第5話 サビだけ戻ってきて、すぐ逃げた
スナック春灯の昼は、夜より静かなはずなのに、静かにならない。
静かにさせない生き物が、うちの隣にいるからだ。
「最終兵器ってさ、爆発する?」
「爆発しない」
「じゃあ安心」
「安心の基準が雑すぎる」
ママがカウンターの下から引っ張り出した黒い箱――年代物のCDデッキは、見た目だけで「動くの?」と心配になる風格だった。
ボタンは黄ばんでいて、スライドする蓋は少し重い。けれどママは慣れた手つきで配線を繋ぎ、スピーカーのつまみを回した。
「昔ね、これで常連の失恋を何度も救ったのよ」
「音楽で?」
「酒で」
「結局そっち!」
真白が肩を揺らして笑い、勢い余ってカウンターに肘をついた。浴衣の袖がずるっと落ちる。落ちる範囲が、危険。
わたしは反射で真白の袖を直した。
「砦」
「砦、守ってる」
「守るのは帯だけじゃない」
ママが「はいはい、仲良し」と言いながら、わたしの手からケースを受け取った。
わたしはその瞬間、手の中が急に冷たくなった気がした。
再生できないCD。
でも、ここなら。ここなら“読める”かもしれない。
「緊張してる?」真白が小声で聞く。
「してる」
「莉子、緊張すると顔が“ふつう”になるね」
「普段から普通だよ」
「普段は、普通の中に必死がいる」
「なにそれ」
真白の言葉はたまに意味が分からない。でも、嫌じゃない。
ママが盤面を取り出し、指先で軽く息を吹きかけた。
「表面、きれいね。でもね、見えない傷ってあるのよ」
「見えないのに傷って言えるの?」真白が言う。
「言える。だって、人生がそうでしょ」
「うわ、急に深い!」
「深いのが売りよ、うち」
ママは盤面をデッキに入れ、カチッと蓋を閉めた。
古い液晶がぼんやり光る。
「……読むかな」
わたしの声は、自分でも驚くほど小さかった。
ママが再生ボタンを押す。
カチ、という古い音。
デッキが息を吸うみたいに、短く機械音を鳴らす。
わたしは耳の奥を、全力で開けた。
イントロが来るなら、ここだ。
パパのハンドルを叩く音が、重なるはずだ。
しかし――。
流れたのは、イントロじゃなかった。
いきなり、サビだった。
♪――負けんなよ、って 誰かが言った――
♪――明日は、まだ ここにある――
「――っ!」
全身が熱くなった。
来た。来た。
これだ。
この跳ね上がる感じ。走り出す前の一拍。背中の真ん中を、ぐっと押される圧。
パパの車内。窓の外の夕焼け。信号待ちのサビ。変な親指。
わたしの喉が勝手に動き、息が音になる寸前だった。
――歌える。ここなら、歌えるかも。
なのに。
サビは、二行で途切れた。
「ガッ」と音がして、次の瞬間、別の曲の途中が流れた。
さらに「ガッ」。また別の曲。
まるで、温泉街の看板を高速で切り替えるみたいに、音が飛び、飛び、飛び――そして、無音。
デッキの液晶が、冷たく点滅した。
わたしの胸の中も、同じように点滅した。
「え、え、え、今の! 今の!」真白が椅子から立ち上がる。「サビ! サビだけ来た!」
「来た……」
わたしは頷いた。頷けた。それだけでも、救いだった。
ママが「やっぱりねえ」とため息をついた。
「読めるけど、安定しない。表面じゃなくて、中が弱ってる。温泉街、機械は壊すって言ったでしょ」
「言ってた……」
「最低すぎる真実」
真白がママに詰め寄った。
「でもさ、サビは流れたよね? ってことは、“聴ける”ってことだよね?」
「聴ける。“条件が揃えば”ね」
「条件ってなに?」
「まず、盤面のクリーニング。次に、読み取りが強い機械。あと、運」
「運は嫌い!」
「人生、だいたい運よ」
真白は「うう」と唸って、突然わたしの両肩を掴んだ。
「莉子、今の、泣きそうだった?」
「泣きそうじゃない」
「じゃあ、怒りそう?」
「……悔しい」
「よし。悔しいは燃料」
「燃料、万能すぎる」
「万能。だって、あたし、悔しいと走れる」
「走るな!」
わたしは笑いそうになって、すぐに笑えなくなった。
サビが流れた。たった二行。
でも、その二行が、わたしの中の“欲しいもの”を確定させた。
配信が止まっても、曲は消えない。
消えないのに、触れられないのが、一番悔しい。
「……ママ」
わたしはカウンターに手を置いた。
「この曲、町の人、けっこう知ってますよね」
「知ってるよ。お父さんたちの青春。娘に聴かせるタイプの曲」
ママはわたしを見て、少しだけ声を柔らかくした。
「お嬢ちゃんの家も、そう?」
「……うちのパパが、聴かせてくれました」
言ったら、胸の奥がきゅっとした。痛いけど、あたたかい。
真白が、いつもの元気を少しだけ落として言った。
「いいな。そういうの」
「真白?」
「家族の曲、ってやつ。あたし、そういうのない」
言い方は軽い。でも、目が軽くない。
わたしは返事に困って、代わりにスマホを握った。配信の画面。再生できない表示。
この一曲に、わたしはたしかに救われてきた。
真白はそれを「羨ましい」と言う。
羨ましい、の正体は、曲じゃなくて“守り方”なのかもしれない。
ママがカウンターを指でトントンと叩いた。
「ねえ、お嬢ちゃんたち。もう一つ手がある」
「手?」真白が顔を上げる。
「CDが弱ってるなら、別のディスクを探す。つまり、“同じ曲が入ってる別のコンピ”」
「別のコンピ……」
「あるよ。文化会館の寄付品は、一箱じゃない。春灯にも、リクエスト帳の横に置いてある」
ママは壁の棚を指した。そこには、古いCDケースが何枚も並んでいる。
「え、じゃあ最初からそっち——」
「最初から言うと、あなたたち、走るでしょ」
「走らないって言った!」
「走る顔してた」
ママが棚から一枚、ケースを抜いた。ラベルには同じように手書き。
『春灯リクエスト コンピ ②』
そして曲順の中に、わたしの探している“気配”がある。サビの二行が、確かにそこにいる。
「これ……!」
わたしの声が上ずる。
ママは「ただし」と言って、人差し指を立てた。
「これは常連の“宝物箱”でもある。勝手に持ち出したら、町の治安が終わる」
「治安って」
「終わる」
真白が真顔で頷く。「終わる」
ママはケースを閉じて、鍵付きの引き出しにしまった。
わたしの心臓が「えっ」と言った。
「貸してくれないんですか……?」
「貸す。条件がある」
ママはにっと笑った。スナックのママの笑い方だ。
「今夜、うちで“予選お疲れ会”しな。そこで一曲、歌う。お嬢ちゃんたち二人で」
「えっ」
「歌えないなら、代わりに皿洗い。常連の相手。おしゃべり。つまり、働く」
「労働だ」真白が言い、「労働よ」とママが返す。
わたしは固まった。
歌う? スナックで? 常連の前で?
無理、という言葉が喉まで上がってきた。
でも、同時に思った。
この町の人たちは、あの曲を“娘に聴かせるタイプの曲”として持っている。
なら、歌うことは、ただの恥じゃない。
この曲の居場所に、正面から入るってことだ。
真白がわたしの横で、こっそり囁いた。
「莉子。これ、チャンスだよ」
「……分かってる」
「歌うの怖い?」
「怖い」
「じゃあ、あたしが先に事故ってあげる」
「事故るな」
「事故る前提なの、やさしさ」
「やさしさの形が歪んでる!」
ママが「事故は店の外でね」と言って笑う。
その瞬間、店の奥の扉が開いて、キヨさんが入ってきた。昼間から顔が赤い。
「ママ〜、水……」
「水は出さない」
「じゃ、ウーロン」
「ウーロンは出す」
キヨさんは椅子に座り、わたしたちを見るなり眉を上げた。
「お、昨日のお嬢ちゃんたち。曲、見つかったか」
わたしは正直に答えた。
「サビだけ、聴けました。二行だけ」
「二行でも聴けたなら、もう勝ちだ」
「勝ち……?」
「その曲はな、聴けない時期があったんだ。昔も。権利だなんだで、いろいろあってな」
キヨさんがぽつりと言う。
わたしの背筋が伸びた。
「昔も、配信みたいに……?」
「配信じゃねえ。もっと前。テレビから消えた、とか、店でかけにくくなった、とか。そういうの」
キヨさんは遠い目をした。
「でもな、消えねえんだよ。いい曲ってのは」
真白が頷き、そして突然キヨさんに言った。
「ねえ、おじさん。常連って、何人いる?」
「なんだ急に。十人くらいだ」
「十人の中に、CD持ってる人、いる?」
「……いるかもな」
「やった!」
「やったじゃない」
真白がわたしに向き直って、勝利宣言みたいに言った。
「莉子。今夜、歌う。常連から情報を抜く。CDを借りる。曲を完全再生する」
「計画が速い!」
「考えるの嫌いだから、計画は短い」
「短い計画ほど事故るんだよ……」
真白は浴衣の袖をひらひらさせて、突然くるっと回った。
「じゃあ、衣装も完璧にしよ。解放しない方向で!」
「方向性が成長してる!」
「砦は守る!」
「守って!」
ママがカウンター越しに手を差し出した。
「じゃ、決まり。今夜ね。お嬢ちゃん、曲を取り戻したいなら、町の中に入っておいで」
その言葉は、スナックの営業トークみたいなのに、応援歌みたいに聞こえた。
わたしは小さく息を吸って、頷いた。
「……はい。歌います」
自分の声が、自分の耳に届く。
まだ弱い。まだ普通。
でも、二行のサビを聴いたあとだから、頷けた。
真白がわたしの手首を掴んで、にやっと笑う。
「ね。探してる人は、歌える」
「……言ったな」
「言った。今夜、莉子の“普通”が、常連を殴る」
「殴らない! 押す! 背中を押す!」
「じゃあ、背中で殴る」
「やめて言い方!」
わたしたちはスナックを出た。
温泉街の空はまだ明るい。
だけど、今夜のことを思うと、胸の中だけが先に夜になっていく。
怖い。恥ずかしい。
でも、あの曲が、もう二行だけじゃなくなるかもしれない。
再生ボタンは、ここにはない。
代わりにあるのは、人と、声と、スナックと、町の記憶。
そして――真白という、危険で頼もしい燃料。
今夜。春灯で。
わたしは初めて、探している曲の居場所に足を踏み入れる。
(つづく)




