第6話 春灯の夜、強面の圧と飴
夜の温泉街は、昼の顔を脱いで別の顔になる。
提灯の橙色が路地を照らして、湯けむりが街灯に絡んで、観光客の笑い声が少しだけ大きくなる。
わたしはその中を歩きながら、心臓だけ置いてきぼりになっている気がした。
「ねえ莉子、顔、固い」
「固いよ。固くなるよ」
「じゃあ解放しよ」
「解放しない!」
「冗談冗談。砦は守る」
真白は“砦”という言葉を覚えてしまった。危険だ。覚えると使いたがる。
ただ今日は、浴衣の帯も襟も、ちゃんと社会の範囲内に収まっている。偉い。偉いけど、それはそれで怖い。嵐の前の静けさみたいで。
スナック春灯の前に着くと、看板の灯りがいつもより濃く見えた。
ガラガラ、と扉を開けると、空気が一気に“夜”になる。
酒と甘い香水と、カラオケの機械が温まる匂い。
客席は満員に近く、昨日の昼とは別世界だった。
「いらっしゃい」
ママがカウンターの中から手を上げた。
「お嬢ちゃんたち、来たね。ほら、約束。歌うか、皿洗いか」
「歌います……」
わたしが言うと、店内の視線が一斉にこちらへ向いた。
その視線は、意外と温かい。
好奇心と、面白がりと、少しの期待。
でも温かい視線って、逃げ道がない。
「若い子だ!」
「観光?」
「浴衣かわいいねえ」
「おお、二人組か」
真白が、太陽みたいに手を振った。
「こんばんはー! 観光でーす!」
いきなり店の空気に溶けるの、ほんとにすごい。
わたしは溶けない。角に残る氷みたいに固まる。
ママがグラスを並べながら言った。
「二人ともお酒はダメよ。ジュースにしな」
「わーい!」真白が言い、即座に「でも解放感ほしい」と続ける。
「解放感は炭酸で取りな!」
「炭酸、解放」
「言葉の使い方が雑!」
笑いが起きる。
助かる。笑いがあると、わたしの緊張が少しだけほどける。
その時、店の奥の席が、妙に“重く”なった。
誰かが入ってきたわけじゃない。
いる。すでに、いる。
そこにいる人の存在感が、夜の空気を押す。
奥のソファ席。
腕を組んで座っているのは、強面のおじさんだった。髪は短く、眉は太く、肩幅がある。笑っていないのに怖い。
でも、その隣に、小さな手提げ袋と、かわいいストラップが乗っている。ギャップが過ぎる。
ママが小声で言った。
「来てるよ。町内会の剛さん」
「ごう……さん?」
わたしが聞き返すと、真白が目を輝かせた。
「ラスボスっぽい」
「言うな!」
ママがふっと笑う。
「ラスボスで合ってる。あの人、町の行事ぜんぶ仕切ってる。怖いけど、娘には激甘」
「娘……」
胸がちくっとする。
わたしはパパの顔を思い出して、すぐ打ち消した。今は歌。今夜は歌。
ママが手を叩いた。
「はい、じゃあ約束通り。お嬢ちゃんたち、先に一曲いっとく?」
店内が「おお」と沸く。
わたしの胃が「うう」と鳴る。
真白がマイクを取り、わたしの背中を押した。
「莉子、先に行く? あたし先?」
「……先、お願い」
「任せて。事故らないやつで」
真白が画面を操作し、テンポのいい曲を入れた。
そして歌う。上手い。明るい。客席の手拍子を引き出すのが上手い。
真白はほんとに、場の空気を運動みたいに扱える。考えるのが嫌いな代わりに、“今”で勝つ。
歌い終えると拍手。
真白が息を弾ませて、マイクをわたしに渡した。
「はい、莉子の番」
「……来た」
「来た。砦守って。呼吸して。普通で殴る」
「殴らない!」
わたしはマイクを持った。
指が冷たい。喉が乾く。
曲を入れる。――探している“本命”じゃない。まだ本物は、ママが鍵をかけている。
でも“近い空気”の応援歌を入れて、常連の反応から情報を引き出す。
目的は情報。目的は曲。目的は……曲。
イントロが流れる。
わたしは一拍置いて、歌い出した。
声は震える。けれど昨日の文化会館よりは出た。ここは怖いけど、客席が“敵”じゃない。
歌は、応援歌。
言葉が、背中を押す形をしている。
サビに入った瞬間、店の奥の“重さ”が動いた。
強面のおじさん――剛さんが、腕をほどき、こちらを見た。
目が合った気がして、心臓が跳ねた。
剛さんは、怖い顔のまま、頷いた。
たった一回。
それだけで、わたしは少しだけ落ち着いた。
なにこれ。圧が、逆に支えになってる。
歌い終えると拍手が起きた。
ママが「いいじゃない。ちゃんと届く声」と言ってくれた。
わたしは頭を下げる。顔が熱い。でも、逃げたくはない。
その時、低い声が店内を割った。
「――おい」
空気が、ぴしっと固まる。
剛さんだ。
客席の何人かが姿勢を正す。ママさえも、少しだけ背筋を伸ばした。
剛さんは怖い顔のまま、顎でわたしを指した。
「お嬢ちゃん。今の、そこじゃない」
「……そこ、ですか?」
声が裏返りそうになるのを必死で堪える。
「応援歌を歌うなら、腹からいけ」
「す、すみません……」
「謝るな。謝る声は出てる。出るなら、歌も出る」
圧が強い。
でも、言ってることが筋だ。
わたしは反射で「はい」と返事をしてしまう。
真白がわたしの横で小声で言った。
「うわ、パワハラじゃないのに圧がパワハラ」
「言うな!」
「でも嫌いじゃない」
「わたしも、嫌いじゃないのが悔しい!」
剛さんが立ち上がり、ゆっくりこちらへ歩いてきた。
近づくほどに分かる。体が大きい。声が低い。眉が太い。
そして――手に、コンビニの小袋を持っている。かわいいキャラクターの袋。
ギャップで脳が混乱する。
剛さんはカウンターに袋を置き、ママに言った。
「ママ。娘が好きなやつ、取っといてくれ」
「はいはい。剛さん、今日も娘さんに甘いねえ」
「うるさい」
言い方は怖いのに、袋の中身は絶対に娘用。
剛さんはそのまま、わたしと真白を見る。
「観光か」
「はい」真白が元気よく言う。「曲を探してます!」
わたしが止めるより早い。
「曲?」
剛さんの眉が少しだけ動いた。
「配信から消えた応援歌で……どうしても聴きたくて」
わたしが言うと、剛さんは一瞬だけ目を細めた。
――知ってる。たぶん。
この町の“お父さんたち世代の鉄板”。
「……あの二行のサビのやつか」
わたしの背中がぞわっとした。
「ご存じなんですか」
「娘に聴かせた」
短い。重い。
でも、言い方が、少しだけ柔らかい。
真白が前のめりになる。
「ねえ剛さん! その曲、CD持ってる人いませんか!」
「いない」
「えっ」
即答に、わたしの心が沈みかける。
剛さんは続けた。
「持ってるのは、俺だ」
わたしの心が、反対方向に跳ねた。
「……え」
「え?」真白も同時に言う。
客席が「おお」とざわめく。ママが「ほらねえ」と笑う。
「貸してくれますか!」真白が言い、次に「走って取ってくる?」と言いかけた。
「走るな!」
「走らない! でも早歩き!」
「定義を守れ!」
剛さんは、怖い顔のまま、わたしを見る。
「貸す」
「……!」
「ただし、条件がある」
来た。条件。
わたしは背筋を伸ばした。ここで逃げたら、また二行に戻る。
「なんでもします」
言ってしまった。
真白が「言い方!」と小声で突っ込む。
剛さんは、わたしの言葉に一瞬だけ口元を緩めた。ほんの一ミリ。
「なんでも、は言うな。危ない」
正論すぎて反論できない。
「条件は二つだ」
剛さんは指を二本立てた。
「一つ。今夜ここで、その曲を歌え」
「えっ」
心臓が跳ねた。
でも、これは予想していた流れだ。ママの条件と同じ。町の中に入るって、そういうこと。
「二つ」
剛さんの目が、さらに鋭くなる。
「歌ったら――お前の親に、ちゃんと連絡しろ」
「……連絡?」
「旅行中だろ。心配してる。特に父親は」
剛さんの声が、急に“父親”の声になる。
わたしの胸がきゅっとした。
パパの顔が浮かぶ。毎朝「気をつけろよ」と言う声。
普段なら照れて流すのに、今夜は素直に刺さる。
「……はい」
「返事は腹から」
「はい!」
客席が笑う。
剛さんは怖い顔のまま、満足そうに頷いた。
ママが手を叩いた。
「じゃあ決まり! 剛さんの“娘に聴かせた曲”、今夜ここで復活ね!」
客席が拍手と口笛を鳴らす。
わたしの胃が、また「うう」と鳴る。
でも、逃げ道はない。
逃げない。逃げないで、ここまで来た。
剛さんがポケットから何かを取り出した。
小さな布のケース。
それを、カウンターの上に置く。
丁寧すぎる扱いで分かる。大事なものだ。
「これが、ディスクだ」
剛さんは言った。
「傷をつけたら、町内会全体で追う」
「追うって」
「追う」
真白が目を輝かせる。
「町内会、怖い!」
「怖いだろ」
「でも、愛がある!」
「うるさい」
剛さんは布ケースを開け、盤面を見せた。
きれいだ。さっきの寄付CDより、ずっと。保管が完璧。
たぶんこの人、娘関連のものは全部こうだ。
「……すごい」
わたしが呟くと、剛さんは一言だけ言った。
「甘いんだよ、俺は」
その言葉が、妙に誇らしげで、妙に照れくさそうだった。
ママが最終兵器のデッキを指した。
「剛さん、うちので再生する?」
「いや」
剛さんは即答して、顎で店の奥を示した。
「うちの方が、読み取りが強い」
え。家に?
真白が「家!?」と叫びそうになり、わたしが肘で止める。
剛さんは続けた。
「だが、ディスクは店から出さない。ここで聴く」
「……できますか?」
「できるようにする」
言い切りが強い。圧が強い。なのに、ちゃんと甘い。
この圧と飴の配合、ずるい。
剛さんがわたしにマイクを差し出した。
「歌え」
短い。逃げ道ゼロ。
わたしはマイクを握った。
真白が隣で囁く。
「莉子。腹から。砦守って。目、合わせて」
「砦は関係ない!」
「関係ある。緊張すると解放したくなる」
「真白の話だよね!?」
客席が笑う。
剛さんは笑わない。でも、目が少しだけ優しい。
きっと、娘が歌う時も、こんな顔をする。
ママが機械を操作し、画面に曲が出た。
曲名はここでは出さない。
でも、イントロが流れた瞬間――わたしの世界が、全部それになった。
来た。
あの音。
あのスピード。
車内の空気。パパの指。信号待ちの夕焼け。
わたしは息を吸って、歌い出した。
震えは、最初の一行で消えた。
腹から出す、ってこういうことなんだと分かった。
声が、前に出る。自分の胸を突き抜けて、客席に届く。
サビ。
わたしは、二行だけじゃなく、全部を歌った。
歌いながら、気づく。
この曲は応援歌だけど、押すだけじゃない。
「お前はここにいていい」と言ってくれる曲だ。
歌い終えると、拍手が店を揺らした。
真白が泣きそうな顔で笑っている。
ママが「ほら、歌えた」と頷く。
常連のおじさんたちが「いい声だ」「腹から出てた」と口々に言う。
そして剛さんが、怖い顔のまま、ゆっくり頷いた。
「よし」
それだけ。
なのに、胸がいっぱいになる。
剛さんは布ケースを閉じ、わたしに言った。
「CDは貸す。明日の昼までだ」
「明日……」
「返しに来い。嘘は嫌いだ」
「はい」
「返事は腹から」
「はい!」
笑いが起きる。
剛さんは怖い顔のまま、カウンターに手をついて言った。
「あと」
圧が戻る。
「今すぐ、父親に連絡しろ」
「今すぐ!?」
「今すぐ」
言い方は容赦ないのに、内容は完全に甘やかしだ。
真白が小声で言った。
「圧かけながら甘やかすの、才能だね」
「やめて聞こえる」
剛さんはスマホを出し、わたしに向かって顎をしゃくった。
「ここで。見えるところで」
「監督みたいになってる……」
でも、わたしはスマホを開いた。
パパの名前。
指が少しだけ震える。
通話ボタンを押すと、呼び出し音の向こうで、すぐに声がした。
『おう、莉子? どうした?』
「……ううん。旅行、着いたよって」
『おお、よかった。楽しめよ。真白ちゃんと一緒か?』
「うん。今、スナックにいる」
『……スナック?』
パパの声が一瞬だけ固まって、次に笑った。
『まあ、無茶すんなよ。帰り、気をつけて』
「うん」
電話を切ると、剛さんが「よし」と一言言って、カウンターに置いてあった小袋をわたしに押し付けた。
「娘用に買ったが、今日は特別だ。糖分は大事だ」
「えっ、いいんですか」
「いい」
「娘さんの……」
「明日また買う」
即答。甘い。甘すぎる。
真白が「剛さん、最高」と拍手し、剛さんが「うるさい」と返す。
そのやり取りが、店の空気をさらに明るくした。
わたしは小袋を抱えながら思った。
配信から消えた曲は、ここにあった。
町の中に残っていて、人の中に残っていて、誰かの娘に渡され続けていた。
わたしはそれを、ちゃんと取り戻した。二行じゃなく、全部で。
真白がわたしの肩に頭をぶつけてきた。
「莉子、歌、めちゃくちゃ良かった」
「……ありがとう」
「ねえ、あたしにもさ。家族の曲、作って」
「作るって」
「莉子の好きの守り方、分けて」
真白の声が、珍しく静かだった。
わたしは笑って、頷いた。
「……じゃあ、まずは温泉街のテーマソングでも決めよう」
「いいね。走れるやつ」
「走るな」
「早歩き」
「定義守れ!」
春灯の夜は、湯けむりみたいにあたたかくて、少しだけ目が潤む。
でも沈まない。
背中を押す音が、ちゃんとここにあるから。
(つづく)




