第1話 湯けむりと消えた応援歌
見た目が普通、って人生で得することも損することもない。集合写真の端にいても、誰も気づかない。飲み会で「先に帰るね」と言っても、「おう」としか返ってこない。
その代わり、わたしには確実な武器がある。イヤホンだ。
耳の奥にイントロが鳴った瞬間、世界はわたしの味方になる。ノーミュージック・ノーライフ。文字通り。呼吸みたいなもの。社会人二年目、言いたいことを飲み込み、機嫌の悪い上司の気配を読み、帰宅してベッドに倒れ込むまでの一日を、音楽がつないでくれる。
「ねえ莉子。ほら、貸して。あたしの方が似合う」
隣の席で、同期の真白がわたしのイヤホンを指先でつまんだ。すっごく可愛い。お人形みたい。肌も髪もつるんとしていて、透明感がある。なのに、やることが毎回、治安の悪い小動物だ。
「似合うとかじゃなくて、衛生の問題が……」
「だいじょぶ。あたし、きれい」
「理屈が破綻してる!」
新幹線の窓に流れる山の影。連休。温泉街。二泊三日。社会人二年目のご褒美、という名目。
真白はさっきからスポーツドリンクを一気飲みしては、「温泉街、走れる?」と目を輝かせている。走る必要がどこにあるのか、こちらが知りたい。
「ねえ莉子、旅のBGMなに?」
「……聴きたい一曲がある」
「それそれ! それがいい! 今すぐ!」
わたしはスマホを掲げた。再生ボタンに親指を置く。胸の奥に、小さく火が灯る。
あの曲は、パパとドライブした時に必ず流れていた。信号待ちでサビが来ると、パパはハンドルを片手で叩いて、わたしに向かって変な親指を立ててみせた。意味は分からないけど、妙に安心した。
しかし。
画面の中央に、見たくない文字が出た。
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「……は?」
声が漏れた。もう一回。もう一回。指が震える。再生。再生。再生。
無音。無音。無音。車内のアナウンスだけが、妙に丁寧に響く。
「なに? どうしたの?」真白が顔を寄せる。「え、配信消えた? そんなことある? ねえ、世界終わる?」
「終わらないけど、わたしが終わる」
「じゃあ取り戻そ。温泉街で」
「どうやって」
「走って探す!」
「探すのは足じゃなくて情報!」
わたしがスマホを握りしめた瞬間、真白が立ち上がった。勢いよく。
そして、上着の前を、迷いなく開けはじめた。
「ちょ、なにして——」
「暑い。脱ぐ」
「ここ公共!! 公共!!」
「だいじょぶ。あたし、きれ——」
「その理屈はもう聞いた!!」
わたしは全力で真白の手首を押さえながら、思った。温泉街に着く前に、すでに旅のハードルが高い。
でも——あの一曲がない旅なんて、ありえない。
*
温泉街の最寄り駅に着くと、空気が変わった。硫黄の匂いが、鼻の奥をくすぐる。駅前には「ようこそ湯けむりの町へ」と書かれた看板。観光案内所の横で、ゆるいキャラクターが手を振っている。
真白はその瞬間に走り出しそうな顔をした。
「走るなよ」
「え、走っちゃだめ?」
「駅前で転んだら、旅の評価が下がる」
「評価って誰の」
「わたしのメンタルの」
宿は駅から少し歩いた川沿いにあった。木の香りがする古めの旅館で、玄関に提灯が並んでいる。『春霞』。名前がやわらかい。
わたしはこういう、少しだけ古くて、静かで、家族連れが多い宿が好きだ。真白はたぶん、好きじゃない。理由は分かる。静かにするのが苦手だからだ。
チェックインの最中、真白はロビーの床に敷かれた畳に素足で乗り、「あ、きもちい〜」と頬を緩ませた。
可愛い。でも、危うい。
「お客様、スリッパで……」と女将さんがやんわり言った瞬間、真白はぱっと顔を上げて、満面の笑みで言った。
「だいじょぶです! あたし、裸足派なんで!」
「……裸足派、というのは、はい。ですが、ええと」
女将さんの“ええと”には、いろんな感情が詰まっていた。困惑、驚き、そして「この子、泊まらせて大丈夫?」という極薄の警戒。
わたしは即座に頭を下げた。
「すみません、真白、旅館のルールあるから」
「ルール? 裸足禁止?」
「素足で畳はOKだけど、ロビーは基本スリッパ。ほら、履いて」
「えー。足、解放したい」
「解放は部屋で」
女将さんが「ご案内いたしますね」と言ってくださったのが救いだった。救い、だったはずなのに。
部屋に着いた瞬間、真白は戦闘開始みたいなテンションで浴衣を手に取った。
「これ、着るの? あたし、浴衣むり」
「むりってなに」
「ひも、多い。考えるのいや」
「結べばいいだけ」
「じゃ、莉子、結んで」
「自分で——」
「お願いっ」
“お願いっ”が、反則みたいに可愛い。わたしは負けた。負ける。
真白の背中に手を回し、帯を整える。近い。距離が。こういうところが真白だ。距離感が、バグっている。
そして、さらにバグる。
「ねえ、浴衣の下って、なに着るのが正解?」
「……普通は、肌着とか」
「じゃ、いらないか」
「いる!」
「え、でも温泉だよ?」
「温泉に入る時は脱ぐ。出たら着る。そういう“社会”」
「社会、めんどい」
「だから旅行に来たんだよ、社会から逃げに」
真白は「ふーん」と言って、浴衣の前をはだけた。
わたしは反射で、旅館の薄い座布団を盾にした。意味はない。でも精神的な盾は必要だ。
「ちょ、ちょ、ちょ。ストップ。せめて、せめて下着は——」
「下着、苦しい」
「じゃあ、苦しくないやつ買おう! 明日!」
「えー。今すぐ解放したい」
「今解放したら、女将さんの“ええと”が“警告”になる!」
真白は考えるのが嫌いだ。だから考えずに、すぐ行動する。運動が好きで、手足が先に動く。
その性質は、仕事ではたまに事故る。旅行では、もっと事故る。
わたしは深呼吸して、作戦を切り替えた。
正面から止めると真白は「なんで?」で終わる。
こういう時は、音楽みたいにテンポで持っていく。
「真白。温泉、先に入ろう。で、出たら浴衣。終わり。いい?」
「温泉、先?」
「先!」
「いいよ! 温泉、走れる?」
「走るな!」
*
大浴場は、まさに絵に描いた温泉だった。湯けむり。木の桶。露天に揺れる竹。水の音。
わたしが湯に足を入れた瞬間、全身の緊張がほどけた。肩がふっと軽くなる。これが欲しかった。
真白は、脱衣所に入った瞬間から危険だった。
脱ぐのが早い。速すぎる。しかも潔い。迷いがない。
わたしがタオルを畳んでいる間に、真白は「ふぅ〜!」と、もう湯の方へ向かっていた。
「待って、髪まとめて!」
「めんどい!」
「めんどいで済ませないで!」
「じゃ、莉子がやって!」
「今、裸の人に近づくのは倫理が——」
真白は湯船の縁でくるりと振り向き、天使みたいな顔で言った。
「莉子、あたし、きれいだよ?」
「理屈が三回目!!」
ギリギリ、なんとか髪をまとめさせ、洗い場で石けんの泡を流させ、ようやく湯船に沈める。沈める、という表現が正しい気がした。
真白は「はぁぁぁ……」と声を漏らして、次の瞬間にはもう機嫌が良くなっていた。
「温泉、最高。ねえ莉子、旅の目的なんだっけ?」
「……聴きたい一曲がある」
「まだ言うんだ」
「言うよ。わたしの命綱だもん」
「命綱って、曲に失礼じゃない?」
「失礼じゃない。曲があったから、わたしは毎日ちゃんと生きてきた」
口に出したら、ちょっと恥ずかしくなった。
真白は湯の中で膝を抱えて、珍しく真面目な顔をした。
「莉子って、ほんとそういうとこあるよね」
「どういうとこ」
「好きなものを、好きって言えるとこ。好きなものが、ちゃんとあるとこ」
「真白だってあるじゃん。運動」
「それは、身体が勝手に動くから。好きって言わなくても、やっちゃう」
「同じじゃない?」
「違う。莉子のは、胸の中にあるやつ。ちゃんと守ってる」
湯けむりの向こうで、真白の顔が少しだけぼやける。
言葉の温度だけが、くっきり残った。
「だからさ」真白が言った。「その曲、取り戻そ。配信から消えたなら、別ルート探せばいいじゃん」
「別ルートって?」
「CDとか。ラジオとか。人とか」
「人?」
「こういう町って、いるよ。なんでも知ってるおばちゃん」
真白が言い切った瞬間、脱衣所の方から「きゃっ」と短い悲鳴が聞こえた。
続いて、女将さんの声。
「お客様……! タオルは、湯船の中には……!」
わたしは反射で振り向いた。
真白が、湯船の中で、堂々と——タオルを頭に乗せていた。しかも、アヒルのように。
「え、だって、かわいいじゃん?」
「かわいいの問題じゃない!」
「女将さん、すみません!」
「お客様、ええと……はい、ええと……」
女将さんの“ええと”が、また出た。
わたしは湯の中で正座しそうになった。沈む。沈むからやめろ。
その夜、部屋に戻ったわたしは、スマホを握りしめたまま、もう一度検索をかけた。
曲名は出せない。だから、歌詞の断片。メロディの記憶。
なのに、どこにも、確かな再生ボタンがない。
「……ねえ、莉子」
浴衣をなんとか着た真白が、枕にうつ伏せになって言った。帯はゆるい。危険。
「明日さ、町でCD探そ。絶対あるって。だって、こういう応援歌って、消えないじゃん」
「消えたよ、配信から」
「配信は消えても、曲は消えない。莉子が覚えてるもん」
そう言われて、胸の奥が少しだけ温かくなった。
真白は破綻してる。危ない。ギリギリすぎる。
でも、たまに、こういうことをさらっと言う。
「……明日、観光案内所行こう。あと、古いレコード屋があるか聞く」
「いいね。走る?」
「走らない」
「じゃ、早歩き」
「それは、まあ」
真白は満足そうに頷いて、次の瞬間には布団の中でモゾモゾし始めた。
嫌な予感がして、わたしは即座に目を上げた。
「……真白」
「んー?」
「布団の中で何してる」
「解放」
「何の」
「足。浴衣、邪魔」
「お願いだから、外で解放しないで。部屋の中で収めて」
「収めるって何」
「社会だよ!!」
わたしは天井を見上げた。
温泉街の夜は静かで、遠くから川の音がする。
そして、わたしの旅はたぶん、明日から本格的に忙しくなる。曲を探すために。真白を止めるために。
でも——あの一曲が戻った時、きっと、全部が“いい思い出”に変わる。
そう信じられるくらいには、湯は温かくて、布団はふかふかだった。
枕元で、スマホの画面だけが冷たく光っている。
再生できない応援歌の代わりに、通知が一件。
《“配信停止”の情報を見つけました》
わたしは息を止めた。
そして、真白が隣で寝返りを打ちながら、寝言みたいに言った。
「ねえ莉子、明日、町の人に聞こ。あたし、交渉得意。裸で——」
「それは交渉じゃなくて事件!!」
わたしのツッコミが、温泉街の夜に小さく溶けた。
(つづく)




