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時空吸引のりこさん

掲載日:2026/04/03

『時空吸引のりこさん ―10年後のホコリを愛した女―』


第一章:運命の「シュゴォォォ」


「……そこよ、逃がさないわよ」


埼玉県のとある住宅街。野原のりこ(45歳)は、獲物を狙う鷹のような鋭い眼光で、リビングのソファの裏を睨みつけていた。

右手には、数ヶ月前に「これからは吸引力の時代よ!」とヒロシを説得して購入した、最新型のサイクロン掃除機『ダイソン・ゴージャス・MAX』が握られている。


のりこの掃除に対する情熱は、もはや趣味の域を超えていた。彼女にとってホコリとは、平穏な家庭生活を脅かす「悪」であり、掃除機はそれを浄化するための「聖剣」だった。


「あら、こんなところにパチンコ玉……じゃないわね、これ。銀色の……ボタン?」


ソファの最深部。ノズルの先端が、奇妙に発光する銀色の粒に触れた。その瞬間だった。


(シュゴォォォォォォォ……!)


掃除機が聞いたこともないような高周波の音を立て始めた。ダストカップの中で、今まで吸い込んだはずの綿ゴミや髪の毛が、銀色の粒子と混ざり合い、小さな銀河のような渦を形成していく。


「ちょっと、これ高いんだから! 変な音出さないでよ!」


のりこがノズルを引き抜こうとしたが、逆に強力な力でソファの裏へと引きずり込まれた。

「えっ、ちょ、嘘!? 待って待って!」

抵抗も虚しく、彼女の体は物理法則を無視してスパゲッティのように細く引き伸ばされ、直径わずか五センチのノズルの中へと、ズボォォォン! と音を立てて吸い込まれてしまった。


視界が真っ白になり、バラの花の香りと、なぜか使い古した雑巾の匂いが交互に鼻を突く。のりこの意識は、そこで一度途絶えた。


第二章:シルバー・フューチャー


「……痛たた。もう、安売りの時に買ったストッキングが電線しちゃったじゃない」


のりこが目を覚まし、最初に確認したのは自分の脚だった。幸い、電線はしていたものの、体は元の形に戻っている。

しかし、立ち上がって周囲を見渡した彼女は、息を呑んだ。


「なに……ここ。私の家……よね?」


間取りは見慣れた我が家のリビングだ。しかし、あまりにも「質感」が違った。

壁紙は落ち着いたベージュから、光を鈍く反射するメタリックシルバーに張り替えられ、窓の外には空飛ぶのようなものがビュンビュンと飛び交っている。


「パパ? ヒロシさーん!」


不安に駆られて叫ぶと、廊下からガチャリと音がした。現れたのは、近未来的なパワードスーツに身を包んだ、一人の男だった。

その顔には見覚えがある。しかし、決定的に違うポイントが一点。


「……のりこ? のりこなのか!?」


男がヘルメットを脱ぐと、そこには10年分老け込んだヒロシがいた。そして、10年前は「まだ粘れる」と言い張っていた彼の頭頂部は、今や見事な鏡面仕上げ。一点の曇りもない「着陸準備完了」状態となっていた。


「ヒ、ヒロシさん……。あんた、その頭……。掃除機で吸いすぎちゃったの?」

「バカ言え! これは経年劣化だ! っていうか、お前……! 10年前の大掃除の日、掃除機と一緒に消えちまって……! 警察からは『高次元吸引事故』として処理されてたんだぞ!」


ヒロシの話によれば、現在のアカデミズムでは「稀に掃除機の吸引力が特異点を作り、時空の門が開くことがある」というのが常識になっているらしい。のりこは10年後の未来へ、一気にジャンプしてしまったのだ。


「10年……。じゃあ、私は10年間も掃除をサボっていたってこと?」

「心配するところはそこかよ!」


第三章:主婦の矜持、未来を撃つ


ヒロシは涙を流して再会を喜んだ。彼はこの10年、のりこが戻ってくるのを信じて、この家を守り続けてきたという。

しかし、のりこの耳に彼の感動的なエピソードは半分も入っていなかった。


彼女の視線は、部屋の隅を優雅にホバリング(浮遊)している最新型掃除ロボット『ルンバ・ギャラクシー10』に釘付けになっていた。


「ねえ、ヒロシさん。あの浮いてる円盤は何?」

「ああ、あれか? 最新の全自動清掃システムだよ。プラズマでホコリを分解するから、人間が掃除する必要なんてないんだ」


「ふーん……」


のりこはスッと、そのロボットの背後に回り込んだ。そして、サッシの隙間に指を差し込み、スッと横に滑らせる。

指先には、うっすらと、しかし確実に、灰色の「綿ゴミ」が付着していた。


「……ヒロシさん」

「ん? どうしたんだい、そんな怖い顔して」


「全然、なってないわ」


のりこの声が低く響く。リビングの温度が数度下がったような錯覚に、ヒロシは身震いした。


「未来だかプラズマだか知らないけど、結局は機械任せじゃない! 見てよ、このサッシの溝! この『かど』! 10年分の甘えがここに凝縮されてるわ!」


「いや、それは未来の建材が……」

「言い訳無用! 雑巾! 雑巾とバケツ、それからマイペット(強力版)を持ってきなさい!」


「10年後の世界にはそんなアナログなもの……」

「あるはずよ! 倉庫の奥の、あの段ボールの中に!」


のりこは未来の感傷を完全にゴミ箱へ放り捨てた。彼女にとって、未来がどうなっているかよりも、目の前のホコリが許せなかった。

彼女は四つん這いになり、10年前と変わらぬ手つきでサッシの溝をカリカリとやり始めた。


「これよ……この手応え。機械には分からない、このホコリとの対話が大事なのよ」


ヒロシは呆然と立ち尽くしていた。10年ぶりに再会した妻が、感動の抱擁もそこそこに、未来のハイテク住宅でひたすら「爪で溝を掃除」している。


「あーもう! この空飛ぶテレビの下も! 静電気でホコリを呼び寄せてるじゃない! 浮かせてる意味がないわよ!」


のりこの猛攻は止まらない。彼女はかつて自分が愛用していた、今は「骨董品」として飾られていた旧式の掃除機を引っ張り出してきた。


「ヒロシさん、コンセント! ……あ、今はワイヤレス給電なのね、便利じゃない。スイッチ、オン!」


第四章:ホコリが繋ぐ、昨日と明日


(シュゴォォォォォォォ……!)


再び、あの高音が響き渡る。

のりこは、10年分の恨み……ではなく、10年分のホコリを吸い取るべく、渾身の力でノズルを動かした。


「吸いなさい! 未来のホコリも、過去の未練も、全部まとめて私の掃除機が飲み込んであげるわ!」


「のりこ、危ない! またその音が——!」


ヒロシが叫んだときには遅かった。ダストカップの中が再び銀色に輝き始める。10年後の未来で吸い込んだ「プラズマ混じりのホコリ」が、掃除機のモーターと未知の化学反応を起こしたのだ。


「ちょっと! まだこの角が残ってるのよ! 離しなさいよ、この掃除機!」


「のりこ、掃除機を捨てろ! またどっかに飛ばされるぞ!」


「嫌よ! 掃除を途中で放り出すなんて、野原家の名が廃るわ!」


銀色の光は渦となり、のりこと、そしてなぜか彼女が必死に握りしめていた「サッシの綿ゴミ」を飲み込んでいった。


「のりこォォォォ!」


ヒロシの悲痛な叫びと、彼の寂しくなった頭頂部の輝きを最後に、のりこの意識は再びホワイトアウトした。


第五章:ただいま、現実


「……りこ。のりこ、大丈夫か?」


頬をペシペシと叩かれる感触で、のりこは目を覚ました。

視界が晴れると、そこには見覚えのある、まだ「フサフサ」だった頃のヒロシが、心配そうにこちらを覗き込んでいた。


「ヒロシ……さん?」

「ああ、良かった。急に掃除機持ったまま倒れるからびっくりしたよ。音がすごかったけど、壊れたのか?」


のりこはガバッと起き上がり、周囲を確認した。

壁紙は落ち着いたベージュ。テレビは分厚く、地面にしっかりと設置されている。窓の外には空飛ぶ車なんて一台もいない。


「……戻ったのね。私、戻ったのね!」


のりこはヒロシに抱きつこうとして、ふと自分の手を見た。

右手には、しっかりと掃除機のノズル。そして左手の中には、未来から無意識に持ち帰ってしまった、あの「サッシの綿ゴミ」が握られていた。


「あら、これ……」


のりこが掌を開くと、未来のホコリは現在の空気に触れた瞬間、パッと光り輝いて消えてしまった。まるで、10年後の未来が夢だったかのように。


「どうしたんだよ、のりこ。変な顔して」


「ううん、なんでもないわ。ただね、ヒロシさん……。あんた、これから10年、頭皮のケアには気をつけたほうがいいわよ。あと、掃除を機械任せにするのは100年早いわ」


「え? なんだよ急に……」


のりこは立ち上がり、再び掃除機のスイッチを入れた。

その音は、今はもう普通の「ブォォォン」という音に戻っている。


「さあ、掃除の続きよ! 10年後のあなたに、綺麗な家を残してあげなきゃいけないんだから!」


のりこの掃除機捌きは、以前よりも一層鋭さを増していた。

10年後の未来を見てきた主婦は強い。彼女は知っているのだ。どんなに科学が進歩しても、最後には「人間の手によるカリカリ掃除」が勝利するということを。


掃除機のダストカップの中で、今日吸い込んだばかりのホコリたちが、のりこの情熱に押されるように激しく回転していた。


(完)

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