人前でハグしないでください旦那さま
私はここ、ライオネル侯爵家でメイドとして働いている。だいたい二年が経った。家族と呼べる家族はいない。私には帰る場所はない。
狭い居室で目覚めると、「うーん」と伸びをした。白いリネンのナイトドレスからメイド服へと着替える。もう、ここの生活にはだいぶ慣れてきた。――一つの例外を除いて。
旦那さまの食事を用意し、ダイニングで到着を待つ。他にも二人のメイドが並んでいる。私を見る目はどこか浮足立っている。
「今日も見られるのかな、旦那さまのアレ」
「羨ましい限りだよねー」
絶対に私のことを言っている。恥ずかしくて目を伏せた。私の気持ちなんて、きっと旦那さまには届かない。
この屋敷の主であるライオネル侯爵――スティーブ様は今年で二十三歳になられるのに、婚約者がいらっしゃらない。彼の艶のある長い漆黒の髪と、澄んだ空色の瞳を見れば、誰もが心を奪われるというのに。公表されていない、好きな人がいらっしゃるのだろうか。でも、それならなぜ私を――。
「ダリア、おはよう」
この低く透き通った声は旦那さまだ。空色の瞳が笑った瞬間、私を抱き寄せる。毎朝の恒例行事だとは言え、やはり慣れない。
「だ、旦那さま……」
「ん? なんだい?」
「お顔が近いです」
「そうかな」
息がかかりそうな距離に、顔は沸騰したかのように熱くなる。ぱっと身体を離され、慌てて服を整え、先程の位置に並びなおす。そんな私に、旦那さまはまたしても微笑むのだった。
「今日は庭の薔薇をいつも以上に美しく見せたいんだ。それに、床もピカピカに磨いて欲しい。第一王子殿下がいらっしゃるからね」
「かしこまりました」
まさか、王子殿下が来るなんて。これまでにない緊張が襲ってくる。それ以上に、王子殿下を一目見られるかもしれない期待と興奮が私の心を満たしていく。握った両手は密かに震えていた。
旦那さまが食事を終えた後、私たちも質素な食事をいただく。今日はオムライスだ。シェフの顔を見てみれば、自信満々に親指を立ててくれた。とろとろの卵がチキンライスと混ざり合い、まろやかな味わいを与えてくれる。私たちがこうして美味しく料理をいただけるのも、旦那さまのお陰なのだ。裏方からでも、しっかりと旦那さまを支えなくては。自然と決意がみなぎる。
廊下の床磨きも手を抜かない。男性陣がカーペットを退けてくれたので、私たちメイドが徹底してモップがけをした。その間も会話は弾む。
「王子殿下、私たちも見られるかなぁ……」
「お付きに選ばれるか、タイミングが合えば、だね」
「結局、運かぁ……」
王子殿下は旦那さまに劣らずの美男だと聞いている。もはや、国中の憧れの的だ。ご令嬢たちの中には、実際に王子殿下に恋した方もいらっしゃるらしい。メイドたちの噂で聞いた。
「ダリア、運が巡ってきたんじゃない?」
「えっ?」
「だってほら、旦那さまに一番気に入られてるでしょ?」
そうなのだろうか。自分ではよく分からない。だって、ハグされるだけなのだ。言葉では、『お気に入りのメイド』だとか、『一番近くにいて欲しいメイド』だとか、全く言ってくれないのだ。
私は旦那さまにどう思われているのだろう。首を傾げて、仲間のメイドたちを見た。
「気に入られてる自覚ないの?」
「うん」
「これは……マジかぁ……」
何故、こんなにもがっかりするのだろう。やはり、分からない。
「って、話してる場合でもないか。床をピカピカに磨き上げないと」
笑い合いながら、仕事に戻る。私は気に入られているのだろうか。だから、ハグをされるのだろうか。しかも人前で。
ぽっと頬が温度を上げるのを気にしながら、モップを握る手に力を込めた。
モップがけもあと半分、といった頃だろうか。
「ダリア、ちょっといい?」
メイド長からの呼び出しを受けた。手招きされるがまま、メイド長の部屋へと向かう。
「ひょっとして、ダリアが旦那さまのお付き?」
「えっ? いーなー!」
仲間たちの驚きと落胆の混ざった声が聞こえた。
ドアを閉めると、メイド長は温かな眼差しを私に向けてくれた。
「旦那さまが、今日のお付きはダリアにしたいとのことでしたよ」
「私で……良いんでしょうか」
「貴女だから良いんです」
その穏やかな眼差しの中に、厳しさも垣間見えるようだった。
「だから、服も新品でなくてはいけませんね」
「私はこのままでも――」
「旦那さまに恥をかかせる気ですか?」
謙遜したつもりが、かえって怒りを買ったらしい。とんでもないと首を横に振ると、メイド長はクローゼットに手を伸ばす。仕立てられたメイド服にはレースもあしらわれていて、いつもよりも豪華だ。
可愛い服を着られる。選ばれて良かった。ちょっとだけ優越感に浸ってしまった。
「着替えてらっしゃい。お付きの時間が来たら、誰かが迎えに行きますから」
「分かりました」
メイド服を受け取り、自室へと急いだ。まさか、自分がこんな役目を任されるなんて。王子殿下の前で旦那さまに恥をかかせる訳にはいかない。私もしっかりしなくては。こんな時がくるのなら、少しでも礼儀作法を勉強しておくのだった。後悔しながらも、煌びやかな世界に胸をときめかせる。
手に汗をかきながら、椅子で待機してどれだけ立っただろう。緊張で時計を見る余裕もなかった。不意に、ドアが三回ノックされる。
「ダリア、出番だよ」
迎えに来てくれたのは、この屋敷の執事長――いわば使用人の総まとめ役だった。
「今行きます!」
「走らなくていいよ」
若干、白髪が混じった彼は「ははは」と笑いをこぼす。でも、胸が高鳴って仕方が無いのだ。何と言っても、私はこの屋敷のメイド代表となったのだから。
応接間で執事長と二人、その時を今か今かと待つ。生唾は飲み込めるのに、喉がひりついて仕方がない。
「今日は特別な話があるんだろ?」
「ああ。それは部屋でゆっくり話したい」
廊下から会話が聞き漏れる。旦那さまと王子殿下は親しい仲なのだろうか。と、小首を傾げている場合ではない。平常心を保たなくては。
扉が開かれると同時に、王子殿下を連れた旦那さまが私に微笑みかけたのだ。そして――。
「だ、旦那さま!? 王子殿下の前で……おやめください!」
私の身体をいつものごとく抱き締めたのだ。いつもと変わらない、優しい力で。
「ケルヴィン。俺は、結婚するのならこの人と、と決めている。許されないのなら、独り身で生涯を終えるよ」
頭にはてなが並ぶ。旦那さまは何を言っているのだろう。結婚するのならこの人と――つまり私、ということだろうか。では、旦那さまが好きなお相手は、私――。
情報処理が追いつかないくせに、顔だけは高温を帯びる。
「まさか、メイドとはな。彼女は了承してるのか?」
「いや。今、初めて言った」
「お前なぁ……」
王子殿下は溜め息を吐き、茶色の髪に手を当てる。私としては、了承している、していないの話ではないのだ。そもそも身分が違い過ぎる。
そうだ、きっと旦那さまは冗談を言っていらっしゃるのだ。そうに決まっている。いつものように旦那さまの顔を見上げると、まっすぐな空色の瞳が返ってきた。
「ダリア、君は俺のことが好きか?」
「好きです! 大好きですが、それとこれとは違――」
「どう違う?」
問われた後で、私は王子殿下の前で旦那さまに告白してしまったと気づいたのだ。どうしよう。頭の中はパニック状態だ。目を瞬かせ、冷静さを取り戻そうと試みる。
「私はメイドで、旦那さまのことは大好きで、人間性も尊敬していて……」
「それで?」
今度は王子殿下が合の手を入れた。
「毎日ハグをしてくださって、お優しく返事をしてくださいますし……」
「それでも君は気づかなかったんだな」
旦那さまは私を抱いたままで苦笑する。
「じゃあ、これでどうだ?」
吸い込まれそうな瞳は急接近し、瞼を閉じる暇もなく、唇が触れた。ここまできてようやく気づく。これは冗談ではない、と。
顔が離れていくと、ようやく胸の奥底に眠っていた旦那さまを『愛おしい』と思う気持ちに気づいた。
「嫌がらなかったね」
「うん、嫌がらなかった」
旦那さまと王子殿下は顔を見合わせ、にこにこと笑う。
「国王陛下の許しももらいたい。ダリアとの謁見は大丈夫だろうか」
「問題は無いだろう。謁見の件は、俺の方から伝えておくよ」
「ありがとう」
私は、この方を独り占めして良いのだろうか。信頼され、尊敬され、誰からも愛されるこの方を。そう思うと、我慢が出来なくなってしまった。旦那さまの背中に腕を回し、ぎゅっと抱き締める。
「返事は……聞かなくても良いみたいだな」
「ダリア。これからは俺の婚約者として接してくれ」
「……はい」
「これから大変だぞ。貴族の教育を全部受けなくちゃいけないからな。加えて、花嫁修業も」
王子殿下の言葉に、この道は楽な道なんかではない。いばらの道だということを再確認させられる。旦那さま――スティーブ様の近くにいられるのなら、なんてことはない。こんなにも急展開なのに、覚悟はすんなりと決まった。
「ダリア、おめでとうー!」
突然開いた扉と破裂音に驚いてしまった。使用人の皆がクラッカーを片手に、にこにこと笑っていたのだ。
「きゃー! 王子殿下、こちらを向いてくださいー!」
「あぁ……もう幸せ過ぎる……!」
言葉とは裏腹に、女性陣は私そっちのけで王子殿下に夢中だ。男性陣はそれを見て苦笑いをしている。
「ダリア、驚かせてしまったが、改めて伝えたい」
スティーブ様は身体を離すと、ひざまずいてにっこりと微笑んだ。そっと手を差し出し、私の瞳を捉える。
「俺と結婚してください」
fin.
風花様のタイトルをいただいて、小説を起こしてみました!
読後に胸が温かくなるような話にしてみました。