第4話 盤面はきれい、現実は残酷
参加賞の受け渡しは、舞台袖の長机で行われていた。
机の上には段ボール箱が三つ。『お菓子』『タオル』『CD・小物』とマジックで書かれている。
最後の箱だけ、文字がやけに頼りない。これは信用してはいけない予感がする。
「はいはい、真白さんと莉子さんね。参加賞どうぞ」
実行委員の女性が笑顔で言って、箱の中をがさごそ探り始めた。
わたしの心臓は、さっきから落ち着かない。
“景品にもなってる、あれ”。
“お父さんたち世代の鉄板”。
“寄付で集まった古いCD”。
単語がぜんぶ、わたしの探している一曲の周りを回っている。
「えーっと……はい、これと、これ」
手渡されたのは、温泉まんじゅうと、タオルと、そして――薄いプラケース。
ケースの背に、手書きのラベルが貼られていた。
『春のカラオケ大会 寄付CD コンピ①』
文字の下に、小さく曲順のような番号が並び、その中に――わたしの記憶に刺さる単語があった。
曲名はここでは言わない。言えない。
でも、サビの形が脳内に浮かんだ。
「……これ」
声が掠れた。
真白がケースを奪うように持ち上げ、「うわ、当たりっぽい!」と叫んだ。
「声でかい!」
「だって当たりだもん!」
「まだ当たりって決まってない!」
「決まってる。莉子の顔が当たりの顔してる」
実行委員の女性が首を傾げた。
「そんなに欲しかったんですか? それ、昔の寄付のやつで……聴けるかどうか、確認してないけど」
確認してない。
その言葉が、静かに刺さる。
わたしはケースを受け取り、恐る恐る中を開けた。
盤面は――見た目だけなら、きれいだった。傷もほとんどない。
でも、この町は温泉街だ。湯けむりが日常で、湿気が呼吸みたいに漂っている。
保管が雑なら、見えないところで劣化する。
「試そう」
わたしが言うと、真白が即座に頷いた。
「試す! 今! ここ!」
実行委員の男性が「え、今?」という顔をしたが、女性が「会館の古いプレイヤーならあるよ」と言ってくれた。
助かった。助かったけど――怖い。
舞台裏の小さな事務室に案内され、棚の上から出てきたのは、年代物のCDラジカセだった。
黄色味がかったプラスチック。少し浮いたボタン。
それでも、わたしには神々しく見えた。
「入れるよ」
わたしの手が震える。
真白が背後から覗き込む。距離が近い。
「深呼吸して。莉子」
「……真白が言うと、腹立つのに安心する」
「褒めてる?」
「半分」
カチッ、と蓋が閉まる。
再生ボタンを押す。
液晶に「READ」と表示される。
――読め。読んで。お願いだから。
数秒。
十秒。
そして、液晶が点滅し、無慈悲に表示が変わった。
「NO DISC」
「……え」
声が出ない。
真白が「え?」と同時に言う。実行委員の男性も「え?」と言う。
事務室の空気が、みんなの“え?”で満たされる。
「え、入ってるよね?」男性が言い、女性がラジカセを叩き、「あれ?」と首を傾げた。
彼らは悪くない。たぶん。
でも、わたしの中の何かが、すとん、と落ちた。
配信から消えた。
ようやく“物”に辿り着いた。
なのに、再生できない。
真白が、盤面を持ち上げて光にかざした。
「傷、少ないよ? なんで?」
わたしは喉の奥が熱くなるのを堪えた。
泣く方向には行かない。暗くしない。
でも、悔しい。悔しいから、顔が笑えない。
「……湿気、かな」
わたしが言うと、女性が「あー」と声を漏らした。
「ここ、倉庫がね、換気悪くて。寄付品を段ボールに入れたまま置いちゃうこともあって……」
言い訳じゃない。事情説明だ。
でも、わたしには「確認してない」の続きにしか聞こえない。
真白が、突然ラジカセのボタンを押しまくった。
「別のボタン! 別のモード! いけるかも!」
「やめて壊れる!」
「壊れてもいい!」
「よくない!!」
実行委員の男性が慌てて手を伸ばし、「お嬢ちゃん落ち着いて」と言った。
真白は一瞬だけ動きを止め、次の瞬間には、すっと背筋を伸ばして言った。
「じゃあ、もっといい機械、探す」
言い切りが早い。切り替えが早い。
考えるのが嫌いな人の、行動の速さ。
わたしは盤面を見つめたまま、言った。
「……そんなの、あるかな」
「あるよ」真白は即答した。「古い機械の方が、こういうの読めることある」
「ほんと?」
「ほんと。スナックのママ、絶対持ってる」
「なんで?」
「だって、あの店、時間が止まってる」
「失礼すぎる」
でも、真白の勘は当たる。
スナック春灯。昼間からやってて、リクエスト帳があって、町の記憶が溜まってる場所。
そこなら――。
わたしが立ち上がるより早く、真白が浴衣の裾をまくり上げた。
「走——」
「走る準備!」
「準備って言っても、裾まくるのは……」
「足、解放」
「解放は今じゃない!」
「でも坂下るだけだよ?」
「坂だから危ないんだよ!」
真白はにっこり笑って、次に帯を緩めようとした。
わたしの脳内にサイレンが鳴った。
ここは文化会館。控室。町の人。実行委員。社会。
「真白」
わたしは低い声で言った。
「帯は、社会の最後の砦」
「砦?」
「砦。崩したら、わたしのメンタルが落城する」
「落城ってなに」
「落城する!」
実行委員の女性が、笑いを噛み殺しながら言った。
「お嬢ちゃんたち、仲良しだねえ……。ほら、袋あげる。CD、ケースごと入れて。落としたらもっと読めなくなるから」
袋を渡される。優しさが沁みる。
わたしは頭を下げた。
「すみません、騒がしくして……ありがとうございました」
「いえいえ。見つかるといいね。あの曲、いい曲だから」
女性がそう言った瞬間、胸がまた跳ねた。
“あの曲”って言った。
彼女も知っている。町に残っている。
消えてない。
*
文化会館を飛び出すと、外は昼の光で眩しかった。
坂道の下に、温泉街の屋根が連なっている。川がきらきらしている。
わたしの手の中には、再生できないCD。
現実は残酷。でも、まだ終わってない。
「スナック春灯、今やってるかな」
「やってる」真白は断言する。「あの店、人生がずっと“営業中”」
「言い方!」
真白は坂道を下る前に、深呼吸して、わたしを見た。
珍しく真面目な目。
「莉子、悔しい?」
「……悔しい」
「じゃあ、悔しいの、燃料にしよ」
「燃料?」
「うん。走らないけど、早歩きはする」
「早歩きの定義、守れる?」
「守る。今日は守る。砦、守る」
「砦も守って」
真白が、浴衣の裾を“合法的な範囲で”整え直す。
それだけで、わたしはちょっと安心した。
この子なりに、わたしの価値観を尊重してる。たまに。ほんとにたまに。
坂道を下りながら、わたしは袋の中のケースを指でなぞった。
盤面はきれい。
だけど読み取れない。
まるで、わたし自身みたいだと思って、苦笑した。
普通。モブ。目立たない。
でも、胸の奥には確かに音がある。
それを読み取ってくれる“機械”が、どこかにあるはずだ。
スナック春灯の看板が見えた。昼間でも薄暗い路地。
真白が扉に手をかけ、振り向く。
「ねえ莉子」
「なに」
「もしこれ、再生できたらさ」
「うん」
「莉子、歌えるよ。スナックで」
「それはまだ早い!」
「早くない。だって、探してる人は歌えるんだよ。ママが言ってた」
「ママの言葉、都合よく使うな!」
真白が笑って扉を開ける。
ガラガラ、と昭和の音。
そして中から、あの夜の声が返ってくる。
「――いらっしゃい。あら、また来たの」
ママの目が、袋の中のケースに落ちた。
その瞬間だけ、ママの表情が“仕事の顔”になる。
町の記憶を扱う人の顔。
「……それ、寄付CDのやつだね。読めなかった?」
わたしは頷いた。
ママは「やっぱり」と小さく息を吐く。
「あるのよ、そういうの。温泉街はね、湯けむりで人は癒すけど、機械は壊す」
「最低すぎる……」真白が言い、ママが笑った。
「最低だけど本当。で、お嬢ちゃん。どうしても聴きたいんだね」
「はい」
わたしの返事は、短かった。短いけど、揺れてない。
ママはカウンターの下に屈み、何か重たいものを引っ張り出した。
黒い箱。レバー。古いロゴ。
今どき見ないタイプの音響機器。
「うちの“最終兵器”」
ママがそう言った。
真白が目を輝かせる。
「うわ、出た。時間止まってるやつ」
「止まってるんじゃないの。残ってるの」
ママは笑って、プラケースを受け取った。
わたしの胸の奥で、再生ボタンが、もう一度だけ、押される準備をしていた。
(つづく)




