狭間の章3
世界を巡るうちに再び力を取り戻した男は、その世界に順応する術を知った。
人というのはなんと面白い生き物か、
同じ体の形と不快感を与えぬ程度の顔を貼り付け、
高い地位にあるだけで、あれだけ虐げてきた男の下に容易に膝を折る。
そうして気がつけばまるであちらの世界と同じように男に群がる人間達。
男はこの世界でも権力を持ち、意のままに振舞うことで徐々に力を蓄えていった。
どこにいても死なないのならば、もはや流されていくしかない。
そうして容姿や年齢、時に性別さえ変えて人間の世界に溶け込んだ男は
満たされない空虚を抱えながらも長い年月を巡り、
文明に満たされた平和な世界に落ち着いた。
他の世界と同様に言葉を覚え、文化を学び得たその先で、
とある一人の少女に目を留める。
「桃子さんったら、また空を見てるわ。ぼーっとして変な子よねえ」
「他の親戚のお子さん達はとっても優秀なのに、あの子だけぱっとしないのよね。他の子たちと違って推薦も取れなかったっていうし。親は恥ずかしくないのかしら」
話題の中心になっているのは、茶色の髪をきつく三つ編みにした、小柄な少女だった。
紺のセーラー服に身を包み、白いタイと紺のソックスが目に眩しい。
親族会の集まりの中で、一人だけ。所在無さ気に縁側に座り、何処か遠くを見ている。
その色素の薄い眼元が、男にとって妙に印象的に写っていた。
「あそこの社長は随分前から他所に妾を囲ってるからねえ。今はその妾との間に産まれた長男を教育するのに熱心で、本家には一切寄り付かないみたいよ」
「あらまあ。じゃああの子、どうするの?」
「高校卒業したら、適当な男と見合いさせて終わりじゃないの」
「何も出来ない上に跡取りとしても役に立たないだなんて、本当に”用なし”じゃない。……惨めねえ」
口さがない人間というものはどこにでもいるものだ。
他人の家の内情をあげつらい貶める。己とて家庭に後ろ暗い所がある癖に、
他人の粗を探すことだけには長けている。
しかしその実、個人でなく集団でしか行動できない所が
男には酷く滑稽であると感じていた。
……だがそんな人達ほど口は緩くできており、
男が少女の内情を知るのはとても簡単だった。
母親はすでに亡くなり、作家だった祖父に育てられたこと。
その所為か空想好きで、良く空を見てぼうっとしていることが多い。
祖父が死んでからは、大きな屋敷に一人で住んでいるようだった。
「桃子さん。一人で大変でしょう? なにかあったらいつでも相談になるからねぇ」
「私達、とっても気にかけてあげてるのよ。ねえ? 皆さん」
親切の中に隠された、嘲笑と悪意。
少女を介してその恩恵に預かろうという魂胆が、人々の背に見え隠れする。
少女とて先程の言葉が聞こえていないはずもないだろうに。
「……はい。ありがとうございます」
しかしどんなに言葉を耳にしてさえ、少女はへらりと笑っていた。
傷ついていないわけはない。その証拠に少女は口元は笑ってはいるが、
目元は常に虚で感情が無いものだった。
少女よりも不幸な人間など、幾らでも、世界には溢れている。
それなのに何故か、男は少女の事が気になっていた。
もしも、少女の目の前に誰かが手を差し伸べれば、
その虚ろは消えさるだろうに。
男は己の事でもないのに少女の姿に不安を感じていたのだ。
「……あんな若い子が。以前の俺と、同じ目をしているなんてな」
何もかもを捨て去りたい、そう思い詰めていた頃の己と同じ、虚ろな目。
男はその少女を見つけていたが、特に介入せずにいた。
下手に己が手を回せば、意図しない方向へとその人生を狂わす。
これまでの人生で、そのことをよく理解していたからでもある。
────しかし……。
男は再びあの存在の手によって世界から放り出され、
今度はよりにもよってその少女と共に世界を渡る羽目になる。
己の体がぬいぐるみとなり、ぽこぽこと動くことに驚愕したのは一瞬。
いやむしろ、それよりも驚くべきことは他にあった。
「……あの子には警戒心というものが無いのか……?」
持ち込んだ荷物の中にあったパスポート。
それにしっかり記載された、見覚えのある顔と名前。
以前はとても大人しそうだった少女。
しかし一皮剥けば、あまりにも夢見がちでド天然な子供だった。
後先を顧みない行動とぽやんとした思考。
そして以前の姿とは似ても似つかぬ、……ぷるんとした半透明なピンク色の姿。
真夜中にタンクルルに食われて死にそうになった所を水を与えて助け起こし、
雪山を転げ落ちて木っ端微塵になった所を破片を集めて治療し。
ろくに周囲を確認もせず、キラキラした目で嬉しそうに民衆の前に飛び出ていったときは、
頭を抱えて呻いていた程である。
見ているだけで不安になり、男の方がハラハラとして落ち着きがなくなってしまう。
────そうして気がつけば、
「こんなところで死にたくない!!」
「じゃあ助けてやろうか?」
男自ら、その少女へと手を差し伸べてしまったのである。