第10話 明日は、まだここにある
連休明けの朝は、世界が急に“規定”に戻る。
駅のホームの立ち位置、改札の流れ、エスカレーターの右側、コーヒーの紙カップの温度。
温泉街の湯けむりが夢みたいに遠くなる一方で、身体のどこかに、まだ残っている。硫黄の匂いとか、提灯の橙とか、スナックの拍手とか。
会社のビルに入ると、空調の匂いがした。
昨日までの“旅の空気”を、薄い透明の膜で一気に拭き取られる感じ。
わたしは社員証をタッチして、ロビーを抜けて、エレベーターに乗った。
――でも、完全に拭き取られたわけじゃない。
耳の奥に、あの応援歌の輪郭が残っている。
配信から消えても、二行だけでも戻ってきたサビ。
そして、旅館の布団の上で鳴った“完全再生”。
わたしは通勤バッグの内ポケットに指を入れ、確認する。
そこにはもうCDはない。剛さんに返した。
代わりに、紙袋のお菓子の包みが一つだけ残っている。
圧と飴の名残。
「おはよーございます!」
後ろから、元気すぎる声が刺さった。
振り向くと、真白がいた。すっごい可愛い。お人形さんみたい。
なのに、朝から全力。目がキラキラ。現代日本の通勤路で、一人だけ温泉街のテンションを引きずっている。
「真白……朝からうるさい」
「朝はうるさくしないと、死ぬ」
「死なない」
「死ぬ。あたし、ノーモーニングノーライフ」
「それは初耳」
真白はわたしの横に並び、当然のように腕を組んできた。
距離感が、相変わらずバグっている。
「ねえ莉子。今日、ちゃんと持ってる?」
「なにを」
「合言葉」
「合言葉……」
わたしは一瞬、照れた。
昨日、車内で決めたやつ。
曲名でもアーティストでもない。でも、あの曲のサビと同じ場所にある言葉。
「……明日は、まだここにある」
わたしが小さく言うと、真白が満足そうに頷いた。
「うん。いい。背中押される」
「真白がそう言うと、ちょっと安心する」
「でしょ。あたし、背中押される専門だから」
「専門とか言うな」
部署のフロアに入ると、現実が真正面から来た。
メールの未読。積み上がるタスク。連休前に投げたままの案件。
上司の「お、休みどうだった?」という軽い問い。
軽いのに、答えるのが難しい。温泉街の夜を、スナックの拍手を、剛さんの頭ぽんを、一言で言えない。
「温泉行ってきました」
わたしは無難に答えた。
「いいなあ。リフレッシュできた?」
「はい」
できた。たぶん。
あの曲が戻ったから。
デスクに座ってパソコンを立ち上げると、真白が隣の席から椅子をずるずる引いて近づいてきた。
近い。仕事中。
「ねえ莉子」
「今、仕事」
「三十秒でいい。確認」
「何を」
「配信、戻ってないよね?」
真白はスマホを見せた。例の表示。『ご利用いただけません』。
「……戻ってない」
「だよね」
真白は、なぜか晴れやかな顔で笑った。
「でも、いいや」
「え」
「だって、もう消えてないもん」
「配信からは消えてるけど」
「配信から消えてても、莉子からは消えてない。あたしからも、消えない」
その言葉が、まっすぐ刺さった。
真白が“好き”を言えるようになっている。
主導権とか負けとか言ってたのに、今は言っている。
それが、旅の持ち帰りだ。
「真白」
「ん」
「……ありがとう」
「なんで?」
「一緒に探してくれたから」
「それ、仕事の言い方だよ」
「じゃあ、なんて言うの」
わたしが聞くと、真白は少しだけ考える顔をした。珍しい。
「……好きだから、やった」
真白が言った。
軽い。雑。
でも、ちゃんと温かい。真白のやり方で、ちゃんと。
わたしは笑って、言い返した。
「……わたしも、好きだから貸した」
「イヤホン?」
「イヤホンも。あと、時間も」
「うわ、莉子、急に上手いこと言う」
「たまたま」
「たまたまでも、うれしい」
真白は満足したのか、椅子を戻して自分の席に帰った。
そして、帰り際に小声で言った。
「ねえ莉子。今日、しんどくなったら、言って」
「何を」
「合言葉」
「……明日は、まだここにある?」
「そう。それ言ったら、あたしが早歩きで連れ出す」
「早歩きの定義、守れる?」
「守る。剛さんに追われるから」
「追われないようにしなさい」
笑ってしまった。
仕事中なのに。
でも、その笑いは邪魔じゃなかった。
肩の力を少しだけ抜いてくれる、応援歌みたいな笑いだった。
昼休み、わたしはコンビニでスポーツドリンクを買った。
剛さんの紙袋に入ってたやつと同じ種類。
たぶん偶然。でも、偶然が嬉しい。
真白に渡すと、真白が目を丸くした。
「なにこれ。圧と飴の続き?」
「圧じゃない。水分」
「水分は大事?」
「大事」
「返事は腹から?」
「それはもういい!」
わたしが言うと、真白が笑い転げた。
午後、思ったよりタスクが重かった。
上司の機嫌も微妙だった。
ちょっとだけ、心がささくれた。
そんなとき、わたしは、机の下で小さく拳を握った。
耳の奥で、あのサビの二行が鳴る。
そして、自分に言う。
明日は、まだここにある。
それは、未来への言葉じゃない。
今の自分を、今の場所に立たせるための言葉だ。
ふと顔を上げると、真白がこちらを見ていた。
目が合って、真白が口の形だけで言った。
――あるよ。
わたしは、笑った。
モブの顔で。
でも、胸の中はちゃんと強い。
配信が戻らなくても、いい。
曲は、町にあった。人にあった。わたしの中にあった。
そして今は、真白との間にある。
帰りのエレベーターで、真白がいつもの調子に戻って言った。
「ねえ莉子、次の連休、どこ行く?」
「気が早い」
「早いのが好き。考えるの嫌いだから」
「それ便利に使いすぎ」
「便利。人生はテンポ」
「テンポだけだと事故るよ」
「事故らない。砦守る」
「砦はもういい!」
ビルを出ると、夕方の空が少しだけ温泉街の色をしていた。
わたしは歩きながら、真白の肩を軽く叩いた。
「真白」
「なに」
「明日は、まだここにある」
「うん」
真白が、珍しく腹から返事をした。
「ある」
その一言が、今日の背中を押した。
わたしの普通は、明日まで続く。
そして、普通の中にある音は、もう消えない。
(完)




