第8話 返却、頭ぽん、そして追加の飴
朝の温泉街は、昨夜の熱を少しだけ残している。
露天風呂の湯けむりが白くのぼり、土産物屋のシャッターががらがらと上がり、川沿いの道を犬が歩いている。
わたしは旅館の玄関前で深呼吸した。
布のケースの中に、CDはきちんと収まっている。
昨夜、あの曲は“完全再生”した。
もう二行じゃない。全部だ。
それだけで十分なのに――今日は返しに行く。剛さんのところへ。町内会のラスボスへ。
「緊張してる?」
真白が聞く。昨日みたいに、変に静かな声。
「してる」
「砦守ってる?」
「砦は今、関係ない」
「関係あるよ。剛さん、砦崩すと追うよ」
「追うのはCDの傷だよ!」
真白は笑って、でもすぐ真面目な顔に戻った。
「莉子、ちゃんと返すんだよ」
「当たり前じゃん」
「当たり前をやれるの、すごいよ」
「……またそれ」
「またそれ。あたし、今、それ好き」
わたしは返事に困って、ケースを持つ手に力を入れ直した。
軽いのに、重い。
音楽って、そういうものだ。
剛さんの家は、スナック春灯からさらに少し奥、町の人が通る裏道の先にあった。
門が低くて、庭が手入れされていて、なぜか“ちゃんとしてる”圧がある。
インターホンを押す前に、もう胃がきゅっとした。
ピンポーン。
『……誰だ』
低い声。
心臓が跳ねる。インターホン越しでも圧があるって何。
「昨日の、莉子です。CDを返しに……」
沈黙。
真白が横で、なぜか背筋を伸ばしている。面接みたいに。
『……開けとけ』
ガチャ、と門が開いた。
わたしたちは「失礼します」と揃って言い、敷石を踏む。
玄関の扉が開いて、剛さんが立っていた。相変わらず強面。相変わらず肩幅。相変わらず眉が太い。
だけど今日は、エプロンをしていた。
それだけで世界観が崩れる。
「……朝から、すみません」
わたしが言うと、剛さんは短く言った。
「いい」
短いけど、怒ってない。
わたしは布ケースを両手で差し出した。
「お借りしました。傷、つけてません」
「当たり前だ」
「……はい」
「返事は腹から」
「はい!」
真白が吹き出しそうになって、咳で誤魔化した。
剛さんはケースを受け取ると、そこから盤面を取り出さず、布の上から軽く手で押さえた。
まるで、中身がちゃんと“いる”か確認するみたいに。
「……聴けたか」
「聴けました。全部」
わたしの声は自然にまっすぐになった。
剛さんは一瞬だけ目を細めて、そして、たった一言。
「よくやった」
それだけなのに、背中が温かくなる。
圧がある人の褒め言葉は、短いほど効く。薬みたいに効く。
次の瞬間。
剛さんが、わたしの頭に手を置いた。
ぽん。
軽い。雑。
でも、確実に“撫でる”の範囲。
わたしは固まった。
「えっ」
声が出る。
剛さんは顔をしかめたまま言った。
「驚くな。娘にやってる」
「娘に……」
「お前にも、やっていい」
理屈が強引すぎるのに、妙に優しい。
真白が小声で言う。
「激甘じゃん」
「言うな!」
「でも言いたい!」
剛さんは真白を見た。
真白の方が先に目を逸らす。珍しい。
剛さんの圧は、真白にも効く。
「お前」
「は、はい」真白が即答した。
「昨日、店で騒いでたな」
「騒いで……ないです」
「騒いでた」
「……騒いでました」
「返事は素直でいい」
剛さんは、眉間に皺を寄せたまま、なのに口調だけ少し緩めた。
「莉子を、無理させるな」
「させてないです!」
「させてる」
「……させてるかも」
「分かればいい」
真白が胸に手を当てて、大げさに言った。
「ラスボスに説教された」
「ラスボス言うな」
「でも今の、愛の説教だった」
「うるさい」
剛さんは踵を返して、玄関の脇に置いてあった小さな紙袋を持ってきた。
昨日と同じ、かわいいキャラクター柄。
嫌な予感がする。いや、いい予感か。甘い予感。
「……これ」
剛さんが、わたしに袋を押し付けた。
「えっ、また?」
「まただ」
「娘さん用の……」
「娘には別だ」
即答。潔い。甘い。甘すぎる。
袋の中身を覗くと、個包装の焼き菓子と、ゼリーと、なぜか小さなスポーツドリンクが入っていた。
謎のチョイス。
でも、分かる。ここまで来ると分かる。
これは「旅でちゃんと食え」という圧だ。
剛さんは怖い顔のまま言った。
「糖分と水分は大事だ」
「……はい」
「返事は腹から」
「はい!」
真白が腹を抱えて笑った。
「剛さん、返事コーチ」
「うるさい」
剛さんは真白にも袋を一つ差し出した。
「お前にもだ」
「えっ」
真白が固まる。
「……え、いいんですか」
「昨日、店で手拍子してた」
「してました!」
「なら、いい」
理屈が雑なのに、結果が優しい。
真白は袋を受け取って、しばらく見つめた。
そして、ぽつりと言った。
「……あたし、こういうの、慣れてない」
声が小さい。
剛さんは一瞬だけ眉を動かし、怖い顔のまま言った。
「慣れろ」
「はい」
「返事は腹から」
「はいっ!」
わたしは笑ってしまった。
真白も笑う。
剛さんは笑わない。でも、目がほんの少しだけ柔らかい。
圧のまま甘い。圧で包んで甘やかす。すごい技術だ。
剛さんは紙袋の口を軽く押さえ、わたしに言った。
「……父親に言ったか。曲、見つかったって」
「メッセしました」
「返ってきたか」
「返ってきました。『莉子は大丈夫だ』って」
言った瞬間、胸がまた温かくなる。
剛さんは短く頷き、低い声で言った。
「いい父親だ」
それは評価じゃなくて、同じ立場の人が出す“確認”みたいだった。
そして最後に、剛さんはわたしを見下ろして言った。
「帰り、気をつけろ」
「はい」
「返事は腹から」
「はい!」
真白がわたしの肘をつついて囁く。
「莉子、腹から返事、上達してる」
「上達したくてしてない」
「でもいいじゃん。背中押される系」
門を出ると、温泉街の光が少し眩しかった。
手には紙袋。
心には曲。
そして頭には、さっきの“ぽん”の感触が、まだ残っている。
真白が小さく言った。
「……ねえ莉子」
「なに」
「剛さんの甘やかし、なんか、うれしい」
「うん」
「でもさ」真白は袋を抱えたまま、いつもの調子で笑う。「あたし、あんな圧、家族に出されたら逃げる」
「逃げるな」
「でも、莉子は逃げない」
「逃げなかっただけ」
「それがすごいって言ってんの」
わたしは返事をせず、歩いた。
坂道を下る。
昨日は必死で探した坂道。今日は、少しだけ軽い。
帰りの準備をしなきゃいけない。
旅は終わる。
でも、応援歌は終わらない。
配信が消えても、町が持っていた。人が持っていた。
そして今は――わたしの中で、いつでも鳴る。
真白が急に言った。
「莉子」
「なに」
「好き」
「また練習?」
「うん。練習」
「……受け止めるよ」
「やった」
「やったじゃない」
温泉街の朝は、湯けむりみたいに柔らかい。
わたしたちはその中を歩きながら、ちゃんと日常に戻る準備をしていく。
(つづく)




