第2話 スナック春灯と、誰かのサビ
朝の温泉街は、夜よりも正直だ。
湯けむりは白くて、坂道は容赦なく、観光客はだいたい眠そうで、地元の人はだいたい早い。
わたしと真白は旅館の朝食を食べ終えて、川沿いの道を歩いていた。わたしは厚手の靴下にスニーカー。真白は――素足に草履で、平然としている。
「足、痛くないの?」
「痛いよ」
「痛いなら履けよ」
「痛いの、好き」
「そんな趣味みたいに言わないで」
真白は「ふふ」と笑って、売店の前で立ち止まった。温泉まんじゅうの試食に目が釘付けだ。可愛い。破綻してるけど。
わたしはスマホを開いて、昨夜の通知をもう一度確認した。
《“配信停止”の情報を見つけました》
タップすると、音楽配信サービスのヘルプページが表示される。そこには淡々と、残酷な文章が並んでいた。
「権利上の都合により、配信を終了する場合があります」
「権利ってなに」真白が口にまんじゅうを詰めながら言った。
「大人の事情」
「大人、めんどい」
「ほんとにね」
わたしは眉間を指で押さえた。
配信が止まった。つまり、いつものルートでは聴けない。だから別ルートを探す。CD、ラジオ、誰かの記憶。
――誰かの記憶。
昨夜、真白が言った「なんでも知ってるおばちゃん」。それが今の頼みの綱になっているのが、悔しい。
「観光案内所、行く?」
「行く。でもその前に」真白が指をさした。「あそこ、よさそう」
真白が指したのは、路地裏の、昼間から薄暗い店だった。看板は色褪せていて、でも文字だけは妙に元気に読めた。
『スナック 春灯』
「……スナックは夜だよ」
「そうなの? じゃあ今、誰もいない?」
「いないでしょ」
「やった。探検だ」
「やったじゃない」
わたしが止めるより早く、真白は扉に手をかけた。
ガラガラ、と昭和の音がして、扉が開く。
「――いらっしゃい」
中から、ちゃんと“夜の声”が返ってきた。
しかも、客席の奥で、マイクの音。
♪――負けんなよ、って 誰かが言った――
わたしの背中が、ぞわっとした。
それは、探している“あの空気”だった。
90年代の応援歌。背中をどんと押すみたいな、汗と青空の匂い。
曲名は言えない。けど、わたしの体は勝手に反応した。心臓が一拍遅れて追いかけてくる。
店内には、昼間だというのに数人の客がいた。地元のおじさんたち。カラオケの画面。壁に貼られた「本日のおすすめ」。そして、カウンターの向こうで腕組みしてる、髪をふわっと巻いたママ。
歌っていたのは、背中の丸いおじさんだった。声は震えてるのに、サビだけ妙に強い。
そのサビが――わたしの探していた“サビ”と重なった。
「……っ」
声にならない。
真白が、わたしの腕を掴んだ。
「莉子。これ、これじゃない?」
「……近い。近いっていうか、たぶん、これ……!」
ママがわたしたちを見て目を細めた。
「お嬢ちゃんたち、観光? 昼から珍しいねえ」
「すみません、間違えて入っちゃって……」
わたしが謝ろうとした時、真白が前に出た。
「ママ! 今の曲! それ! 莉子が探してるやつ!」
「ちょ、真白、声でかい!」
「だって急いでる!」
「急いでるのは分かるけど、ここスナック!」
ママは「あらあら」と笑って、歌っていたおじさんに手を振った。
「ちょっと止めてよ、キヨさん。お嬢ちゃんたち、曲探してるって」
キヨさんと呼ばれたおじさんがマイクを下ろし、汗を拭きながら振り向いた。
「なんだい、若いのが。今どきこんな曲、聴くのか」
「今どきとかじゃなくて……必要なんです」
わたしは言ってしまった。必要。命綱。昨日までなら、そんな言い方はしなかったのに。
ママの目が、少しだけ優しくなる。
「必要、ね。いい言葉だねえ。で、どれ? この曲?」
「はい……たぶん。配信から消えちゃって、どうしても聴きたくて」
「あら、配信。今の子って大変だねえ。昔はね、消えるって言ったらテープが絡まるくらいだったのに」
わたしは苦笑した。
真白は、なぜか誇らしげだ。自分の作戦が当たった顔をしている。
「ねえママ、CDある? この店、絶対あるよね」
「うちはね、飲み屋。CD屋じゃないよ」
「じゃ、持ってる人いる?」
「いるかもねえ」
「やった」
「やったじゃない」
キヨさんが鼻を鳴らした。
「おじさんの歌、聴いて当てるってのか。曲名言ってみな」
わたしは喉が詰まった。
言えない。実名は出さないって決めた。作中のルールだ。
でも、言わないと通じない。
真白が、わたしの肩をぽん、と叩いた。
「莉子。歌詞言えば?」
「歌詞……」
「ほら、さっきのサビ。『負けんなよ』ってやつ」
「それだけじゃ多すぎる……」
ママが「じゃあ」と言って、指を二本立てた。
「ここでやる? ワンフレーズ。歌ってみなよ、お嬢ちゃん」
「えっ」
「歌えば分かる。うちの常連、こういうの得意だよ。ねえ、みんな?」
店内の視線が集まる。
わたしは顔が熱くなった。
普通。モブ。集合写真の端。そういう人生なのに、なんで今、スナックでスポットライトを浴びてるの。
「無理です」
即答した。
「え、歌えないの?」真白が首を傾げる。
「歌えないよ! ここで! しかも知らないおじさんの前で!」
「じゃ、あたし歌う」
「真白はやめて!」
「なんで」
「事故るから!」
「事故らないし。あたし、声かわいいし」
「声の問題じゃない!」
真白がすっと浴衣の襟元に手をかけた。
わたしの脳内に、昨夜の悪夢がよぎる。
この子は、テンションが上がると“解放”に向かう。
「待って待って待って」
わたしは真白の両手を掴んで小声で言った。
「ここは公共。しかもスナック。ママがいる。常連さんがいる。分かる?」
「分かる」
「じゃあ解放しない」
「解放はしない。でも、歌うのは解放じゃない」
「歌うのも解放に入るんだよ、真白の場合は!」
ママが肩を揺らして笑った。
「仲良しだねえ。いいよ、歌わなくても。別の当て方ある」
「ありますか?」
わたしが縋るように言うと、ママはカウンターの下から古いノートを出した。表紙には『リクエスト帳』と書いてある。
「うち、昔ラジオっぽいことしてたのよ。常連の好きな曲を書いて、次に来た人がそれ歌う。……ほら、キヨさんのページ」
ママがぺらぺらとめくり、指で叩いた。
そこに、手書きの文字が並んでいた。
曲名の欄は――作中では見せ方を工夫する。わたしの視点では、はっきり読めないことにする。
でも、隣のメモ欄に書かれた一文だけが、やけに鮮明に目に入った。
『娘が社会人になった日に聴かせた。背中を押す曲』
息を吸うのを忘れた。
パパだ。
うちのパパと、同じことをしている人がいた。
「……これ」
わたしは指でそのメモをなぞった。
真白が覗き込み、「うわ、なにそれ。刺さる」と呟く。
ママはわたしの顔を見て、何かを察したようにゆっくり言った。
「お嬢ちゃん、その曲、家族の曲かい」
「……はい」
「そりゃ、探すわ。配信が止まったくらいで終わりにできないねえ」
キヨさんが喉を鳴らした。
「その曲なら、たしか……町の文化会館に古いCDが寄付されてたな。カラオケ大会の景品にしたとかしないとか」
「文化会館?」
「あるよ、坂の上。行事のときしか開かねえけど」
真白が、立ち上がった。
「坂の上? 走れるじゃん」
「走るな!」
「早歩きでいい?」
「それなら、まあ」
わたしはまだ、リクエスト帳のメモから目が離せなかった。
誰かの娘の日。誰かの応援歌。
配信から消えても、曲は消えない。人の中に残る。
ママがふっと笑って言った。
「お嬢ちゃん、もし見つかったらさ。ここで一回、歌ってきな。みんな喜ぶよ」
「えっ」
「歌えないって顔してるけど、歌えるよ。探してる人は、歌える」
それは励ましだった。押しつけじゃなくて、背中に手を添える感じ。
真白がわたしの腕を引いた。
「行こ、莉子。文化会館。坂の上。汗かいて、見つけて、温泉入って、最高じゃん」
「真白、汗かくのは好きだけど……」
「うん?」
「坂の上で、解放しないでよ」
「解放はしないって」
真白はにこっと笑った。
その笑顔が危ない。危ないけど、なぜか頼もしい。
わたしは一度だけ、スナックの店内を振り返った。
キヨさんはもう一度マイクを握り、さっきの曲のイントロを流し直していた。
あのサビが、また店に満ちる。
わたしは小さく、口の中でだけ、サビの形をなぞった。
そして、思った。
もしこの旅で、あの一曲を取り戻せたなら。
わたしはきっと、次に誰かが困っている時、同じように背中を押せる。
真白がドアの前で振り向き、当然のように言った。
「ねえ莉子。見つかったらさ、パパにも聴かせよ。『ほら、まだ消えてない』って」
胸がきゅっとした。
わたしは頷いて、外の光に踏み出した。
坂道が、待っていた。
(つづく)




