第3話 予選会場は社会でできている
温泉街の坂道は、人の心を試してくる。
緩やかに見せかけて、しっかりきつい。景色がいいから誤魔化されるけど、誤魔化されるのは一分だけで、二分目から脚が文句を言い始める。
「ねえ莉子、いい坂!」
「いい坂って何」
「走りたくなる坂!」
「走るなって!」
「早歩きはいいって言った」
「早歩きの定義が崩壊してる!」
真白は早歩きという名の小走りで坂を上り、わたしは息を整えながら追いかける。
旅の目的は「一曲を取り戻す」。なのに、今わたしたちは「文化会館に入るための条件をクリアする」ために、坂を登っている。目的が増えると、人は疲れる。社会人二年目の学び。
坂の上に、古い二階建ての建物が見えた。白い外壁に『○○町 文化会館』の文字。玄関前にはのぼりが立っていて、やたら元気な筆文字でこう書いてある。
『春のカラオケ大会 予選会! 参加者募集中!』
「これだね!」真白が看板の前で跳ねた。
「これ……なの?」わたしは息を吐く。「文化会館に入れる条件が、歌?」
「歌だよ。ほら、スナックのキヨさん言ってたじゃん。景品にCDとか」
「予選ってことは、本戦があるのかな」
「本戦は知らないけど、予選に出たら中に入れる。つまり勝ち」
「論理が雑!」
文化会館の受付には、町内会っぽい腕章をつけた人たちがいた。紙の名札。「実行委員」。
わたしが近づくと、ふくよかな女性がにこっと笑って言った。
「はい、予選の参加ですか?」
「……えっと、参加したいというか、文化会館の中に用事があって……」
「用事? 見学だけなら今日は難しいんですよ。会場準備があって」
やっぱり。条件って、そういうことだ。
真白がわたしの横から顔を出した。
「参加します! あたしたち!」
「え」
「参加者、足りてない感じしました! 助ける!」
「助けるとかじゃなくて——」
実行委員の女性は「助かるわあ」と目を細めた。
「今、飛び入り歓迎なんです。二人組で参加もできるし、ソロでもいいですよ。エントリーシートはこちら」
差し出された紙には、氏名、住所、連絡先、曲名、キー、コメント欄。
曲名。曲名……。
わたしは固まった。
探している曲の“実名”は出したくない。ここは作中のルール。けれど、予選に出るなら曲名を書けと言われる。
「……曲、決めてないです」
わたしが口にすると、真白が即答した。
「決めてるよ。莉子の探してるやつ」
「だから曲名が——」
「じゃ、別の曲にすればよくない?」
「別の曲で出たら意味ないじゃん」
「意味ある。文化会館に入れる」
「入るのが目的じゃなくて、曲が目的!」
わたしの声が少しだけ強くなる。
真白はぱちっと瞬きをして、すぐに笑った。
「そっか。じゃあ、あれだ」
「あれ?」
「“それっぽい応援歌”を歌って、会場の人に聞く。『今の曲、何系?』って。で、名簿とか景品とか、情報を引き出す」
「……真白、たまに賢い」
「たまにじゃない。基本賢い。考えるのが嫌いなだけ」
「それ、言い訳として強いな……」
実行委員の女性が「曲名は後ででもいいですよ」と言ってくれた。救い。
「では、参加枠にお名前だけ。お二人とも?」
真白が胸を張る。
「はい! 真白です!」
女性がペンを走らせ、「もう一人は?」とわたしを見る。
わたしは一瞬、逃げたくなった。
集合写真の端。モブ。スポットライト嫌い。
でも、ここで逃げたら、あの曲に辿り着けない。
「……莉子です」
「はい、莉子さん。緊張しなくて大丈夫。みんな同じですから」
その言葉が、やけに優しかった。
応援歌みたいに。
*
控室は、舞台裏の匂いがした。古いカーテンの埃っぽさと、緊張と、誰かの整髪料。
壁には「順番表」が貼られていて、十数組の名前が並んでいる。町内の人。常連の人。たぶん、観光客も混ざっている。
「莉子、順番、けっこう早いね」
「なんでそんなにのんきなの」
「だって、歌うの好きでしょ?」
「好きなのは“聴く”方!」
「歌うのは、聴くのの延長じゃん」
「延長が遠い!」
真白は控室の隅に置かれた姿見の前に立ち、浴衣の襟元を整え始めた。
嫌な予感がする。
しかも真白の「整える」は、だいたい「解放への準備」だ。
「真白、なにしてる」
「戦闘準備」
「戦闘って言うな」
「暑いから、少し軽くする」
「軽くって、どの方向に」
「解放方向」
「やめて!」
わたしは真白の腕を掴んだ。
真白は真顔で言う。
「でも浴衣って、布が多い。歌うと汗かく。汗は良くない。つまり布は悪」
「今、社会にケンカ売った?」
「売ってない。合理的」
「合理的に怒られる未来しか見えない!」
そこへ、控室の扉が開いて、実行委員の男性が顔を出した。
「次の方、準備お願いしますねー」
視線が真白に止まる。真白の襟元に止まる。
わたしは反射で一歩前に出て、男の人の視界を遮った。意味はない。でも精神的な盾は必要だ。
「すみません、すぐ行きます!」
男性が去る。
わたしは真白に低い声で言った。
「頼む。今日は“ギリギリ”をやる日じゃない。今日は“情報”を取る日」
「情報、取る。わかった」
「じゃあ解放は」
「しない。たぶん」
「たぶん、をやめろ」
真白はにこっと笑い、急にわたしの頬を両手で挟んだ。
「大丈夫だよ、莉子。あたし、莉子の価値観、尊重する」
「尊重する人は、たぶんをつけない」
「尊重するけど、身体は自由が好き」
「身体の話をしない!」
わたしは深呼吸して、舞台へ向かった。
足が少し震えている。
でも、不思議と、耳の奥ではイントロが鳴っていた。
探している一曲じゃない。けれど、応援歌の気配。背中を押す、あの感じ。
*
会場は、思ったより広かった。客席には地元の人たちが座り、舞台上にはカラオケ機材とモニター。
司会のおばさんが元気に名前を呼ぶ。
「次は、真白さんと莉子さんのお二人組でーす!」
拍手が起きる。
拍手って、やさしいけど、逃げ道を塞ぐ音でもある。
「どうする? 曲」
わたしが小声で言うと、真白がマイクを握って即答した。
「応援歌!」
「広い!」
「じゃあ、“あの二人組っぽい”応援歌!」
「それも広い!」
カラオケ端末の曲検索画面。
真白は文字入力が苦手そうに見えて、こういう時だけ異様に勘がいい。
“負けんなよ” “背中” “明日” “笑え”
そんな単語を入れては候補を眺め、最終的に一曲を選んだ。
「これ。雰囲気、近い」
曲名は、ここでは伏せる。作中ルール。
ただ、イントロが流れた瞬間、会場の空気が少しだけ明るくなった。
この町にも、こういう曲がしみ込んでいるんだ。
真白が歌い出す。
驚いた。上手い。技術というより、勢いで押し切る上手さ。
声がまっすぐで、迷いがない。
たぶん真白は、考えるのが嫌いな分、歌うときだけは“今”に全振りできる。
そして、サビ。
真白は一歩前に出て、会場に向かって手を伸ばした。
観客の何人かが笑って頷く。
応援歌って、こういうものだ。
わたしの番。
画面に歌詞が流れる。
わたしは、息を吸って、声を出した。
震えた。でも出た。
モブの声でも、出る。
その瞬間、胸の奥に「パパの車内」が一瞬だけ重なった。信号待ちのサビ、ハンドルを叩く手、変な親指。
涙は出ない。沈まない。
ただ、少しだけ、まっすぐになった。
歌い終えると、拍手が起きた。
司会のおばさんが「いいねえ! 若いっていいねえ!」と笑う。
わたしは深々と頭を下げた。
そして——その時。
客席の後ろの方から、低い声が飛んできた。
「おお、その系統ならよ……“あの曲”が本命だろ」
ざわ、と空気が動いた。
わたしは振り向いた。
そこにいたのは、スナックで見た背中の丸いおじさん——キヨさん……ではない。別のおじさん。顔は違う。でも同じ“町の顔”をしている。
真白がマイク越しに聞き返す。
「え、なに? あの曲ってどれ?」
司会のおばさんが笑いながら言う。
「お父さんたち世代の鉄板があるのよ。ほら、景品にもなってる、あれ」
景品。
その言葉に、わたしの心臓が跳ねた。
司会のおばさんが舞台袖を指す。
「予選の参加賞、あとで渡すからね。そこにね、昔のCDが混ざってるの。寄付で集まったやつ」
わたしの喉が鳴る。
配信から消えた曲が、そこにある可能性。
目の前に、再生ボタンの代わりが、置かれているかもしれない。
真白が、勝ち誇った顔でわたしを見る。
「ね? 情報、取れた」
「……取れた」
「だから、解放はいらない」
「うん、いらない」
「でも、ちょっとだけなら」
「だめ!」
「うそ。冗談」
真白は笑った。
その笑顔は危ない。危ないけど、今日は、ちゃんと味方だった。
舞台を降りるわたしの胸の中で、見えないイントロが鳴っている。
まだ本物じゃない。
でも、確実に近づいている。
そしてわたしは気づく。
応援歌は、誰かの背中を押すだけじゃない。
押される側が、次の誰かを押せるようにしてくれる。
——パパが、わたしにしたみたいに。
控室へ戻る途中、真白がぽつりと言った。
「莉子さ。歌、出たじゃん」
「出たね……」
「それ、すごい」
「すごくない。普通」
「普通って、すごいよ」
真白はさらっと言って、わたしの手首を掴んだ。
「ほら。参加賞、もらいに行こ。そこに“本命”があるかもしれない」
わたしは頷いて、足を速めた。
早歩き。定義が壊れないやつ。
温泉街の文化会館で、わたしは初めて、自分の声で一歩進んだ。
(つづく)




