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明日は、まだここにある  作者: 科上悠羽


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2/10

第2話 スナック春灯と、誰かのサビ

 朝の温泉街は、夜よりも正直だ。

 湯けむりは白くて、坂道は容赦なく、観光客はだいたい眠そうで、地元の人はだいたい早い。

 わたしと真白は旅館の朝食を食べ終えて、川沿いの道を歩いていた。わたしは厚手の靴下にスニーカー。真白は――素足に草履で、平然としている。


「足、痛くないの?」

「痛いよ」

「痛いなら履けよ」

「痛いの、好き」

「そんな趣味みたいに言わないで」


 真白は「ふふ」と笑って、売店の前で立ち止まった。温泉まんじゅうの試食に目が釘付けだ。可愛い。破綻してるけど。


 わたしはスマホを開いて、昨夜の通知をもう一度確認した。

《“配信停止”の情報を見つけました》

 タップすると、音楽配信サービスのヘルプページが表示される。そこには淡々と、残酷な文章が並んでいた。


「権利上の都合により、配信を終了する場合があります」

「権利ってなに」真白が口にまんじゅうを詰めながら言った。

「大人の事情」

「大人、めんどい」

「ほんとにね」


 わたしは眉間を指で押さえた。

 配信が止まった。つまり、いつものルートでは聴けない。だから別ルートを探す。CD、ラジオ、誰かの記憶。

 ――誰かの記憶。

 昨夜、真白が言った「なんでも知ってるおばちゃん」。それが今の頼みの綱になっているのが、悔しい。


「観光案内所、行く?」

「行く。でもその前に」真白が指をさした。「あそこ、よさそう」


 真白が指したのは、路地裏の、昼間から薄暗い店だった。看板は色褪せていて、でも文字だけは妙に元気に読めた。


『スナック 春灯はるあかり


「……スナックは夜だよ」

「そうなの? じゃあ今、誰もいない?」

「いないでしょ」

「やった。探検だ」

「やったじゃない」


 わたしが止めるより早く、真白は扉に手をかけた。

 ガラガラ、と昭和の音がして、扉が開く。


「――いらっしゃい」


 中から、ちゃんと“夜の声”が返ってきた。

 しかも、客席の奥で、マイクの音。


♪――負けんなよ、って 誰かが言った――


 わたしの背中が、ぞわっとした。

 それは、探している“あの空気”だった。

 90年代の応援歌。背中をどんと押すみたいな、汗と青空の匂い。

 曲名は言えない。けど、わたしの体は勝手に反応した。心臓が一拍遅れて追いかけてくる。


 店内には、昼間だというのに数人の客がいた。地元のおじさんたち。カラオケの画面。壁に貼られた「本日のおすすめ」。そして、カウンターの向こうで腕組みしてる、髪をふわっと巻いたママ。


 歌っていたのは、背中の丸いおじさんだった。声は震えてるのに、サビだけ妙に強い。

 そのサビが――わたしの探していた“サビ”と重なった。


「……っ」

 声にならない。


 真白が、わたしの腕を掴んだ。

「莉子。これ、これじゃない?」

「……近い。近いっていうか、たぶん、これ……!」


 ママがわたしたちを見て目を細めた。

「お嬢ちゃんたち、観光? 昼から珍しいねえ」

「すみません、間違えて入っちゃって……」

 わたしが謝ろうとした時、真白が前に出た。


「ママ! 今の曲! それ! 莉子が探してるやつ!」

「ちょ、真白、声でかい!」

「だって急いでる!」

「急いでるのは分かるけど、ここスナック!」


 ママは「あらあら」と笑って、歌っていたおじさんに手を振った。

「ちょっと止めてよ、キヨさん。お嬢ちゃんたち、曲探してるって」

 キヨさんと呼ばれたおじさんがマイクを下ろし、汗を拭きながら振り向いた。

「なんだい、若いのが。今どきこんな曲、聴くのか」

「今どきとかじゃなくて……必要なんです」

 わたしは言ってしまった。必要。命綱。昨日までなら、そんな言い方はしなかったのに。


 ママの目が、少しだけ優しくなる。

「必要、ね。いい言葉だねえ。で、どれ? この曲?」

「はい……たぶん。配信から消えちゃって、どうしても聴きたくて」

「あら、配信。今の子って大変だねえ。昔はね、消えるって言ったらテープが絡まるくらいだったのに」


 わたしは苦笑した。

 真白は、なぜか誇らしげだ。自分の作戦が当たった顔をしている。


「ねえママ、CDある? この店、絶対あるよね」

「うちはね、飲み屋。CD屋じゃないよ」

「じゃ、持ってる人いる?」

「いるかもねえ」

「やった」

「やったじゃない」


 キヨさんが鼻を鳴らした。

「おじさんの歌、聴いて当てるってのか。曲名言ってみな」

 わたしは喉が詰まった。

 言えない。実名は出さないって決めた。作中のルールだ。

 でも、言わないと通じない。


 真白が、わたしの肩をぽん、と叩いた。

「莉子。歌詞言えば?」

「歌詞……」

「ほら、さっきのサビ。『負けんなよ』ってやつ」

「それだけじゃ多すぎる……」


 ママが「じゃあ」と言って、指を二本立てた。

「ここでやる? ワンフレーズ。歌ってみなよ、お嬢ちゃん」

「えっ」

「歌えば分かる。うちの常連、こういうの得意だよ。ねえ、みんな?」


 店内の視線が集まる。

 わたしは顔が熱くなった。

 普通。モブ。集合写真の端。そういう人生なのに、なんで今、スナックでスポットライトを浴びてるの。


「無理です」

 即答した。


「え、歌えないの?」真白が首を傾げる。

「歌えないよ! ここで! しかも知らないおじさんの前で!」

「じゃ、あたし歌う」

「真白はやめて!」

「なんで」

「事故るから!」

「事故らないし。あたし、声かわいいし」

「声の問題じゃない!」


 真白がすっと浴衣の襟元に手をかけた。

 わたしの脳内に、昨夜の悪夢がよぎる。

 この子は、テンションが上がると“解放”に向かう。


「待って待って待って」

 わたしは真白の両手を掴んで小声で言った。

「ここは公共。しかもスナック。ママがいる。常連さんがいる。分かる?」

「分かる」

「じゃあ解放しない」

「解放はしない。でも、歌うのは解放じゃない」

「歌うのも解放に入るんだよ、真白の場合は!」


 ママが肩を揺らして笑った。

「仲良しだねえ。いいよ、歌わなくても。別の当て方ある」

「ありますか?」

 わたしが縋るように言うと、ママはカウンターの下から古いノートを出した。表紙には『リクエスト帳』と書いてある。


「うち、昔ラジオっぽいことしてたのよ。常連の好きな曲を書いて、次に来た人がそれ歌う。……ほら、キヨさんのページ」

 ママがぺらぺらとめくり、指で叩いた。


 そこに、手書きの文字が並んでいた。

 曲名の欄は――作中では見せ方を工夫する。わたしの視点では、はっきり読めないことにする。

 でも、隣のメモ欄に書かれた一文だけが、やけに鮮明に目に入った。


『娘が社会人になった日に聴かせた。背中を押す曲』


 息を吸うのを忘れた。

 パパだ。

 うちのパパと、同じことをしている人がいた。


「……これ」

 わたしは指でそのメモをなぞった。


 真白が覗き込み、「うわ、なにそれ。刺さる」と呟く。

 ママはわたしの顔を見て、何かを察したようにゆっくり言った。

「お嬢ちゃん、その曲、家族の曲かい」

「……はい」

「そりゃ、探すわ。配信が止まったくらいで終わりにできないねえ」


 キヨさんが喉を鳴らした。

「その曲なら、たしか……町の文化会館に古いCDが寄付されてたな。カラオケ大会の景品にしたとかしないとか」

「文化会館?」

「あるよ、坂の上。行事のときしか開かねえけど」


 真白が、立ち上がった。

「坂の上? 走れるじゃん」

「走るな!」

「早歩きでいい?」

「それなら、まあ」


 わたしはまだ、リクエスト帳のメモから目が離せなかった。

 誰かの娘の日。誰かの応援歌。

 配信から消えても、曲は消えない。人の中に残る。


 ママがふっと笑って言った。

「お嬢ちゃん、もし見つかったらさ。ここで一回、歌ってきな。みんな喜ぶよ」

「えっ」

「歌えないって顔してるけど、歌えるよ。探してる人は、歌える」

 それは励ましだった。押しつけじゃなくて、背中に手を添える感じ。


 真白がわたしの腕を引いた。

「行こ、莉子。文化会館。坂の上。汗かいて、見つけて、温泉入って、最高じゃん」

「真白、汗かくのは好きだけど……」

「うん?」

「坂の上で、解放しないでよ」

「解放はしないって」

 真白はにこっと笑った。

 その笑顔が危ない。危ないけど、なぜか頼もしい。


 わたしは一度だけ、スナックの店内を振り返った。

 キヨさんはもう一度マイクを握り、さっきの曲のイントロを流し直していた。

 あのサビが、また店に満ちる。


 わたしは小さく、口の中でだけ、サビの形をなぞった。

 そして、思った。

 もしこの旅で、あの一曲を取り戻せたなら。

 わたしはきっと、次に誰かが困っている時、同じように背中を押せる。


 真白がドアの前で振り向き、当然のように言った。

「ねえ莉子。見つかったらさ、パパにも聴かせよ。『ほら、まだ消えてない』って」

 胸がきゅっとした。

 わたしは頷いて、外の光に踏み出した。


 坂道が、待っていた。


(つづく)

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