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3-21:執着するもの

 噴水広場に仮設された天幕の合間では、変わらず人がひしめき合っていた。

 様々な種族が悲哀に満ちた様相をし、噴水の回りに立ち並ぶ石造りの彫像へと祈りを捧げている。過去このトロテッカの為に奔走した、先祖達の勇姿を模した彫像。それを前にして人々は誰に指示されるでもなく、自らの手で献花を捧げていった。

 自分たちの為に、より良い道を切り開いてくれた先駆者達へ。冥府へと旅立った者達が死に伏して尚、更なる苦痛を味合わぬように祈っているのだろう。

 捧げられたスターリリアから淡い光が零れ落ち、まるで祈りを届けるかのように夜空へと舞い上がっていく。

 だがこの幻想的な光景を、喜ぶ者など誰もいない。

 今回の件で死亡した領民の数は三領合わせ三十名、殉死した護衛を含めれば三十二名。負傷者の数は五十余名に登る。だがこの密集した会場の中で、奇跡的なほどの死亡率の低さではある。

 宴を壊したその原因たる人物は、もはや誰の目にも明白だろう。当然、怒りの矛先はクロムフォードへと向けられていた。

 これまでの所業に恨みを抱いていた者も多く、今回の件によってクロムフォードの領王としての権威は失墜したとも言える。

 しかし統治者という枷が無くなったことによって、別の問題も出てくるだろうと懸念されていた。

 この場にいる領民を先導し、己の権威を殊更に示そうとする者、自らを王と立てるために手を回し始める者。

 こんな状況下にあってさえ、己に渦巻く野心を捨て去らぬ者は多い。

 その問題を解決することもだが、尻尾を巻いて自領に引っ込んだ南の領王についても、詮議に掛けねばならない。

 そして今回の宴で死んだ者達の追悼式も……。

 増えていくばかりの問題に女王は頭を悩ませつつも、ひとまずはそれを脇に置いやった。

 負傷した一般患者が使うものと同じ天幕の中。

 その中心にぽつんと置かれた簡素な寝台へと近づき、女王は横たわる存在の輪郭をたどる。


「……主たるわらわに気を遣わせるでない。この馬鹿者めが」


 冷たい口調とは裏腹に、その指先の触れ方は優しく。

 指先から伝わる確かな鼓動と呼吸音から、モモコが生きていることを確認し、女王は固く引き結んでいた唇をほんの少し綻ばせる。

 過去、クロムフォードと対峙して五体満足で帰って来たものなど居ない。その生死に関わらず、すべての者は心身を弄ばれ、無残な形で帰って来た。拉致されたことを察知した際、今回ばかりはモモコとて無事ではいられないだろうと、一時は諦めかけていたほどである。

 しかし負傷しながらも生きて帰って来たモモコを視界に留め、女王は静かに目を閉じた。


「どれくらいで治るのえ。アズラミカ」

「ええとぉ~。短くて七日、長くて十日程度だそうです~。ここまで首が捻れていると普通に直すのはタイヘンですから~」


 侍女が卒倒した本当の理由、それはモモコの顔と首にあった。

 クロムフォードの手によって捻れた首、そして顔を中心として木の根のように張り巡らされている黒い痣だ。

 それは魔獣に口から侵入された際にできた、毒の痕でもあった。

 脚や腕にも黒い痕が浮き出ており、本来なめらかな肌を歪に隆起させている。それを厭うことなく、女王は何度もその肌に指を滑らせた。


「水を与えれば治るのではないのかえ。診断書にはそう書いてあったがの」

「アタシもそう思ったんですけどね~」


 アズラミカは傍らにいる男をちらりと見やり、男はそれに応えるように静かに頷いた。金髪の白衣の男、バーガンディは、小脇に抱えていた書類を女王に見やすいよう空中に提示していく。


「ただの丸い形のスライムでしたら、の話です。いまは薬で身体を固めていますから。もしこの状態のままに水を与え続けたら、気道が完全に塞がって呼吸が出来なくなってしまいます。流石にそれは核にも悪影響ですから、一度体を元に戻してから整形する、って感じになるでしょうね」

「だそうですわ~」

「ぬしらの技術も意外にあてにならんの」

「そう言わないでください、陛下~。まぁどっちにしろ~、体は毒にやられてますから~洗浄しないといけないですし~」

「スライムのままでもいいなら、瞬時に治せるかもしれませんが。如何されますか、陛下」


 診察表をトントンと指の背で叩くバーガンディは、まるで試すように口の端を上げる。その一言に口を開きかけた女王であったが、嘆息しながらも承諾の意思を示した。


「ふん。仕方ないの。日をやる。だが必ず元の形に戻せ」

「畏まりました」

「では~アタシは準備にとりかかりますので失礼いたします~」

「大儀であった。ああ、そこの医師は残れ。まだこれのことについて、二三聞きたいことがある」


 女王はアズラミカとカレン等を下がらせ、周囲をぐるりと確認すると、天幕の内部に微弱な電流を走らせた。

 死ぬことはないが、電流の網に掛かれば数時間は体が痺れて動けなくなるだろう。

 それに、ここから先の話を聞き入れていい者は限られている。

 護衛の体を食い荒らした黒い生物は、現在一体のみ捕獲されたが、クロムフォードが使っていた盗聴機能がある黒い蟲。それが展示会の裏で出周り、すでに数匹売れていることが確認されていた。

 誰が購入したのか聴取したが、いまだ中層階の亜人である、ということしか解っていない。

 そして魔王領へと提出したモモコの書類についても同様。アクセルの部下からの申告によれば、提出されたと思われた書類が何者かによって盗まれていた、という事も解っていた。

 盗聴に横領、そして宴の混乱に紛れ、桃子だけを狙いすましたかのような拉致。

 女王も、そしてアクセルも知りえぬところで、動いている者がいる。

 今回の一件に関与しているのか、それともクロムフォードがその手駒として使われたのかも、定かではない。

 ────だが二度と、同じ過ちは犯すまい。

 女王は城から新たな人員を呼び寄せ、危険性のあるものを排除し、周囲を監視させた。

 しかし、バーガンディは天幕の内側に煌く雷を目に付け、呆れたように息を付く。


「徹底してるねえ。もしかして僕、サフィーアちゃんの弱味握っちゃった感じ?」

「これはわらわの所有物であり、下層領民の生活全てを養える金蔓じゃ。警備を強化するのは当たり前じゃろう」

「ふう~ん。まあ、そういうことにしときましょうかね」


 先ほどとは口調もガラリと変え、バーガンディはしたり顔で笑う。

 本来ならば、バーガンディの罪を咎めるつもりであった。しかしモモコを含めた重傷患者のこともあり、無償奉仕させることを条件として、北領での件を一部不問に付したのだ。

 魔王領の技術は北領に比べればやはり最新。

 黒い魔獣にやられた重症患者は、現在魔王領の助けによって順調に回復へと向かっている。

 しかし内心では面白くないのか、女王はバーガンディから視線を外し、忌々しげに目元を潜めて煙管の端を噛んだ。


「解ったような口をきくでない。なんなら奉仕期間を延長させてもよいのえ?」

「僕は別にいいよ。こっちに居た方のが断然楽しいし。どうせならサフィーアちゃんにも無償奉仕したいなぁ」

「よし。ならば今ここでぬしの背の羽を毟りとり、穴という穴に突っ込んでやろう。楽しい遊びになるじゃろうて」

「わーお。刺激的だけど、流石にそういうお遊びは僕の趣味じゃないからご遠慮しとく」

 

 目の前に迫った銀爪の閃きに、バーガンディはお道化たように両手を上げて素早く離れた。

 女王は苛立つ気を紛らわせるように、痛々しい姿のモモコを見定め、だがその視界の中に奇妙な物を見つけて、呆れたように目元を半眼にした。


「しかし、こやつも哀れじゃの」


 そこあるのは白目を向いて倒れている一人の男性。

 仮設ゆえ何も布かれていない石畳の上、誰の手にも介抱されること無く放置されている。

 カレンの心使いでその様が見られぬよう、体に白い毛布を被せられている。

 だがそれによって、その姿が死体のようにも見えていた。


「まあ仕方ないよ。かなり長いこと待っていた相手があんな格好だし? ……正直僕も卒倒したいくらいだもの」


 そう言いつつも床に転がっている男は助け起こさず、二人は件の重要人物へ視線を向けた。

 黒いフェルトで作られた長方形の眉と、ドーナツ型に切り抜かれた揃いの丸い目元。プラスチックの黒い鼻先に続く、猫のように柔らかな曲線を描く口元。常に開きっぱなしの口は笑みを刻んでおり、威厳ではなく和みの雰囲気を漂わせている。

 夢と綿がたくさん詰まった、ぷくぷくの熊のぬいぐるみ。

 以前バーガンディが狭間の中で見つけた物とそっくり同じものだ。しかしこちらには黒い眼帯が付けられており、意思を持って自在に動き、喋ることもできるようだった。

 バーガンディはモモコの証言が本当だったことを認めるも、そのマヌケな様相に乾いた笑みを貼り付ける。その反面女王は愛らしい姿を見留め、指をわきわきとさせていた。

 だがカレンからの報告を思い出し、触れるのを躊躇する。

 にわかには信じがたい事実ではあるが、魔王領の役人であるバーガンディが認めた上に、力の質も女王のそれより上。

 判断材料は少ないが、あの暴君をあっさり捕らえた、という一番の証拠もある。ひとまずは認めるしか無いのだろう。

 まあもう一方の人物は、事実を受け止めきれずに気を失ったようだが……。

 熊のぬいぐるみは二人の不躾なまでの視線を受け流し、緊張感のない顔で、モモコの傍らにその体を落ち着けていた。


「────魔王陛下、とお呼びした方が宜しいですかの」

「ん? なんだ」

「ご帰還早々にお手を煩わせてしまい、申し訳ございませぬ。本来ならば領王たるわらわが始末をつけるべき案件でしたのに」

「別に構わない。あの男を捕まえたのはついでだしな。まあその代わりといってはなんだが、あれの身柄に付いてはこちら側で預からせてもらう」

「は、ですがの……」

「処断については追って連絡する。君は宴の場にいる者達の混乱の抑制と、補助を優先してくれ」


 有無を言わさず命令され、女王は傍目には解らぬほど僅かにその柳眉を潜めた。だがクロムフォードを捕らえられなかったのは、北領側の落ち度でもある。

 出来ることならばクロムフォードの体をその手で引き裂き、魔獣の餌にでもしてやりたかった、というのが女王の心情だったが。

 女王はそれらの感情を全て押し込め、美しい顔に艶やかな笑みを貼りつけた。


「魔王陛下の御心のままに。またご寛大なお心使い、恐縮にございます。しかし一つだけ、わらわには気に病んでいることがございましての」

「言ってみろ」

「今回の件、三領へ定められたあの約定に抵触するのでは、と。……領王たるわらわとしては、悲しみに満ちた領民へ、更なる苦痛を強いられるのではと心配なのですえ」


 もしも約定が執行されるのであれば、王を止められなかった連帯責任として、首を刈られるのは東領民である。

 北の領王たる女王には直接関係はない。

 しかし昔とは違い、現在では北領の民と婚姻関係にあるものも少なくはないのだ。

 新たな負の連鎖は更なる悲劇を生み、動機は違えど第二のクロムフォードを作り出す可能性もある。

 ならばいまここで、芽が出ぬ内に連鎖を断ち切るべきだ。

 女王は個人的な感情を収め、ひとまずはそう結論づけた。熊のぬいぐるみを静かに見据えると、じっとその答えを待つ。


「今回は領土間での大きな戦ではないからな。適応はされないだろう。安心していい」

「……ご温情に、心より感謝致します」


 厄介事が一つは減ったと女王は内心で安堵する。

 しかしふと気を抜いた隙に、するりと入ってきたヒラメ顔のぬいぐるみ。その顔を見るにつれ、女王の口元が引き攣っていった。

 眼前にいるのは確かに、この世界において最高位にあたる魔王なのだろう。しかしその入れ物の顔は、場の雰囲気をぶち壊すほどの破壊力があった。

 ────……笑ってはいけない。

 それは重々解っているが耐え切れず、女王は不敬と知りつつも顔を背けて笑いを噛み殺す。

 だがぬいぐるみはそれを意に介することもなく、傍らに眠る存在へと視線を向けた。

 寝台に横たわるモモコは、深く眠りについていて目覚める気配もない。本人は痛みを感じていないようだが、その損傷は激しく、生命維持のため休眠状態に陥るほど深刻なものだ。

 熊のぬいぐるみはモモコが眠ってから片時も側を離れることなく、まるで労るように何度も残った小さな手を撫でていた。

 その触れ方は女王のそれにも良く似ていて、しかしもっと熱が篭っているようにも見える。

 寄り添う二人の姿に女王はやっと笑いを納め、その居住まいを正した。


「魔王陛下。此度のトロテッカへのご帰還、大慶至極に存じ上げます。永い時を経て、このトロテッカも陛下の知り得るものとは些か様変わりしておりましょう。微力ながらこのサフィーア。先々代の北領女王ユーフェミアの頃より賜った恩義をお返しすべく、陛下にお仕え申し上げます」


 過去の書類に記してあった情報からすれば、魔王と先々代の北領王夫妻は長く懇意の仲にあったとされてる。

 しかし、サフィーアにとっては所詮他人。

 先々代の女王時代からこれまで、北領は優遇措置をされていたが、今と昔では道理も違ってくるだろう。それにもしも目の前にある存在が王足りえないものならば、その関係も変えねばなるまい。

 互いの干渉は少なく、しかしその恩恵はこれまでと同様に。

 女王はそんな打算をその身に内包しながら、敬々しく礼を取る。だが熊のぬいぐるみはそれを受け入れるどころか、手をやってその礼をやめさせた。


「そう言ってくれるのは有り難いのだがな。できれば俺でなく、別の者を手助けしてやってくれ」


 その一言に女王だけでなく、脇に控えていたバーガンディも目を見開いた。今更何を言っているのか。

 女王は最早訝しげな表情を隠さず、バーガンディもまた、魔王が出奔するのではと気が気ではなかった。

 もっとも、全体的に緊張感が無いため、張り詰めた意識はすぐに霧散してしまうのだが。


「一体、どういうことですのえ?」

「何か勘違いしているようだが、俺はこのトロテッカから出ていく前、その全権をアクセルに移譲した。もう隠居している身であり、現在の立場は相談役、もしくは後見人というのが妥当なんだが」

「あれ? やっぱりそうだったんですか?」

「何の対処もせず、この世界を放り出していくわけにはいかないだろう。元々アクセルは後継者として育て上げた男だからな。適任だと思ったんだが」


 言葉の端を切り、熊のぬいぐるみは床の上に転がる後継者の姿を視界に留めた。しかしピクリとも動かない体を見て、複雑そうに嘆息する。


「バーガンディ。アクセルは何故王位を継がなかったんだ? 君と協力してこの地を治められるようにと『眼』を預けたはずだが」


 バーガンディに与えた紅い眼の宝石は、魔王と同じく界を渡る力を内包している。バーガンディ一人では狭間を渡ることしかできないが、アクセルと協力すればそれなりの成果を出せる代物だった。

 しかしバーガンディはその言葉を聞くなり、どこか遠くを見るような顔をして眉間の辺りを揉んでいた。


「魔王様。自分で言うのもなんですがね、────……ぶっちゃけ人選ミスです」

「は? どうして? 昔はあんなに仲がよかったじゃないか」

「昔は昔、今は今です。魔王様が居ない間にこちらも色々あったんですよ。……まあそれは置いとくとして。閣下は元々他人の意見を素直に聞くタマじゃありませんし? 魔王様以外は王として認めないという頑固ものでして。多分自分が王位を継ぐ、という選択肢すら、思い浮べようとしなかったんじゃないですかねぇ」


 バーガンディはやや哀れみを含んだ表情で、床に寝転ぶ後継者を見やった。

 宰相となってからそれこそずっと、アクセルを側で見てきたお目付け役のバーガンディは、最初こそ頑固すぎる彼の気性をなんとか和らげようと奮闘していた。

 もう魔王の事は忘れて王となれと再三に渡って説得したが、いつも怒鳴られ空回り、次第にその関係性も曖昧になり、いまでは完全パシリ扱いである。

 これまでの苦悩を思い出し、バーガンディは複雑な笑みを貼り付ける。

 しかしアクセルを哀れと思うことはあれ、やはり心から恨むようなこともなく。ただ魔王に対してどう思うかと問われれば、やはり面白くないことは確か。

 何故ここまで放置しておいたと、アクセルに対して同情するくらいである。


「魔王様がどうしてここを出て行かれたのかは、閣下もすでに理解されてます。これまで貴方が一人で、どれだけ苦労されたのかもね」

「……苦労を掛けたな、バーガンディ」

「はい。散々に掛けられました。もう後見人でもなんでもいいですから、放置プレイも程々にして、ちゃんと優遇してあげてください。ついでに僕もね」


 己の苦悩を言い募らず、また責めることもなく。

 誂うような口調でそう告げるバーガンディに、熊のぬいぐるみはその目を伏せて頷いた。


「……そうだな。きちんと説明もせず、役目を押し付けた俺にも責任はあるのだから」

「────なれば魔王様が再び王として立つ、ということで宜しいのですかえ?」


 魔王領には魔王領なりの事情があることは解った。

 だが女王にとっては、魔王の不在やアクセルの事など、もはやどうでもいいこと。

 実際魔王など居らずとも、己の力と領民達の知恵でこれまでやってこれた。それに長年滞りもなく物資を送ってきていたアクセルの実績を認めることはあれ、これまでのことについて長々と文句を言うつもりもない。

 まあ、他領の者らの見解はまた違うだろうが。

 それよりも気になるのは、今後の対処、そしてもう一つの事についてだ。


「それは無理だ。俺は役目を一度放棄した。これだけの時を開けておいて、再び就任するのは許されないだろう。どの面下げて、と追い払われるのがオチだ」

「魔王様……」

「バーガンディ。責任を取りたくとも、こればかりはどうしようもないんだ。権限を譲渡した時点で、すでにここでの王としての役割は終えている。その証拠に、……ほら」


 空中に円を描こうとした熊のぬいぐるみ。しかしその先には何も現れず、ただ空が歪んで消えていく。


「空間を操る力も薄れてきている」

「しかし侍女からの報告では、その能力を完璧に操れていた、と聞き及んでおりますがの」


 カレンからの報告をもとに女王が指摘すると、熊のぬいぐるみは頷き、寝台に眠るモモコへと視線を定めた。


「それは桃子が側に居たからだろう」

「モモコが?」

「ああ、この子がそれを強く願わない限り、俺の能力はもう一切使えない。そういう段階まで力を落とされているんだ」


 熊のぬいぐるみは疲れたように、こめかみを揉みしだきながら言葉を繋ぐ。


「本来ならばアクセルが次の王として、このトロテッカの面倒を見ていく筈だった。しかし永く空位が続いたことで、その認証を取り下げられてしまったのだろう」

「取り上げられた? って一体誰に……」

「この世界の本当の主、トロテッカだ」


 突然出てきたトロテッカの名前。しかも主という響きにバーガンディは眉をひそめて腕を組む。


「トロテッカ、ってこの世界の名前じゃないですか? 一体どういう……」

「ただの名称ではない」


 熊のぬいぐるみは困惑する二人を前に躊躇するような仕草を見せたが、やがて諦めたようにそのもにゅっとした口を開いた。

 この魔界に眼に見える神はいない。しかし神に等しく力を振るう存在は居た。

 その名称はトロテッカ。普段は蝙蝠の翼の形をした大陸の姿を成し、身を潜めていはいるが、その体は今も活発に動いている。そしてその内部に途方も無い力を秘めていた。

 気性の荒いトロテッカは、機嫌を損ねればすぐに地震を起こして崩壊の兆しを見せた。大気中の温度や空気を変質させ、時に水害を起こして地上にいる生き物を容易に淘汰していく。

 いわばここに住む住人はトロテッカの意思によって生かされているだけであり、簡単に殺されてしまう玩具のようなものだ。

 そのわがままな世界を操縦するために呼ばれた管理者が、歴代の『魔王』と呼ばれる存在だった。

 各王が戦をしないようにあのような約定を取り決めたのも、全てはトロテッカを刺激させないように努めてきただけ。

 そしてこれまでこの世界に作られた約定の多くも、トロテッカの意思を汲みとってできたものである。


「トロテッカは非常に扱い辛い大陸でな。俺が王として選ばれた時には、すでに崩壊寸前だった。それを管理しつつ、僅かに残った領民を再教育しつつ、……当時は相当骨を折ったものだ」


 ようは板挟みの状態だ。

 王としては民を守る義務がある。とはいえどちらかの側に付けば必ず問題が起き、トロテッカを蔑ろにすれば勿論、多くの民が死ぬ。

 王を頂きながら、領王という奇妙な役職が出来たのもその結果にすぎない。

 魔王はトロテッカという大陸を管理し、領王は民を管理する。

 そうして役割を分担し、互いの干渉を少なくすることでやっと、現在のトロテッカに落ち着いたのだ。

 熊のぬいぐるみは当時を思い出しでもしたのか、やや疲れたように両の手を使ってこめかみをぐりぐりと揉んでいた。


「では、あのような鬼畜な約定は全てトロテッカの……?」

「全てがトロテッカの意思というわけではない。俺が制定したものも幾つかある。悪法も多いがな。……だがそのくらいしなければ、トロテッカの逆鱗に触れて全滅まで行っていたよ」


 疲れたように溜息を付く熊のぬいぐるみ。そしてその口から放たれる事実に女王は眉を顰め、バーガンディは唸るような声を出す。

 世界が意思を持つなど到底信じられるものではない。

 そしてその目で見えないものによって、生かされているなど……。

 だが皆、未だに白目を向いて床の上に転がっている男を見ることは忘れなかった。

 彼一人が悪いというわけではない。

 しかし、もう少し野心と柔軟さがあれば……と女王ですら思わずにはいられなかった。


「それからもう一つ問題がある」

「え。これ以上にまだ何かあるんですか?」

「ああ、アクセルの次に、選ばれた王についてだ」


 次の王と称した熊のぬいぐるみに、女王はすぐさま眠っているモモコを見下ろした。女王のもとにやって来た現在の鍵の所有者。そして先々代女王が遺した石碑文。

 それを思い出し、女王は珍しくも困惑したように額を抑える。


「まさか本当にモモコが次代の王、なのですかえ?」

「そういう位置づけになるのだろうな。選ばれたのはおそらく偶然だったはずだ。しかしここ数カ月間、トロテッカの意思を聞き及んでいたが、どうも桃子を気に入ってしまったようでな。なんとか元の世界に帰そうと説得したんだが……」

「元の世界? やっぱり、この子」

「ああ、元々は別の世界にいた人間だ。女王、君は『瞳』を受け継いでいるから気づいたんじゃないか」


 北領王が前王から受け継いだ星の瞳。

 それは領民を端々まで管理しやすいように、また物事の真理を見渡せるように、王の認証と共に北領王に受け継がれている秘宝でもある。


「住人として認識する際に見た、これの丸い耳が印象的でしたえ。……まあ特に見ずとも、これの言動から素性は伺えましたがの」

「この子って初対面の僕からでも、なに考えているがわっかりやすい顔するもんねえ。尋問する気もなくなるくらい。けど人間が何故魔界なんかに堕ちて来たんですか? 通常ならとっくに腐って死んでるはずですけど」


 この魔界には有害な物質が多く含まれており、毒素を持つ動植物や微生物が多く存在している。原住民は古くから体に慣らされているため毒に強く、また汚染された作物を食べたとしても身体に影響は少ない。

 しかし人間は違う。空気を吸うだけでも肺が腐り、花びら一つ触れるだけで肌がただれて崩れ落ちる。もしも世界に順応したとしても、それはすでに骸。意思もない抜け殻でしかない。

 そんな危険な場所であるにも関わらず、わざわざ形を変えられてまで、この世界に迎え入れられた。

 モモコがこちら側に来たその動機までは知らないが、本来生き残れないはずの軛を外し、引っ張り込んだのは確実に……。


「トロテッカが受け入れたとしか考えられないな。……しかしこの子も何故、自分からこんなところに来たんだか」

「でもまあ。偶然にしても、そんな高待遇なんてあり得ないですし。この子にとっては逆にいい事なんじゃないですか」

「そうとも言い切れないだろう」

「どうしてですのえ?」

「これから先、あちらの世界に帰ることは叶わなくなる。そればかりか、トロテッカの気質にあう次の王を見つけ出さない限り、……この子はこの場所で永遠に生かされ続けることになる」


 トロテッカは実に気まぐれだ。自分の意思に正直で、嫌なことがあれば暴君になりえ、嬉しいことがあれば慈悲深い父親のようにもなれる。

 だがそんな気まぐれな彼に気に入られてしまった桃子は、ある意味で不幸ともいえる。

 その代償として人という身にありながら、永遠の命を与えられ続け、否応なく強制的に側に添わされる。

 その苦痛は歳を重ねるにつれ色濃くなり、その精神に異常をきたすだろうと、熊のぬいぐるみは予測していた。

 それは過去トロテッカによって良いように人生を左右されてきた、自身の経験から導き出された答えでもある。


「今回の件でよく解ったが、桃子は人に懐く性質のようだからな。自分を置いて大事な人々が先に逝ってしまう。そんな苦痛にはおそらく耐えられないだろう」

「それは……」

「女王。今回の事を君に開示したのは桃子のことが関係しているからだ。君ももう、それを理解していると思うが。違うか?」


 女王はその言葉を聞いて、宴での出来事をすぐに思い出す。

 香水の件が露呈したときのあの騒ぎよう。そして危険な中でさえ側にいると息巻き、珍しくも己の意思を主張した事。

 今回は危機をまぬがれたが、最悪をたどった場合の予測などすぐにできる。

 己の亡骸に縋りつき男泣きするネブラスカと、一緒になってビャービャー大泣きするモモコの姿が。


「ほんに、愚かな……」


 女王は煙管を外すと、何事かを考えこむようにして、その長い睫毛を伏せた。


「それじゃあまた、次代の王を捜すんですか?」

「さて、それで上手くいくといいんだが。トロテッカはすでに異常なほど桃子に執着してしまっている。これこそ恋人を扱うような素振りでな。俺が何度説得しても、もう聞く耳も持たない。簡単にはいかないだろうな」

「溺愛、というよりは執着に近いですねえ……。なんともまあ」


 かなり嫌な好かれ方だと、バーガンディは微妙な面持ちで頬を掻く。だが女王はその話を聞いて美しい瞳をギラリと瞬かせた。


「それほどまでに執着しているのなれば、逆に利用はできませんのえ?」


 女王の言葉に、熊のぬいぐるみとバーガンディは首を傾げる。女王は訝しげな視線を送る二人を前にして、ゆったりとした動作で煙管を口に含んだ。


「これまで側でモモコを見定めてきましたが、これは到底人の上に立つ器ではありませぬ。四ヶ月の間に多少なりとも成長しましたがの。まだまだ周囲の物事に目を向けられず、己の事で手一杯。領王としてはそのような狭き器の者に、トロテッカの未来を託すわけにはいきませぬ」

「……確かに、現状ではそうだろうな」

「ならば事をもっとやりやすくすれば宜しい」

「つっても、一体どうやって……?」


 女王は不遜とも言える態度で腕を組んだ。

 そして口から語られる計画に、困惑をあらわにする二人の男。しかし女王はそれを前にして尚、艶然とした笑みを向ける。


「そんなむちゃくちゃな。サフィーアちゃん。これはそういう事で片付けられる問題じゃ……ちょっ! アブないなッ!」


 女王の雷で跳ね返されたバーガンディは、ビリビリと己の手のひらに走る衝撃に呻きながらも、サフィーアの発言を阻止しようと手を伸ばす。

 しかしそれは叶わず、その平手によって地に打ちのめされた。


「────モモコは王でなく……」


 女王の発言に、バーガンディは床の上でぽかんと口を開け、熊のぬいぐるみはぐりぐりとこめかみを摩る。

 そして唸るようにして、眠るモモコを見つめていることしかできなかった。

変化編終了です。読んでくださってありがとうございました。

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