も冬も、木々かれらは若々しい。

 気温や太陽の陽差し――そんな森の“外”から与えられるものだけが、季節を知らせてくれる。

 変化しない樹木たちにとって、四季の移り変わりというものが、どれほどの意味があることなのか……


「そう……季節は隠されたまま」


 森は静かだった。動物の息吹のないこの森は、真の意味で静かだ。

 彼が足を踏み入れたときでさえ―何にも気づかないかのように、何も変わらずに。

 ――否。


「気づけない―お前たちは」

 それが契約だ。


 豊かな葉が邪魔をして、空はよく見えない。しかし光は完全に遮られることはない。

 木の葉の隙間から、木漏れ日が降る。

 ――朝方の、白い陽光。

 外の光が森の表情を変えていく。

 深い色、明るい色。グラデーションがもっともあざやかなるこの時間――


「昼でもなく、夜でもなく……この時が必要だった」


 彼は森を進んでいく。ゆっくりと。のんびりと。

 誰もこの歩を止められないことを、彼は知っている。

 何とはなしに足が止まった。

 出口の見えない森が、彼の視界に広がっている。無限。永遠。そんな言葉が、脈絡もなく脳裏に浮かび上がってくる。


「それこそがお前たちの望みだった」


 風が吹くように自然に、彼は進んだ。

 やがて彼の耳に触れたのは水音だった。足を一歩踏み出すにつれ大きくなっていくそれの正体は、ほどなく知れた。

 森の源は川。そんな法則は、この森にさえ共通する。

 川は大きかった。流れのゆるやかさゆえに迫力はないが、この場所には似合いだったに違いない。静かな森には、静かな水の流れが相応しい。

 ほとりで足を止める。

 橋などかかっているはずもない。向こう岸は遠すぎる。たとえ越えたところで、その先に広がっているのはやはり樹木の世界だ。

 顔を上向けると、ここでだけ空がたしかに見える。下には川がある。彼はうっすらと笑みを浮かべた。

 まるでこの場所だけ別世界だ。


「それが、お前たちの誤算」


 声に、振り向いた存在があった。

 川の上流からいつの間にか現れた“それ”は、川のまさしく上空にふわふわと浮いていた。いや、その先がのびて川とつながっている。川からはえていると言ったほうがいいのだろうか。

 奇妙な風体だった。透き通るように透明だというのに、輪郭がたしかに見える。人間の女のような風貌だ。振り向くと同時にゆれたのは、人で言えば髪だろうか。

 まるで水のように透き通ったその何かは、彼に気づいて顔色を変えた。しかし、行動を起こそうとした刹那に――

 彼と視線を合わせた刹那に、凍りついたように動かなくなった。

 ――動けなくなった。


「この川の主は、お前か」

 彼は微笑む。どこか優しげに。

 そして、おもむろに自らの左手を持ち上げた。

 こちらを凝視したまま動けなくなった透明な女の瞳に、かげりが見えた。彼が何をするのかはかりかねたのだろう。

 彼は、次に右手を服の中に入れ――そして出した。

 朝日を受けて、取り出された短刀の鋼がきらりと光った。

 その刃を左腕に当てて、囁くように言葉を紡ぐ。透明な女を見つめたまま。

 ――お前ひとりで充分だ。

 女の瞳に恐怖の色が浮かんだ。その瞳に自分の姿が映っていることを、彼は確信していた。おそらく、彼の姿はこの森ではあまりに異質だっただろう。

 彼の髪の色。瞳の色。

 それは闇の漆黒。

 そしてすべらせた刃によって流れ落ちたのは、あまりにもあざやかな真紅。

 ぽたり、と赤いしずくが川面かわもをうった。

 女が、音にならない絶叫をあげた。それに引きずられるようにして、ようやく森がざわめきだした。

 風に揺らされた音ではない。まるで意思を持つ何かのように強く、激しく。

 森から静寂が消えた。

 神秘の川が、熱く鮮烈な赤に侵食されていく。

 彼は、笑った。




ときが動き出した――

 もう、止めることはできない」





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