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9:幻想粉砕

 こうして無事に生き残れたというのに、目の前に熊五郎が居て心配そうにしているのに、私は吸い尽くして干からびた魔物の傍らで、呆然として言葉を発することも出来なかった。

 自分が生き物を殺せるとは思わなかったし、本能に従って────いや、歓喜の中で殺したという事実に吐気を催す。

 いつの間にそんな残忍な人間になってしまったんだろう。ここに来るまでは確かに人間としての理性を保っていたのに。


「桃子、深く考えるな。ああしなければ君が食われていたんだ」


 熊五郎の言葉は理解できる。殺らなければ殺られていた。

 解るのに、解りたくないと思ってしまう。それでも視界をのろのろと上げて、熊五郎の顔を見て、私はおぼろ気な意識を取り戻す。


「桃子、君が負い目を感じることは無い。解るな?」

「…………」

「勿論、今すぐに割り切れとは言わない。だが君がここに来た時点でいつかは起きた事だ」

「……本当に、起こったのかな」


 荷物なんか取り戻しに来なければ出会わなかったかもしれない。

 あのタンクルルだって、私が現れなければあの場に警戒していなかったかもしれない。

 己の不注意な行動によって生き物を間接的に貶め、己が生き残るために生き物を殺した。その事実を覆すことはできない。

 そしてその証拠は目に見えて私の体に残っている。大量に吸った生き物の体液。緑色の血が体に駆け巡り踊っている。

 けれど熊五郎はこともなげに言う。


「確実に起こったさ。ここで魔物に出会わなかったとしても、村で追い回された時のように、どこかの住人の手によって捕獲され、桃子は食べられていただろう。そして君は抵抗し本能に従って住人を殺す」

「なんでそんなこと言い切れるの?」


 他に手段はあったかもしれない。食べられない方法とか、殺さずに逃げる方法とか。けれどいまとなっては後の祭り。私の我儘で、完璧に八つ当たりというのは自覚していたけれど、魔物の体液を吸った私は感情を上手く制御することが出来ずにいた。

 自分の手で生き物の体温が失われていく感覚、そして内側から破壊した際に浴びた緑色の血の感触。そして胎内に蓄積された血の味が酷く美味くて堪らない。

 けれど人間としての気持ちがそれを否定したいと叫んでる。


「それがこの世界でのルールだからだ。弱いものは強いものに食われる。そして生きていくために、抵抗するのは当たり前のことだ。それは桃子の世界でも同じだっただろう?」

「けど……!」


 すると熊五郎は呆れた声で呻き、私の側に降りたって決定的な一言を言い放つ。


「これまでの出来事でとっくに解っていたのだと思っていたのだがな。ならばはっきり言おう。────……桃子がどんなに主張しようと、この魔界ではただの食材でしかない」


 熊五郎は淡々と告げる。ただの食材。個人の尊厳すら無視したその言葉がぐっさりと、胸の内に突き刺さる。熊五郎の言うとおり、自分でも解り切っていたことだけれど、人から言われるのとでは威力はまったく違う。

 私は呻いて今度こそ地面に突っ伏した。

 なんだそれ、自分で選んでスライムになったわけじゃないのに。


「なんでそうやって決め付けるのよ!」

「だが事実は変えようが無いだろう。個人として認めてもらうためにはここではある程度強くなくてはいけない」


 傷口に大量の塩を塗り込められて更に海水をかけられた気分だ。見た目それほどでもないけど痛いんだぞ、地味に。


「とにかく。あの技はここで桃子が生きていくのに必要な術だ。他者を殺した後悔を引きずる前に、自分の命の心配をしろ」

「う、ううーーッ!!」

 

 苛々する。熊五郎の癖に。ヒラメ顔のぬいぐるみの癖に。

 上から目線で横暴なことを喋っている。

 それでもろくな反論もできず【そういう世界なのだから仕方がない】という免罪符を得て、心のどこかで安心する自分に最高に腹が立つ。

 ほんとずるくて汚い。


「桃子」

「なによッ!!」


 悔しくて堪らない。名前を呼ばれて、再び怒りに顔を上げた瞬間。

 いきなり優しく撫でられた。ぽふぽふと真綿の詰まった腕で、まるで子供にするような優しい仕草で。


「怖かったろうによく頑張ったな、桃子」


 宥めるように、熊五郎は優しく魔物の血で汚れた体を拭ってくれる。自分が汚れるのも構わずに。


「うっ……ひぐっ……うわぁぁぁん!! 熊五郎ー!!」

 

 緊張していたところにそんな声を掛けられて、私は不覚にも安心して鼻水を垂らしながら泣いてしまった。

 怖かった。異世界に行きたいと抱いていた気持ちは確かだったけれど、それ以上に生きながら食われて殺されかけるという出来事にダメージを負っていた。

 異世界ならば、元の世界とは違う夢のような場所がある。どんなに辛くてもあちらの世界よりはマシだ。

 そうやって私が長年抱いていた異世界への甘っちょろくて子供っぽい幻想は、異世界での現実によって今度こそ、こっぱ微塵に砕かれたのだった。



 タチアナの情報を元にコルモの村へ入ったバーガンディは、中央広場から村への入り口にかけて、横倒しにされている大木を目に留めて首を傾げた。


「どうしたのですかあれは?」

「も、申し訳ありません。この村の住人が切り倒してしまいまして……」

「病気や害虫駆除以外で勝手に切り倒されては困りますねえ」

 

 現在魔界にある樹のほとんどは、魔王が居た頃に異界から輸入された物だ。毒素が一切含まれていない清浄な生物は、魔界を維持するために必要なもの。全て国の監視下にあり、特別な理由も無い限り勝手に切り倒すのは許されていない。

 この村を管理している初老の男は、バーガンディの注意に対して仕切りに剥げかかった頭を下げている。

 バーガンディはとりあえず、樹の件は担当者に任せるとして、今回の被害者の元へ足を向けた。


「被害者はトカゲ族の少年だそうですね」

「はい。ピーチスライムを捕獲した際に鳴き声にやられ、鼓膜を損傷。他の住人はスライムの芳香に当てられ、三日は酩酊状態にありました。現在は派遣された医師の手により回復に向かっています」

「その少年には大変なことでしたね」

「いえ、聞けば管理局に報告せずに家族と食べるつもりだったそうで、管理者としてはお恥ずかしい限りでございます」

 

 希少生物の保護はあまり重要視されていないが、報告せずに無断で食したり、生命に関わるほどの危害を与えた場合、百年以下の無償奉仕、もしくは体の一部を食料として差し出す羽目になる。

 もしも少年がピーチスライムを食していたら、失っていたのは鼓膜だけでは済まされなかっただろう。


「いえ、未遂に終わってよかったのでしょう。それで少年の家は……」

「こちらです」


 管理者によって空けられた扉、その部屋の奥にトカゲ族の少年が座っていた。医師から差し入れでもされたのか、沢山のお菓子が卓上に置かれ、それを無邪気に貪っている。

 その意外にも健常そうなそうな姿にバーガンディは眉を寄せながらも、管理者をドアの前で待機させそっと少年に歩み寄る。

 

「こんにちは。君がピーチスライムを捕まえたんだって? よかったら僕にその時の状況を教えてくれないかな?」

「オジサンだれ? かんりきょくのしょくいんとかいうやつ?」


 少年の発したある言葉に付いて、額にビキリと音を立てて血管が浮き上がる。バーガンディは確かに長く生きてはいるが、見た目も気持ちも若者のつもりだ。オジサンという言葉を許容出来ない。


「……君は目上の人に対する口の利き方を、先生やご両親から教わらなかったかな?」


 苛立ち紛れに少年が手に取っているフォークを目の前で粉砕すると、少年は青覚めて居住まいを正した。


「……ご、ごめんなさい。おじッ、お兄さん!」

「とても素直な子で僕も嬉しいよ。それでピーチスライムのことなんだけれど、どうして鼓膜が破れるような事態になったんだい?」


 体を硬直させた少年を見て、バーガンディは意識して物腰を柔らかく勤める。すると少年はなんとも複雑そうな顔をして、忙しなく両手を擦り合わせていた。


「えと、あの……話しても、僕とおかあちゃん捕まらない?」

「事の次第によってはそういう場合も訪れるかもしれない。けれど君がすべて話せば、情状酌量の余地はある」

「じょうじょうじゃく?」

「……正直に言えば助けてあげるよ」

 

 普段子供に接する機会の無いバーガンディは少年が首を傾げたのを見て、少しバツが悪そうな顔で言い直す。すると少年は明らかな安堵の表情を見せ、その縦長の瞳を閃かせた。


「全部言うよ。そのかわり怒らないでね?」

「わかっているよ」


 そうして少年から齎された情報は、バーガンディの金色の瞳を驚愕に見開かせるに十分なものだった。

 

 少年と家族の拘束を解除させたバーガンディは、狭間に出ると首元に付けられた紅い石を眺めた。この任に就かされてから片時も離さなかった、目の装飾を施された宝玉。

 魔王が異界へと旅立つ前に預け渡された狭間を渡るための道具だ。


「帰ってきて下さったのか。良かった。ほんっとうに良かった……ッ!!」

 

 バーガンディは嬉しさに咽び泣く。

 この一万年耐えに耐えた苦労がやっと報われる瞬間が、間近に迫っているのだ。

 少年から齎された情報、そしてそのピーチスライムの能力が本当であるのなら。

 もしもそのピーチスライムが魔王であるのなら────。

 

「僕は自由だーーーー!!!」


 やっと宰相のお守から解放されるその嬉しさたるや、尋常ではない。

 バーガンディは興奮の声を上げながら、上機嫌で空間の狭間を飛び抜けたのだった。

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