7:異世界の事情
丸くてバランスの取り扱い辛いスライムの体を弾ませながら、私は熊五郎の後に続いて外に出た。結晶石の洞窟から出ると、突き抜けるほどに澄みきった蒼い空が覗く。
ここは魔界という場所なのに、あちらの世界と似ているところが意外に多い。
空気や景色も、魔界という定着された暗いイメージとは程遠く、清浄な空気をはらんでいる。
正直、排気ガスとか無い分、あちらの世界よりも綺麗なんじゃないだろうか。
目の前に広がる湖一つにとってもそれは言えることで、数メートル先の水底が見渡せるほど透明度が高く、雪を厚く被った山々や周辺の木々が湖面に反射するとまるで二対の絵のように美しい。
そんな絶景を眺めながら、あらためて感嘆の息を付く。
「魔界っていう割りに、ほんとに綺麗な所が多いんだね」
「ああ。だがそれはおそらく清掃会社のおかげだろうな」
「……………………は?」
清掃会社? あるの、魔界に、そんなもの。
しかし熊五郎はこちらの戸惑いにも気がつかず、淡々と説明してくださった。
「ここを出て行く前に民間業者に管理を委任したんだ。しっかりした所長だったから心配はなかったがここまで綺麗にしてくれるとは、有り難いことだよ」
「……へ、へえ」
「それまでは魔女が住み着いた所為で、どこもかしこも悪臭が漂っていてな。こうしてゆっくり眺められるようなものではなかったんだ。今はそういうこともないようだし、希少価値の高い光燐魚が増えたようでよかった」
熊五郎は宙に浮きながら湖の上に立ち、綿の詰まった手を近づける。
すると先ほど言った光鱗魚────どう見てもアンコウ、しかも金色に光っている魚がふよふよと寄ってきて、鋭い歯をギャッギャとむき出しにした。
大人しい種類だから触ってみろとか言われたけど、私はやっぱり手が出せない。
すんません。無理です。あいつらの目が私を見た途端、食う気満々に赤く光り輝いてドン引きです。
「ええと、なんで魔女が居ると環境に悪いの?」
「すべての魔女がというわけではないが、実験と証して公共施設を破壊したり、水辺に有害物質を撒き散らすような奴等が多かったんだ。徒党を組んで民衆を襲撃するようなこともあってな。何度忠告しても改善しようとしないから、迷惑行為常習者はまとめて力を奪い、狭間の中に放り込んだ」
「す、すごい魔女もいるもんだね…」
……テロ組織と変わらないような。
想定していたラブリーな魔女っ子とはほど遠い、その所業に体を震わせる。
「もっとも、研究者肌の奴等のことだ。そろそろ狭間にワープホールくらいは作ってるかもしれん」
そしてもの凄くスケールの大きい話を淡々と喋る熊五郎に、私はもう呆気に取られて口をぽかんと開けるしかない。というか、熊五郎……さっきから思ってたけどあんた何者なんだ。
「桃子も気をつけろ。水辺に不用意に有害物質を流せば一億の罰金と最低百年以上の無償奉仕を科せられるからな」
「……う、うん。気をつけるよ」
っていうかそんなこと聞かされて出来るわけねー……。と言いたい所を我慢して、私は熊五郎の異世界講釈に聞き入ることにした。
しかし聞き及ぶにつれて新しいことが解った。熊五郎の話では以前の魔界は、私が当初イメージしていたような混沌とした世界だったようだ。
水辺は毒素に溢れ悪臭を放ち、作物はその影響を受けて変異を起こし、ほとんどの生態系の姿を猛毒の持つ特殊形態へ変貌させてしまったらしい。
なのにここに住むものはそんなこともどうでもいいとばかりに、唯一安全である食べ物すらも根こそぎ搾取してしまい、魔界は深刻な食糧危機にあるのだそうな。
このままでは現在の生態系並び、魔界国民の存続が危ういとのことで、絶滅危惧種の保護という建前の元に魔界にも適度に清涼な部分を残しておくような措置がされたのだという。
……環境破壊が深刻なのは地球だけじゃなかったんだね。まさか異世界でもこんな状況に陥っているだなんてなぁ……。
「魔界は元々自給率が低くてな。昔は他界から多くの食料を輸入していたんだが、資金振りやらが上手く行かなくて。地質の向上から原種の交配にいたるまで苦労したものだ」
私は熊五郎の苦労話というか、実際ためになるのかならないのか解らない話を聞きながら、笑顔の影でひっそりと溜息を付く。
そして熊五郎の発言により、この十年間異世界へ抱いていた幻想が、徐々に崩れていくのをひしひしと感じていた。
*
「は~あぁ……あふ」
「あらあらバーガンディ様。よほど疲れていらっしゃるのね。付き合わせてしまったようでなんだか申し訳ないわ」
「はは。これほど心地良い疲れならばいつでも歓迎するよ、タチアナ」
バーガンディは探査の合間に久々に休暇を取り、恋人の一人であるタチアナの元へと足を運んでいた。各地に一人づついる恋人の中で、いま現在バーガンディがもっとも熱を入れ上げている兎族の高級娼婦だ。
滅多に取れない彼女の指名を、恋人という特権に置いて勝ち取り、体も心も十分に満足させたバーガンディはすこぶる機嫌がいい。宰相の嫌味と暴力と横暴も忘れ、今ばかりは恋人の膝の上に寝転がる。
いつもの娼館の中ではなく、高級宿で二人きり。
頬に触れる柔らかな手に、バーガンディは猫のように目を細めて笑う。
「タチアナは相変らず美しいね」
「まあ、バーガンディ様ったら。褒めてもなにも出ませんわよ」
ころころと鈴の音を鳴らしたような美しい声で笑うタチアナの姿に、バーガンディはささくれだった気持ちが潤っていくのを実感していた。
「タチアナ。そろそろこの仕事を辞めて僕の館に来してこない? 勿論、君に不自由な思いはさせないよ」
「まあ。申し出はとても嬉しいですけれど、私はまだ貴方の恋人達に恨まれるつもりはありませんの」
それにこうしてたまに会うからいいのですよ、と言ってタチアナは白い兎の耳を垂れさせふわりと笑う。その姿に変な意地や嫉妬といった感情は見えない。
バーガンディはタチアナとの他愛の無い駆け引きに艶のある笑みを馳せ、そのしなやかな腕を引き、白い指先に口づけを落とす。
「つれない人だなぁ。そういうところも好きだけれど」
「うふふ、私も好きですわよ。───そういえば少し面白い話を聞きましたの」
「ん?」
仕事柄かタチアナの人脈はかなり広範囲に及んでいる。上客から流れた情報はかなり眉唾なものから、あるときには眉を顰めるような悲惨な物まで多岐に渡る。勿論タチアナも守秘義務があるので滅多に話すことはないが、バーガンディの立場を思ってかこうして度々有益な情報を流してくれていた。
そうしたタチアナの”心遣い”を得られたことに、バーガンディは嬉しげに金色の目を細め先を促す。
「コルモの村で絶滅危惧種が発見されたそうですわ」
「なに? 攻撃系統の特殊魔獣かい?」
「いいえ。そういう危険なものではなくて、食材として扱われていたものだとか」
「絶滅危惧種指定の食材ねえ。この辺の地域なら…フランクドッグとかハニービーかな?」
フランクドックは香辛料のようなスパイシーな芳香を放ち塩味の効いた極上の肉質を持つ食料犬で、ハニービーは文字通り、蜂蜜のような甘さの分泌液を出す食料虫だ。どちらも絶滅間際にあり育成が困難な種族。汚染や大量搾取がなければ、現在でも国民の食卓を彩り豊かにしていたであろう極上の味を持つとされる種である。
バーガンディ自身は味わったことはないが、この仕事に付く前に散々資料を読まされたので嫌でも覚えている。
「いいえ。そういうのではなくて、可愛らしい軟体生物なのですって」
このくらいの。といいながらタチアナは両の手で子供の頭一つ分くらいの大きさを形取る。その円形上の大きさで軟体動物。かつ陸地を歩くものといえば思いつくものは一つしかいない。
「ああ、スライム種か。グリーン? レッド? ブルー?」
スライム種は中心部にある核と水分さえあれば、どんな場所でも勝手に発生する魔物の中でもかなりの下等指定種だ。その育成法の容易さから一時期では食糧危機の救世主とまで言われていたが、スライムは基本的に味も素っ気もないため、民の食事に根付くことも無かった。
いまでもあまり人気はなく、また売れないことが解っているからか市場でもめったに見ることはない。
「ええ。それがなんとピンクだったそうですわ」
「──……ピンクッ?! 本当に?」
ピンクのスライム。それはこの魔界では知らない者はいないといわれるほどに有名な幻の超高級食材・ピーチスライムだ。
通常のスライム種とは違い、蕩けるような柔らかい舌触りと果実のような甘さを持ち、周囲を魅了するほどの芳香を放つという。
ジュースにも肉や魚料理のソースにも、勿論デザートとしては一級品の優秀食材。
高名なパティシエ、レザート氏の論文から一躍有名になった、数千年に一度と言われる頻度でしか生まれない突然変異のスライム。昔は相当数いたらしいが、論文が出て以降は全ての核を食い尽くされ絶減。
その余波を受けてか、当時はスライム系も存続が危ぶまれるほどに乱獲されたという。
しかしピーチスライムの記録が残っているのは随分前、──だがそれが真実ならば保護対象とも成り得るだろう。
「……それはいつの話?」
「六日ほど前ですわ。私のお友達が住人を診察にいったそうなのですけれど、接触した周囲一メートルの住人がその変異種の放つ匂いで酩酊状態。丸三日も昏倒していたそうですの」
変異種には本来の性質とは異なった能力が備わっていることが多い。
過去そういった変異種の能力が研究され、様々な記録も残っている。だがそれほどまで長期化持続する能力などは聞いたことも無い。
バーガンディは齎された情報に、正式に調査するべきことだろうかと思考を巡らせ始めていた。
己の真上にあるタチアナの美しい顔も目に入らずに。
「気になりまして? バーガンディ様」
タチアナの言葉に我に返ったバーガンディは一瞬バツの悪そうな顔を見せ、しかし膝枕と眼前にあるたわわな胸という絶景の誘惑に勝てずに撃沈した。
「いや! 今日は折角の休暇だし、君との逢瀬の中に仕事を持ち込むなんてどうかしてるよ。そうだろう?」
「……まあ。私に溺れて下さるのは嬉しいことですけれど、その間にピーチスライムちゃんが誰かに食べられてしまったらと思うと、流石に私も心が痛みますわ」
少し悲しげに目蓋を伏せるタチアナに、バーガンディは息を詰まらせる。
彼女は基本的に優しい女性だ。けれどプライベートと仕事どちらかを選べという選択に置いて、真っ先に仕事を優先するような男を好み、恋人として迎える傾向にある。
出来る男にしか靡かないタチアナ。
美人で気立ても良く、競争相手の多いタチアナのことだ。もしもここでバーガンディが行かなければ、今後誘いの手をのらりくらりとはぐらかし、別の男のもとへと行ってしまうだろう。
それが解っていたバーガンディは諦めたように溜息を付くと、名残惜しげにタチアナの手に唇を寄せ、宿から出立する羽目になったのだった。
ちょっと設定盛りすぎた感