表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
明日は、まだここにある  作者: 科上悠羽


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/10

第6話 春灯の夜、強面の圧と飴

 夜の温泉街は、昼の顔を脱いで別の顔になる。

 提灯の橙色が路地を照らして、湯けむりが街灯に絡んで、観光客の笑い声が少しだけ大きくなる。

 わたしはその中を歩きながら、心臓だけ置いてきぼりになっている気がした。


「ねえ莉子、顔、固い」

「固いよ。固くなるよ」

「じゃあ解放しよ」

「解放しない!」

「冗談冗談。砦は守る」


 真白は“砦”という言葉を覚えてしまった。危険だ。覚えると使いたがる。

 ただ今日は、浴衣の帯も襟も、ちゃんと社会の範囲内に収まっている。偉い。偉いけど、それはそれで怖い。嵐の前の静けさみたいで。


 スナック春灯の前に着くと、看板の灯りがいつもより濃く見えた。

 ガラガラ、と扉を開けると、空気が一気に“夜”になる。

 酒と甘い香水と、カラオケの機械が温まる匂い。

 客席は満員に近く、昨日の昼とは別世界だった。


「いらっしゃい」

 ママがカウンターの中から手を上げた。

「お嬢ちゃんたち、来たね。ほら、約束。歌うか、皿洗いか」

「歌います……」

 わたしが言うと、店内の視線が一斉にこちらへ向いた。


 その視線は、意外と温かい。

 好奇心と、面白がりと、少しの期待。

 でも温かい視線って、逃げ道がない。


「若い子だ!」

「観光?」

「浴衣かわいいねえ」

「おお、二人組か」


 真白が、太陽みたいに手を振った。

「こんばんはー! 観光でーす!」

 いきなり店の空気に溶けるの、ほんとにすごい。

 わたしは溶けない。角に残る氷みたいに固まる。


 ママがグラスを並べながら言った。

「二人ともお酒はダメよ。ジュースにしな」

「わーい!」真白が言い、即座に「でも解放感ほしい」と続ける。

「解放感は炭酸で取りな!」

「炭酸、解放」

「言葉の使い方が雑!」


 笑いが起きる。

 助かる。笑いがあると、わたしの緊張が少しだけほどける。


 その時、店の奥の席が、妙に“重く”なった。

 誰かが入ってきたわけじゃない。

 いる。すでに、いる。

 そこにいる人の存在感が、夜の空気を押す。


 奥のソファ席。

 腕を組んで座っているのは、強面のおじさんだった。髪は短く、眉は太く、肩幅がある。笑っていないのに怖い。

 でも、その隣に、小さな手提げ袋と、かわいいストラップが乗っている。ギャップが過ぎる。


 ママが小声で言った。

「来てるよ。町内会のごうさん」

「ごう……さん?」

 わたしが聞き返すと、真白が目を輝かせた。

「ラスボスっぽい」

「言うな!」


 ママがふっと笑う。

「ラスボスで合ってる。あの人、町の行事ぜんぶ仕切ってる。怖いけど、娘には激甘」

「娘……」

 胸がちくっとする。

 わたしはパパの顔を思い出して、すぐ打ち消した。今は歌。今夜は歌。


 ママが手を叩いた。

「はい、じゃあ約束通り。お嬢ちゃんたち、先に一曲いっとく?」

 店内が「おお」と沸く。

 わたしの胃が「うう」と鳴る。


 真白がマイクを取り、わたしの背中を押した。

「莉子、先に行く? あたし先?」

「……先、お願い」

「任せて。事故らないやつで」


 真白が画面を操作し、テンポのいい曲を入れた。

 そして歌う。上手い。明るい。客席の手拍子を引き出すのが上手い。

 真白はほんとに、場の空気を運動みたいに扱える。考えるのが嫌いな代わりに、“今”で勝つ。


 歌い終えると拍手。

 真白が息を弾ませて、マイクをわたしに渡した。


「はい、莉子の番」

「……来た」

「来た。砦守って。呼吸して。普通で殴る」

「殴らない!」


 わたしはマイクを持った。

 指が冷たい。喉が乾く。

 曲を入れる。――探している“本命”じゃない。まだ本物は、ママが鍵をかけている。

 でも“近い空気”の応援歌を入れて、常連の反応から情報を引き出す。

 目的は情報。目的は曲。目的は……曲。


 イントロが流れる。

 わたしは一拍置いて、歌い出した。

 声は震える。けれど昨日の文化会館よりは出た。ここは怖いけど、客席が“敵”じゃない。

 歌は、応援歌。

 言葉が、背中を押す形をしている。


 サビに入った瞬間、店の奥の“重さ”が動いた。

 強面のおじさん――剛さんが、腕をほどき、こちらを見た。

 目が合った気がして、心臓が跳ねた。


 剛さんは、怖い顔のまま、頷いた。

 たった一回。

 それだけで、わたしは少しだけ落ち着いた。

 なにこれ。圧が、逆に支えになってる。


 歌い終えると拍手が起きた。

 ママが「いいじゃない。ちゃんと届く声」と言ってくれた。

 わたしは頭を下げる。顔が熱い。でも、逃げたくはない。


 その時、低い声が店内を割った。

「――おい」


 空気が、ぴしっと固まる。

 剛さんだ。

 客席の何人かが姿勢を正す。ママさえも、少しだけ背筋を伸ばした。


 剛さんは怖い顔のまま、顎でわたしを指した。

「お嬢ちゃん。今の、そこじゃない」

「……そこ、ですか?」

 声が裏返りそうになるのを必死で堪える。


「応援歌を歌うなら、腹からいけ」

「す、すみません……」

「謝るな。謝る声は出てる。出るなら、歌も出る」


 圧が強い。

 でも、言ってることが筋だ。

 わたしは反射で「はい」と返事をしてしまう。


 真白がわたしの横で小声で言った。

「うわ、パワハラじゃないのに圧がパワハラ」

「言うな!」

「でも嫌いじゃない」

「わたしも、嫌いじゃないのが悔しい!」


 剛さんが立ち上がり、ゆっくりこちらへ歩いてきた。

 近づくほどに分かる。体が大きい。声が低い。眉が太い。

 そして――手に、コンビニの小袋を持っている。かわいいキャラクターの袋。

 ギャップで脳が混乱する。


 剛さんはカウンターに袋を置き、ママに言った。

「ママ。娘が好きなやつ、取っといてくれ」

「はいはい。剛さん、今日も娘さんに甘いねえ」

「うるさい」

 言い方は怖いのに、袋の中身は絶対に娘用。


 剛さんはそのまま、わたしと真白を見る。

「観光か」

「はい」真白が元気よく言う。「曲を探してます!」

 わたしが止めるより早い。


「曲?」

 剛さんの眉が少しだけ動いた。


「配信から消えた応援歌で……どうしても聴きたくて」

 わたしが言うと、剛さんは一瞬だけ目を細めた。

 ――知ってる。たぶん。

 この町の“お父さんたち世代の鉄板”。


「……あの二行のサビのやつか」

 わたしの背中がぞわっとした。

「ご存じなんですか」

「娘に聴かせた」

 短い。重い。

 でも、言い方が、少しだけ柔らかい。


 真白が前のめりになる。

「ねえ剛さん! その曲、CD持ってる人いませんか!」

「いない」

「えっ」

 即答に、わたしの心が沈みかける。


 剛さんは続けた。

「持ってるのは、俺だ」

 わたしの心が、反対方向に跳ねた。


「……え」

「え?」真白も同時に言う。

 客席が「おお」とざわめく。ママが「ほらねえ」と笑う。


「貸してくれますか!」真白が言い、次に「走って取ってくる?」と言いかけた。

「走るな!」

「走らない! でも早歩き!」

「定義を守れ!」


 剛さんは、怖い顔のまま、わたしを見る。

「貸す」

「……!」

「ただし、条件がある」


 来た。条件。

 わたしは背筋を伸ばした。ここで逃げたら、また二行に戻る。


「なんでもします」

 言ってしまった。

 真白が「言い方!」と小声で突っ込む。


 剛さんは、わたしの言葉に一瞬だけ口元を緩めた。ほんの一ミリ。

「なんでも、は言うな。危ない」

 正論すぎて反論できない。


「条件は二つだ」

 剛さんは指を二本立てた。


「一つ。今夜ここで、その曲を歌え」

「えっ」

 心臓が跳ねた。

 でも、これは予想していた流れだ。ママの条件と同じ。町の中に入るって、そういうこと。


「二つ」

 剛さんの目が、さらに鋭くなる。

「歌ったら――お前の親に、ちゃんと連絡しろ」

「……連絡?」

「旅行中だろ。心配してる。特に父親は」

 剛さんの声が、急に“父親”の声になる。


 わたしの胸がきゅっとした。

 パパの顔が浮かぶ。毎朝「気をつけろよ」と言う声。

 普段なら照れて流すのに、今夜は素直に刺さる。


「……はい」

「返事は腹から」

「はい!」


 客席が笑う。

 剛さんは怖い顔のまま、満足そうに頷いた。


 ママが手を叩いた。

「じゃあ決まり! 剛さんの“娘に聴かせた曲”、今夜ここで復活ね!」

 客席が拍手と口笛を鳴らす。

 わたしの胃が、また「うう」と鳴る。

 でも、逃げ道はない。

 逃げない。逃げないで、ここまで来た。


 剛さんがポケットから何かを取り出した。

 小さな布のケース。

 それを、カウンターの上に置く。

 丁寧すぎる扱いで分かる。大事なものだ。


「これが、ディスクだ」

 剛さんは言った。

「傷をつけたら、町内会全体で追う」

「追うって」

「追う」

 真白が目を輝かせる。

「町内会、怖い!」

「怖いだろ」

「でも、愛がある!」

「うるさい」


 剛さんは布ケースを開け、盤面を見せた。

 きれいだ。さっきの寄付CDより、ずっと。保管が完璧。

 たぶんこの人、娘関連のものは全部こうだ。


「……すごい」

 わたしが呟くと、剛さんは一言だけ言った。

「甘いんだよ、俺は」

 その言葉が、妙に誇らしげで、妙に照れくさそうだった。


 ママが最終兵器のデッキを指した。

「剛さん、うちので再生する?」

「いや」

 剛さんは即答して、顎で店の奥を示した。

「うちの方が、読み取りが強い」

 え。家に?

 真白が「家!?」と叫びそうになり、わたしが肘で止める。


 剛さんは続けた。

「だが、ディスクは店から出さない。ここで聴く」

「……できますか?」

「できるようにする」

 言い切りが強い。圧が強い。なのに、ちゃんと甘い。

 この圧と飴の配合、ずるい。


 剛さんがわたしにマイクを差し出した。

「歌え」

 短い。逃げ道ゼロ。


 わたしはマイクを握った。

 真白が隣で囁く。

「莉子。腹から。砦守って。目、合わせて」

「砦は関係ない!」

「関係ある。緊張すると解放したくなる」

「真白の話だよね!?」


 客席が笑う。

 剛さんは笑わない。でも、目が少しだけ優しい。

 きっと、娘が歌う時も、こんな顔をする。


 ママが機械を操作し、画面に曲が出た。

 曲名はここでは出さない。

 でも、イントロが流れた瞬間――わたしの世界が、全部それになった。


 来た。

 あの音。

 あのスピード。

 車内の空気。パパの指。信号待ちの夕焼け。


 わたしは息を吸って、歌い出した。

 震えは、最初の一行で消えた。

 腹から出す、ってこういうことなんだと分かった。

 声が、前に出る。自分の胸を突き抜けて、客席に届く。


 サビ。

 わたしは、二行だけじゃなく、全部を歌った。

 歌いながら、気づく。

 この曲は応援歌だけど、押すだけじゃない。

 「お前はここにいていい」と言ってくれる曲だ。


 歌い終えると、拍手が店を揺らした。

 真白が泣きそうな顔で笑っている。

 ママが「ほら、歌えた」と頷く。

 常連のおじさんたちが「いい声だ」「腹から出てた」と口々に言う。


 そして剛さんが、怖い顔のまま、ゆっくり頷いた。

「よし」

 それだけ。

 なのに、胸がいっぱいになる。


 剛さんは布ケースを閉じ、わたしに言った。

「CDは貸す。明日の昼までだ」

「明日……」

「返しに来い。嘘は嫌いだ」

「はい」

「返事は腹から」

「はい!」


 笑いが起きる。

 剛さんは怖い顔のまま、カウンターに手をついて言った。

「あと」

 圧が戻る。

「今すぐ、父親に連絡しろ」

「今すぐ!?」

「今すぐ」

 言い方は容赦ないのに、内容は完全に甘やかしだ。


 真白が小声で言った。

「圧かけながら甘やかすの、才能だね」

「やめて聞こえる」


 剛さんはスマホを出し、わたしに向かって顎をしゃくった。

「ここで。見えるところで」

「監督みたいになってる……」


 でも、わたしはスマホを開いた。

 パパの名前。

 指が少しだけ震える。

 通話ボタンを押すと、呼び出し音の向こうで、すぐに声がした。


『おう、莉子? どうした?』

「……ううん。旅行、着いたよって」

『おお、よかった。楽しめよ。真白ちゃんと一緒か?』

「うん。今、スナックにいる」

『……スナック?』

 パパの声が一瞬だけ固まって、次に笑った。

『まあ、無茶すんなよ。帰り、気をつけて』

「うん」


 電話を切ると、剛さんが「よし」と一言言って、カウンターに置いてあった小袋をわたしに押し付けた。

「娘用に買ったが、今日は特別だ。糖分は大事だ」

「えっ、いいんですか」

「いい」

「娘さんの……」

「明日また買う」

 即答。甘い。甘すぎる。


 真白が「剛さん、最高」と拍手し、剛さんが「うるさい」と返す。

 そのやり取りが、店の空気をさらに明るくした。


 わたしは小袋を抱えながら思った。

 配信から消えた曲は、ここにあった。

 町の中に残っていて、人の中に残っていて、誰かの娘に渡され続けていた。

 わたしはそれを、ちゃんと取り戻した。二行じゃなく、全部で。


 真白がわたしの肩に頭をぶつけてきた。

「莉子、歌、めちゃくちゃ良かった」

「……ありがとう」

「ねえ、あたしにもさ。家族の曲、作って」

「作るって」

「莉子の好きの守り方、分けて」

 真白の声が、珍しく静かだった。


 わたしは笑って、頷いた。

「……じゃあ、まずは温泉街のテーマソングでも決めよう」

「いいね。走れるやつ」

「走るな」

「早歩き」

「定義守れ!」


 春灯の夜は、湯けむりみたいにあたたかくて、少しだけ目が潤む。

 でも沈まない。

 背中を押す音が、ちゃんとここにあるから。


(つづく)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ