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明日は、まだここにある  作者: 科上悠羽


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第7話 深夜の旅館、布団の上の完全再生

 旅館の廊下は夜になると音が減る。

 人の気配が薄くなって、畳が吸い込むように静かで、遠くの川の音だけが残る。

 わたしと真白はスナック春灯を出て、夜風に少しだけ酔いそうになりながら、宿へ戻った。


 手には、剛さんから預かったCD。

 布のケースに入れられていて、厳重すぎて宝石みたいだ。

 そしてもう片手には、剛さんが押し付けてきた娘用の甘いお菓子。

 圧と飴を同時に渡される経験、人生で初めてだ。


「剛さん、マジで最高だった」

 真白がぽつりと言う。スナックのテンションのままじゃない、落ち着いた声。

「怖かったけど?」

「怖いのに甘いの、ずるい。あれ、莉子のパパ属性に近いよね」

「近くないよ。パパはあんな圧、かけない」

「え、でも莉子が危ないことしたら、絶対圧かける」

「……たぶん、かける」

「ほらー」


 真白はにやっと笑って、次の瞬間、浴衣の帯に指をかけた。

 わたしの脳内で警報が鳴る。


「砦」

「砦守ってるよ?」

「守ってない指の位置」

「部屋だからいいじゃん」

「まだ廊下!」

「廊下は半分部屋」

「廊下は社会!!」


 わたしが真白の手を掴むと、ちょうど曲がり角から女将さんが現れた。

 わたしは反射で直立した。

 真白も、びくっとして手を引っ込める。


「お帰りなさいませ」

 女将さんはにこやかに言った。

 その目が、真白の襟元と帯の“ゆるさ”に一瞬止まり、そして、ふわっと優しく逸らされた。

 プロの気遣い。ありがたい。刺さる。


「お楽しみいただけましたか?」

「はい……!」

 わたしが答えると、真白が元気よく続けた。

「歌ってきました!」

「……歌?」女将さんが首を傾げる。

「カラオケ! 町内会の剛さんと!」

「剛さん……」

 女将さんの表情が一瞬だけ固まった。

 そして、すぐに営業スマイルに戻る。


「それは……お元気そうで何よりでございます」

 元気そうで何より、の中に、いろんなものが詰まっている気がした。

 町内会の剛さん、やっぱりラスボスだ。


 部屋に入った瞬間、わたしは肩の力が抜けた。

 畳の匂い。布団。湯のみ。窓の外には、夜の川。

 ここは部屋。ここは社会じゃない。砦は……まあ、油断すると崩れるけど。


「さあ」真白が手を叩いた。「完全再生タイム!」

「落ち着いて。まず、CDを無事に取り出す」

「取り出す! 解放!」

「解放って言わない!」


 わたしは机の上に布ケースを置き、慎重に開いた。

 盤面は暗い天井の光を反射して、静かに光っている。

 触るのが怖い。傷がついたら、町内会が追う。


「莉子、手、洗ってから触りな」

 真白が急に真面目に言った。

「……え、真白が?」

「だって剛さん、追うって言ってた」

「追われる恐怖が行動を変えるんだ」

「圧、すごい」


 わたしは手を洗い、タオルで拭き、ケースを両手で持った。

 旅館のテレビ台の下に、小さなDVDプレイヤーがある。たぶん、CDも読めるタイプ。

 剛さんほどの機材じゃない。でも“新品に近い盤面”なら、いけるはず。


「お願いだから、読んで」

 わたしが呟くと、真白が「祈り方かわいい」と笑った。

「かわいくない」

「かわいい。普通の顔で必死」

「その言い方やめて」


 カチッ。

 トレイが閉まる。

 表示が「READ」に変わる。


 ……読んで。

 ……今度こそ。


 数秒。

 液晶が、曲番号を示した。


「いけた……!」

 声が漏れた。

 真白が両手を上げて「勝った!」と叫び、わたしが「声!」と言う。

 でも今日は、声が出てもいい。部屋だから。


「再生するよ」

 わたしはリモコンのボタンを押した。


 イントロが流れた。


 ——ああ。これだ。


 最初の音で、世界の輪郭が変わる。

 畳の部屋が、車内になる。

 窓の外の夜の川が、夕方の国道になる。

 パパの手が、ハンドルを叩く。


 わたしは息を吸って、歌詞が始まる前に、すでに胸がいっぱいになっていた。

 だけど、沈まない。暗くならない。

 むしろ、上がってくる。

 “今日も行ける”っていう気持ちが、底から湧いてくる。


♪――


 ボーカルが入る。

 言葉が、ちゃんと前に進む。

 止まらない。飛ばない。

 サビが来る。


♪――負けんなよ、って 誰かが言った――

♪――明日は、まだ ここにある――


 今度は、二行で終わらない。

 続きが来る。

 ちゃんと、続きが。


 わたしは、その瞬間、笑ってしまった。

 涙じゃなくて、笑いだ。

 取り戻せたことが、嬉しすぎて、身体が勝手に笑う。


「莉子、笑ってる」

 真白が言う。

「笑うよ」

「いい顔」

「真白、褒めるの慣れてない?」

「慣れてない。慣れてないけど、言いたい」


 曲が部屋に満ちて、布団が少しだけ震える。

 スピーカーの音は大きくないのに、心臓の方が鳴っているみたいだ。


 わたしはスマホを手に取った。

 パパに、もう一回連絡したくなった。

 でも、さっき電話したばかりだ。

 代わりにメッセージを打つ。


『例の曲、見つけた。今、温泉街で流れてる』


 送信。

 すぐに既読がついて、返事が返ってきた。


『おお! やるじゃん。楽しめ。莉子は大丈夫だ』


 大丈夫だ。

 その言葉が、曲のサビと同じ場所に落ちた。

 背中を押される感じ。

 わたしは深呼吸して、スマホを置いた。


 真白は布団に転がって、天井を見ていた。

 普段なら、ここで何かしら解放しそうなのに。

 今日は、しない。


「真白、どうしたの。静か」

「……曲、いいね」

「でしょ」

「莉子が欲しがるの、分かる」

 真白はゆっくり言った。

「でも、あたしが欲しかったのは、曲じゃないかも」


 わたしは手を止めた。

 曲のAメロが流れている。

 真白の声が、その上に乗る。


「莉子ってさ、好きなものがあるじゃん。守ってるじゃん。ブレないじゃん」

「ブレてるよ」

「ブレてない。ブレてるのは仕事の顔だけ。好きのところはブレない」

「……真白、観察が雑なのに当たる」

「運動で鍛えてる」

「何を」

「直感」


 真白は起き上がって、布団の上で正座した。

 浴衣の襟元が、ちゃんと閉じている。

 それが逆に、真白の真剣さを際立たせる。


「莉子は、パパが好きでしょ」

「……うん」

「それも、羨ましい。家族が好きって言えるの、羨ましい」

「真白は、ママとかパパとか」

「嫌いじゃない。でも、好きって言うと、なんか負けた気がする」

「負け?」

「うん。好きって言ったら、相手に主導権渡すみたいで」

 真白は困った顔で笑った。

「考えるの嫌いなのに、こういうのだけ考えちゃう」


 わたしは何も言えなくなった。

 真白が普段見せない“考える顔”をしている。

 それは、破綻していない。

 むしろ、すごくまっすぐだ。


「莉子はさ」

 真白が続ける。

「好きって言う時、ちゃんと自分の足で立ってる感じがする。依存じゃなくて、支え。そういうの、欲しい」

 言葉の温度が、少しだけ熱い。

 でも重くはない。真白は、湿っぽくならない人だ。


 わたしは曲の音量を少しだけ下げた。

 応援歌が、静かに後ろへ下がる。

 代わりに、部屋の空気が前に出る。


「……真白」

「ん」

「曲は、貸してあげられないけど」

「借りてるし」

「そうじゃなくて」

 わたしは笑って、続けた。

「好きの守り方は、少しずつ一緒に作れると思うよ」

「どうやって?」

「たとえば。今日みたいに」

「今日?」

「怖いけど、歌った。逃げなかった。そういうのが、真白の“支え”になる」

「支え……」

「支えは、音楽だけじゃない」


 真白はふっと笑って、布団に倒れた。

「莉子、編集者みたいなこと言う」

「なにそれ」

「人の背中押すの上手いって意味」

「……押されるのは上手いけど」

「押すのも上手い。今夜の歌、そうだった」


 わたしは照れて、枕を真白に投げた。

 真白が受け止めて笑う。

 この笑いがあるなら、暗くならない。

 大丈夫だ。


 曲は二番に入る。

 今度は、真白が小さく口ずさんだ。

 音程は雑。でも、楽しそうだ。


「ねえ莉子」

「なに」

「明日、剛さんに返しに行くじゃん」

「うん」

「その時、あたしも“好き”って言ってみる」

「誰に」

「……まだ分かんない。たぶん、家族」

「いいじゃん」

「でも、その前に」

 真白がにやっと笑う。

「莉子に一回言う。好き」

「急に!?」

「急に。練習」

「練習台にするな!」

「だって莉子、受け止めてくれる」

「……受け止めるけど!」


 真白は天井を見たまま、軽く言った。

「莉子、好き」

 あまりに軽いのに、ちゃんと温かい。

 わたしは笑って、返した。


「……真白も、好き」

「やった」

「やったじゃない」


 応援歌が、部屋を満たす。

 布団の上で、わたしたちは少しだけ強くなる。

 配信から消えた曲は、今ここで鳴っている。

 そして、真白の“欲しかったもの”も、たぶん、今ここで少しだけ形になった。


(つづく)

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