番外:宰相閣下の反抗
負傷した患者が眠る小さな天幕の中で、一人の男が苦悶の表情をして唸っていた。
その額にはこれ以上無く皺を刻み、フレームレスの眼鏡が掛けられた蒼い目元は、一点を注視したまま微動だにしない。
グレーのスーツを身に纏い、見たものにクールな印象を与えるその人物。清潔そうな白いシャツと蒼いネクタイ、胸元にある銀カフスが品よく煌き、綺麗に梳かれた銀の髪は彼の理知的な顔立ちをより惹き立たせている。
だが彼はいま、安っぽい木の椅子に座り、ひたすら顎に手をあてて何事かを考え込んでいた。
例えるならばその格好は、かの有名な彫像・考える人ロダンのような姿である。
「桃子」
「ん……」
しかし二人の声を聞いた途端、彫像の如く固まっていた体がギギギと動く。ずっと、出来れば男が視界にも入れたくなかった者達へ、その鋭い目が向けられる。
そこにあるのはベットの上で眠り続ける傷だらけの少女と、熊のぬいぐるみの姿。
二人は寄り添うようにして眠っていた。正確に言うならば、熊のぬいぐるみが眠っている少女に引き寄せられ、抱き込まれた結果なのだが。
しかしその中身を知っているからこそ、男は眉間に深い皺を刻む。
彼の心中はいま、様々な気持ちに彩られている。
魔王が帰還したことによる喜び。これで重責から開放されるという安堵。
しかしそれと相反して、抑えきれないほどの負の感情も持ち合わせていた。
何故待ち望んだ人が熊のぬいぐるみの姿であり、ピーチスライムな少女となにやら親密な様子であるのか。
しかも一緒に寝ている少女の腕を振りほどこうともせず、ニヤついた笑みを馳せているそのツラの皮。
あまつさえ、その声の甘い感じといったら……。
男はこの状況を受け入れたくないのか、頭をかきむしり、苦悶の呻きを上げる。
「アクセル」
「……なんですか、魔王様」
「どこか具合でも悪いのか。お前がそんな声を上げるだなんて」
その原因を作ったのは誰だ!と怒鳴りつけたいのをアクセルは必死に堪えていた。堪えろ堪えろと心に釘打ち、ぎりぎりと歯を食いしばる。
しかし目の前にあるヒラメ顔は、アクセルの心の平穏をぶち壊すほどに小憎たらしい。
威厳のイの字もないそのぽにゃっとした様相、いちいち媚を売るような愛され仕草が目にも癇にも障る。
自分の歳と性別と立場を、即刻再確認しろと言いたいのを堪え。
以前のアクセルであれば決してあり得ないことだが、気が付けばその口から嫌味を放っていた。
「奇声を上げるのも致し方ないことかと。なにせ私の敬愛すべき魔王様が、まさかの 少 女 趣 味 だと判明したのですから」
少女趣味と書いてロリコンと読む。その指摘に、熊のぬいぐるみは眉を寄せて口元に可愛らしく手を当てた。
「突然何を言うんだ、アクセル」
「でなければ説明が付かないでしょう。そんな年端もいかぬ、子供のような寸胴体型の小娘に対して懸想するなどありえません」
「寸胴……。アクセル。出来れば本人には言わないでやってくれ。傷つきやすいお年頃だからな」
「言いませんよ……! ですがもう隠さずとも結構です。さあ仰ってください。いままでその性癖で苦しんでいたのだと! だから出奔なさったのだと……!」
「そんな理由で出奔するわけないだろう」
「だったら何故真っ先に帰城せず、小娘の相手などしていたのですか……! この小娘、いえ人間に鍵まで与えて庇護したのは、単なる同情からなせた事だとでも仰るのですか!」
激昂するアクセルに対し、熊のぬいぐるみはやれやれと嘆息する。そしてそのマヌケな顔をややキリッとさせるとアクセルを見据えた。
「確かに、鍵を与えたのは同情からだ。この世界に降り立ったとき、この子は何も考えていないうえに、指示しなければ行き場も解らないほどだったからな」
「何も? それはあり得ないでしょう。この世界に堕ちてきて、今さら何を」
「まあ聞け」
熊のぬいぐるみはアクセルの言葉を遮り、桃子がこの世界に降り立った状況と行動、そしてノックスに襲われ、喰われそうになったことまで詳細に述べた。
アクセルは突然の話に驚きつつも、桃子の証言と照らし合わせながら静かに話しを聞いた。……しかし桃子の突拍子も無い行動を聞くにつれ、その表情は呆れたものへと変わっていった。
「お前ならばどうする。右も左も解らない子供に対して、飴でなく鞭を与えるか?」
「それは……」
「放り捨てるのは簡単だろう。だが俺は桃子の人となりを見て、育てたいと思った。こちら側に自ら飛び込んだ桃子が何を成したいのか、その行く末を見てみたいと思ったんだ。だから鍵を与えた。……逆にそれが、この子にとって辛い想いをさせることになってしまったようだがな」
熊のぬいぐるみは、そう言いながら己に抱きつく桃子の頭を撫でる。その触れ方はあくまでも優しく、傷つけるようなものではない。
「お前が何を危惧しているのかは知らないが、俺は桃子とはそういう関係ではない。そう思われては桃子が可哀想だ」
「しかし……」
「心配しなくとも、こんな寂れたオヤジが入った熊のぬいぐるみなど、相手にもしないだろう」
果たしてそうだろうかと、アクセルは疑念を抱いていた。
利害関係もなく、また下心すらもなく、己に取ってなんの価値もない小娘を助けるなど。
それに少女────桃子が示したあの時の言葉。
『……ちゃんと戻ってくると思うんです』
あの時の思いつめた表情は、その場限りの相手に向けられるものではない。
門外漢のアクセルですらそれが感じ取れるほど、桃子の気持ちには特別な何かを感じられずにはいられなかった。
それは熊のぬいぐるみに対しても同じく、また言葉を正面から信じられるはずもない。
アクセルは納得いかず、渋い表情を取った。
「まったく、まだ疑っているのか」
「昔の私でしたら簡単に騙されていたでしょうが、今は違います。それに貴方が気に掛ける程の価値がこの小娘にあるとは思えません。なによりも以前の貴方ならば、価値のない人間を選ぶなど有り得ないことでした」
統治時代の王を知っているからこそ、その甘さと優しさが信じられない。
他を淘汰するのに一切情を挟まず、その表情をまったく変えることなく、その手で逃げ惑う罪人の首を撥ねる冷淡さ。
自らが認めた身内の、それこそアクセルとバーガンディ、そして北領王夫妻以外には示さなかった情だ。
「以前の俺、だったらな。俺も永く旅をしたことで変わった。いや変わらざるを得なかった。だがお前が信じらないというならば、それでいい」
熊のぬいぐるみは桃子の腕の中から抜けだすと、アクセルの前にふわりと降り立つ。
その体躯は小さく、以前のそれとは全く違う。
そしてアクセルは、朧気に解ってしまっていた。
己も、そして敬うべき目の前の男も、全てが変わってしまった。いまならばこの片手で、存在を消すことも可能だろうと。その事実にアクセルの心の一端が冷えていく。
「……解りました。そう言い切るのならば、私もこれからは自由にさせて頂きます」
アクセルはフレームレスの眼鏡を押し上げ、その視線を熊にぬいぐるみから外した。
そしてベットに眠る桃子の顔をじっと見つめる。
北支柱の部屋で出逢った時に見た、ふっくらとした頬。
血色が良かったそれがいまは黒く汚れ、体のあちこちにある痣と首元の捻れが痛々しい。
その頬にアクセルは意識的に己の指先を滑らせた。隆起した肌は感触も良くなく、黒い魔獣の毒素の影響なのかぴんと強ばっている。
「バーガンディからサフィーアの提案を聞きました。馬鹿げた案ですが、この娘はすでにトロテッカを動かす道具でもある。鍵を御すことは出来ませんでしたが、世間知らずな小娘の方ならば懐柔もしやすいでしょう」
「アクセル……?」
情など感じるはずもなく、冷たい視線のまま。桃子を見下ろし、残った左手を取った。
柔らかで小さな手は、アクセルの手の内にすっぽりと収まり、とても頼りない。
だがアクセルはそれを、千切れるかというほどに強く握り絞める。
「貴方はもはや王として機能しない。私はそう判断しました。……もう、ここには必要のない存在です」
アクセルの身の内には、怒りが燻っていた。
これまで敬ってきた魔王への強い失望。
そして継承権を己から奪い取った、桃子という簒奪者への憎悪で。
────……だがしかし。
熊のぬいぐるみは、アクセルの行動を見て驚くどころか、惚けた表情のままに腕を組んで可愛らしく小首を傾げる。
「アクセル」
「なんですか。今更惜しくでもなったのですか?」
「いや、お前の言葉をそっくりそのまま返すようで申し訳ないんだがな。…………お前少女趣味だったのか?」
熊のぬいぐるみの声色はかなり真剣だった。幼い頃から世話を焼いていたアクセルがそんな趣味だったとはと。
その真剣味の混じった驚愕の声にアクセルは内心で動揺しつつも、不遜な態度を崩さず言う。
「こんな小娘など、私の趣味ではありません。しかしトロテッカを治める為ならば、どんな相手であれ、受け入らざるを得ないでしょう」
「そんな理由で桃子の手を取ろうとするのか? アクセル、お前は昔から大人っぽい女性が好きだったと把握していたが、いつの間に趣旨替えをしたんだ?」
「だからそれは……!」
「俺はお前に苦労させた分、真実想う相手と幸せになって欲しいと思っている。その為にこれ以上無い女性を用意したというのに残念だ。お前の好みに見合うと思ったんだが。……ああ、仕方ないな。その女性は別の男に」
「魔王様!」
アクセルはぱっと桃子の手を払い、熊のぬいぐるみに向けて憤怒に染まった視線を向ける。
誂われているのが解っての怒りだ。
しかし熊のぬいぐるみは、緊張感のない笑みを貼り付けてなおも言う。
「どうしたアクセル。桃子を利用するつもりじゃなかったのか? この子の身体を乱暴に扱う気なら、こちらも容赦しないぞ」
「貴方は……ッ! どうしてそうなのですか。何でもかんでもお見通しの顔をして、いまも私をあざ笑うように笑みを貼りつけて……!」
「……これはぬいぐるみの地顔だ。好きで笑っているわけではない。それに幼い頃からお前を見ているんだ。何をどう考え、どういう風に行動するかぐらいは見極めているよ。アクセル」
熊のぬいぐるみは、拗ねたようにそっぽを向くアクセルの顔を掴み、己の方へと向けさせた。何度も反らそうとするそれを無理矢理に合わせ、頬をぺしりと叩く。
「言わなければ解らないか? これまでの事に対して憤りを感じるのは当然のことだ。だが俺に仕返しをしたいのなら、人を使わず自分の手でやってのけろ。関係ない人間を使うのは感心しないと言っているんだ」
「…………ッ!」
「他人を巻き込まないのなら、いつでも相手になってやる」
ぽんぽんとアクセルの頭を優しく叩くと、熊のぬいぐるみはアクセルの首元に突然ぎゅっと抱きついた。
その抱擁は以前幼少時代に感じていたものよりも、ふんわりとしていて頼りない。
アクセルは突然のことに狼狽し、複雑そうに目元を彷徨わせたが、熊のぬいぐるみは満足そうに喉の奥で笑う。
だがアクセルはそれを嘲笑と取り、怒りをあらわにして吠えた。
「何故笑うのです! 貴方はどこまで私を貶めれば気が済むのですか……!」
「別に貶めても嘲ってもいない。俺は嬉しいんだ」
「はぁッ!?」
「反抗するほど大きくなったのだなと思ってな。以前なら俺の言われるままにしていただろう。怒ることもせず、全ての感情を押し込めてな」
「……ッ……昔の事です」
事実、アクセルは魔王の心酔者であった。
己が敬うべき王として、そして大切な家族として。幼い頃から培われてきた慕う心はやがて盲信と成り、反発することもなく全てを受け入れていた。
だが目の前の熊のぬいぐるみは、それを嬉しいという。
「お前一人に役目を押し付けてすまなかった」
「……そう思っていらっしゃるのなら、何故帰還されなかったのですか」
「トロテッカを拒絶したことで怒りに触れてな。永い間、力が使えなかったんだ。力が戻ってもトロテッカは役目を放棄した俺を許してくれなかった」
「……帰ろうとは、されたのですか?」
「当たり前だろう。こちらの状況を見に来ると、お前と約束したんだからな」
熊のぬいぐるみは体を離すと、アクセルの肩をぽんと叩いた。
「これまでよく管理してくれたな。荒れていた土地がここまで回復したのも、お前のお陰だろう」
真ん丸なヒラメ顔。しかしその奥に、アクセルは小さい頃から従ってきた男の姿を見ていた。己よりも大きな背中に背負われ、がっしりとした太い腕で頭をぐりぐりと撫でられたこと。
ほのかに笑う姿は身内にしか向けられない、特別なものだった。
「俺では出来なかった事をお前は成し遂げた。お前は俺の事を厭い、疑うだろうが。俺はお前を後継者に選んだことを誇りに思っているよ、アクセル」
これまでずっと欲しかった言葉。
それを思わぬところで貰い、アクセルは照れくさそうに顔を背けた。
強烈な嬉しさと、相反した悔しさ。
「……貴方は、本当に狡い方だ」
己がどんなにいきがってさえ敵うことのない相手。
王としての素質は失ったが、姿が変わってさえその本質は変わってない。
そしてその言葉によって、永い間の苦悩が、ほんの僅かにほぐれていくのを感じていた。
「それでどうするんだ」
「何がですか?」
「桃子の事を本当に気に入って伴侶にしたいのなら、ちゃんとお付き合いしてからにして欲しいと思ってな。なにせこの子はまっさらだ。承諾なしに寝込みを襲うのは流石に感心しな……」
「伴侶などにしませんよ! 言っておきますが、私に女性を斡旋することもやめてくださいよ!」
「それだと俺が困るんだが。まさか老後の世話まで俺に見させる気なのか? 流石に下の世話はお嫁さんに」
「それこそが余計なお世話だって、さっきから言ってるでしょう! ────兄上!」
その昔、長きに渡る領土間の戦争に巻き込まれ、親を殺され何もかもを奪われたアクセルを引き取ったのは、丁度戦地後を修正しに来ていた魔王だった。
戸籍すら失った彼を家族として迎えいれ、時に厳しく、時に優しく。後にその性格と力の質を見込んで、後継者として育て上げた。
兄弟という形を取ってはいるが、実質親子の関係に近い。
それに魔王にとって唯一の身内が可愛くないはずもなく、全ての外敵から守るように愛情を持って育て上げ……。結果、かなりのブラコン気味になってしまったが、この無法地帯トロテッカにあってその精神はかなり健全に育てられている。
もっともそれも魔王が出奔するまでのことだが。
その奇妙な兄弟喧嘩は、それから小一時間は続いた。
桃子の診察に訪れたバーガンディが呆れて制止するまで続けられ、わだかまりは僅かに溶けたのだが。
「それで、この小娘が私の義姉上になるのはいつですか」
「ええっ?! 魔王様、まさかのロリコンだったんですか?! ……うっわ、結構ショックー……。未成熟な体の女の子にしか反応しない変態だったなんて、そんな人に長年仕えていたこと事態がもうアレっていうかウワーッていうか────辞表提出していいですかね?」
「……だから違うと言っているじゃないか」
熊のぬいぐるみが桃子に向ける感情に関して、アクセルは一貫して信じることなく。
その上、バーガンディにまでその性癖を疑われ始めていた。
微妙に反抗失敗